明けましておめでとうございます。
2011年を迎えました。
正月というのは、素晴らしい日だと思います。
時間は、同じように過ぎていくのですが、新しい気持ちで一年を始めることができるからです。昨日も、元旦礼拝をささげ、今年一年やりたいことを語り合いましたが、もう一度、今日このところから、新しい一年をはじめさせていただきましょう。
今年の年間聖句は、Ⅰコリント3:16です。みなさんでご一緒に読んでみましょう。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
今日よんでいただいたコリント人への手紙は、パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙です。コリントという町は交通の要であるギリシャ湾にある町で、大変繁栄した町でした。しかし、残念なことに、いたるところで偶像礼拝が行われ、道徳的にも宗教的にも退廃してたのです。
また、教会の内部にも争いが絶えず、「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と分裂の危機を迎えていました。
そのような、教会の外部にも内部にも大きな問題を抱えている教会に対してパウロは、大切なことを伝えました。それが、今日読んでいただいた聖書の御言葉です。
この聖書の箇所には、私たちが祝福された信仰生活を過ごすために、また祝福された教会を建てあげるために、3つの大切なことが書かれています。
(1)しっかりとした土台に建てること
10節前半
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。」
建物を建てるのに一番大切なのは、土台です。熟練した建築士は、土台作りに力を入れます。
土台がなければ、家は建ちません。それは、私達の山形南部教会も同じで、土台がなければ、どんなに素晴らしい建物が建っても、それはすぐに倒れてしまいます。
けれども、土台作りというのは、地味で土の中に埋められてしまいますので、目立たない仕事です。そこで、多くの人が、その土台作りを軽んじて、目に見える華やかさや豪華さに目を留めてしまいます。
ところが、パウロは、誠実で熟練した建築家が家を建てるように、何よりもまず信仰の土台を据えることが大切だと語っているのです。
イエス様は、マタイ5~7章で、山上の説教を語られていますが、その一番大切な結論の部分で、賢い人と愚かな人のたとえ話をしておられます。賢い人は、岩の上に家を建てますが、愚かな人は砂の上に家を建てます。
やがて、雨が降り、洪水が押し寄せ、風が打ち付けました。すると、岩の上に建てた家は倒れませんでしたが、砂の上に建てた家は、倒れてしまいその倒れ方はひどかったと書かれています。
わたしたちは、どのような土台の上に家を建てようとしているでしょうか。
イエス様は、この賢い人というのは、「わたしの言葉を聞いてそれを行う者だ。」とおっしゃいました。
Ⅰペトロ1:24(P429)
「こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
草は枯れ、花は散るとありますが、この世のどんなに華やかに見えるものも、やがては枯れて散るはかないものです。そのようなものを土台にすると、その家は倒れてしまいます。
イエス・キリストを信じる信仰、永遠に変わることのない主の言葉、これが私たちの土台です。決して倒れることのない土台の上に、私たちの人生という家を建てあげさせていただきましょう。。
パウロは10節前半で
「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。」と言っています。 新しい年を迎えた今、もう一度、イエス・キリストを信じる信仰と主の言葉という土台をしっかりと据え直して、2011年の新しい歩みを始めさせていただきましょう
(2)どのように建てるかに注意する。
10節の後半には、
「しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」とあります。
建築については、専門家の川上さんにお聞きすればいいのですが、建築家は、家を建てる時、どのような材料を使うかを吟味します。出来るだけ良いものを予算の範囲内で選び、住みやすいように家を建てるのではないでしょうか。
そのように、パウロは、パウロが据えた信仰という土台の上に、教会を「どのように建てるかに注意すべきです。」と言っているのです。
12~13節をご覧下さい。
「 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
この教会を建てるために用いられる材料には2種類のものが書かれています。
一つは、ここに「金、銀、宝石」とありますがそれは、永遠に朽ちないものを表しています。
そして、「木、草、わら、」というのは、一時的でやがては消滅してしまうものです。
私達は、何を求めて生きているでしょうか。お金や地位や名誉でしょうか。この世の物はやがて朽ちてしまう一時的な物です。
それとも、神様が与えてくださる、永遠に代わることのない、恵みでしょうか。
何を求めるかで、その建てあげられる建物は、大きく代わってしまいます。
新年を迎えました。私たちは、朽ちてしまうこの世のものを求めるのでなく、永遠に残る、霊的な材料で、私たちの霊的な生活を、そして教会を建てあげさせていただきましょう。
まず、祈りの祭壇を築き直させていただきましょう。
朝の15分があなたの人生を変えると榎本保朗先生は言っておられますが、朝の祈りの時を大切にしておられるでしょうか。もし、祈りの祭壇が、壊れているなら、そこから始めさせていただきましょう。それこそが、2011年が祝福される秘訣です。
八木重吉の詩の中で、最も好きな詩の一つに、「祈り」という詩があります。
「祈り」
ゆきなれた道の
なつかしくて耐えられないように
わたしの祈りの道をつくりたい。
