4/10 主日礼拝

「彼らをつまずかせないように」マタイ17:22~27

今日は、川上 悟兄に被災地の復興支援のお証しをしていただきました。 明日で、東日本大震災から1ヶ月が経ちますが、死者12898人、行方不明者が、まだ14824人もおられるという大変な情況は変わりませんが、そのような中にあっても、多くの人達が立ち上がり、愛の奉仕をしておられます。
 昨日の、山形南部教会のホームページに、イスラエルの医療チームのことが書かれていました。 岩手県の南三陸町では、津波で医療機関が全部流されて、被災者が、治療を受けることが出来ずにいました。そのことを知った、イスラエル医療チームが、6棟の仮設の病院を建てあげ、最新の機材とすばらしい医療チームを贈ったのです。 そればかりか、イスラエル医療チームは日本の医療チームに機材の使い方を指導した後、機材を南三陸町に寄贈したそうです。一番必要な物を、適切に素早くサポートできる国イスラエルに、日本人に対する愛を感じました。 
 そして今、私たちは、受難節を迎えていますが、決して変わることのない、十字架の愛を深く思いながら、この時を過ごしたいと思います。

来週17日は、特別な聖日です。一つは三浦綾子読書会で、森下辰衛先生が、御用してくださいます。お誘い合わせの上、ご来会ください。 そして、もう一つ、来週の聖日は、棕櫚の聖日と呼ばれていますが、来週から受難週に入ります。私たちの罪のために、イエス・キリストが十字架にかかって下さった、その十字架の恵みと愛を深く思い巡らす時です。教会では水曜日は受難週特別祈祷会、そして、金曜日は十字架礼拝、その中で洗足式と聖餐式が行われます。そして、24日の日曜日には喜びのイースターをお迎えしましょう。


 今日は、22~27節を読んでいただきましたが、今日の聖書の箇所は大きく二つに分けられています。 一番目は、22~23節で、イエス様が二回目の受難の予告をされたことが書かれています。 そして、二番目は24~27節で、神殿税の納入金についての出来事が書かれています。


(1)二回目の受難の予告

 まず22~23節をご覧ください。

 「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。」
  イエス様は、すでに死を覚悟しておられ、間もなくガリラヤを出発して、エルサレムに向かう予定でした。その前に、イエス様はもう一度、御自分が苦難を受けて死ぬことを弟子たちに予告して、弟子たちにその準備をするように求められたのです。
 第一回目の受難の予告が16:21にありますので、一回目と二回目の受難の予告を比べてみたいと思います。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
  第一回目の予告では、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、」  と苦しみを与える人のことが詳しく書かれています。しかし、二回目では、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」  と一般的な表現に変えられています。 その代わりに、「人々の手に引き渡されようとしている。」という言葉が付け加えられています。 この「人々の手に引き渡されようとしている。」という言葉から、誰を思い出すでしょうか。イスカリオテのユダが、銀貨三十枚で、イエス様を引き渡したことを思い浮かべるのではないでしょうか。 自分たちの愛する弟子たちの中から、人々の手に引き渡す者が出るということは、イエス様にとってもっとも悲しいことでした。 しかし、弟子たちはこの時には、そのようなことが起こるとは、誰