故郷に帰ると、昔通った、通学路が懐かしくてたまらなくて、歩いてみたくなります。
そのように、自分の祈りの道をつくりたいと、八木重吉は歌っているのです。わたしたちが、歩んできた人生の中に、懐かしくてたまらなくなるような祈りの道をつくることができたらどんなに素晴らしいでしょう。
そして、御言葉を読みましょう。
エレミヤは、御言葉を与えられてそれを食べました。と言っています。
エレミヤ15:16(P1206)
「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。」
御言葉は、私たちの霊の糧です。食べ物を食べないと、私たちの身体が弱ってしまうように、私たちが神の御言葉である聖書を読まなかったら、霊的に弱ってしまうのは当たり前です。そして、ご馳走を食べると、嬉しくなるように、私たちが御言葉を読むと、私たちの心は、喜び躍るのです。
私の去年の悔い改めは、一年で通読をする予定でしたが、途中で途切れてしまったことです。でも、また諦めないで、もう一度今日から通読を始めます。週報ボックスに通読表が入っていますので、ぜひ、通読を始めましょう。そして、御言葉によって養っていただきましょう。
また、大切なことは、礼拝を守ることです。
昨日、3番目の弟から、電話がありました。弟は、今ウェスレアン・ホーリネス教団の福岡栄光教会に通っていますが、「お兄ちゃん、僕、皆勤賞をもらったよ。」と嬉しそうに報告してくれました。
元旦礼拝と父の記念会の時に、北九州復興教会で礼拝に出席したので、二回だけ、福岡栄光教会に出席できなかったのですが、皆勤賞をいただいて、本当に神様の恵みだと言って感謝していました。
山形南部教会でも、今年は、そのような賞を用意したらいいと思っていますが、とにかく、礼拝は私たちの命です。礼拝を守って、神様の栄光を表す一年を過ごさせていただきましょう。
10節の後半には、
「しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」
新しい一年間、私たちの生活の中で、一日一日、どのように過ごすか注意をして、素晴らしい家を建てあげさせていただきましょう。
(3)あなたがたは神の神殿です
3:16
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
この御言葉が、神の神殿を建てる上で、一番大切な御言葉です。どんなに土台のしっかりした神殿が建ったとしても、また、最高の材料を使って、立派な神殿ができたとしても、その中に、神様がおられなかったら、それ程、空しいことはありません。
しっかりとした土台に、注意深く最良を吟味されて造られた神殿の王座に、イエス・キリストをお迎えしましょう。
この16節で、2つのものが、神の神殿に譬えられています。
一つは、私たち、イエス・キリストを信じたクリスチャンです。私達がイエス・キリストを救い主として信じた時、イエス様が私達の心の中にお宿り下さいました。ですから、私達一人一人は、大切な神の神殿なのです。
宗教改革者マルチンルターはこう言ったそうです。
「もしわたしの心を開いて『ここにいるものは誰か』と尋ねたならば、私はこう答えるでしょう。『ここにいる者は、ルターではない。彼はずいぶん昔に死んでしまった。今ここにいるのは、イエス・キリストである』」
そして、私達もルターのように言うことが出来るのです。「私の心にいるのは、私ではない。キリストが私の内に生きておられます。」
私達の体は、イエス・キリストを信じる信仰によって、「聖霊が宿ってくださる神殿」とされたのです。そのことを信じましょう。そして、聖霊の神殿として神様の栄光のためにこの体を用いていただきましょう。
そして、もう一つは、その救われた人達の集まりである教会が神の神殿であることで
16節で、パウロは、コリントの教会に対して、「あなたがたは神の神殿です。」と言っています。それは、イエス・キリストの体であるすべての教会に語られている言葉です。一つ一つの教会が、イエス様が、十字架で命を捨ててくださる程に愛する大切な「神の神殿」なのです。
そして、教会が「神の神殿」であることをいつも覚えて、神様を礼拝することが、私たちが祝福を受ける秘訣です。
アメリカに、ジョン・ワナメーカーは、昔は書店の店員をしていましたが、そこから身を起こして世界屈指のデパート経営者となった人として有名です。
しかし、彼はどんなに忙しくても、毎日曜日には、フィラデルフィアに帰り、礼拝に出席することと、日曜学校の教師をすることは、絶対に変えませんでした。
ある時、ワナメーカーは政府から内閣に入ってくれないかという要請を受けました。その時彼は、こう返事をしたのです。
「アメリカの政府の一員として働くことはとても大切な事だと思いますが、そのために、教会の礼拝に出席できなくなったり、日曜学校の教師をすることができなくなるようでしたら、お断りいたします。」
政府は、その彼の強い信仰に感銘を受けました。そして、「どうぞ、日曜日には礼拝に出席し、日曜学校の教師もそのまま続けてください。ですから、私たち政府の要請を受けて下さいませんか。」
その条件を承諾して、ワナメーカーは、1889年から1893年まで、ハリソン大統領のもとで、郵政公社総裁を務めました。
その後、彼は全米に日曜学校を建てあげました。そのほか、新聞や雑誌を発行して、キリスト教、教育事業に大変大きな働きをしたのです。
3:16
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
イエス・キリストによって救われたあなたがたは、神の神殿です。あなたがたはその事を知らないのですか?
そして、この教会は、神の神殿で、神の霊が住んですることを知らないのですか?
とパウロはコリントの教会の人達に言っているのです。
私たちの神殿に、イエス様をお迎えしましょう。
そして、神の神殿である教会で、神様を心から礼拝をささげて、祝福された一年を歩ませていただきましょう。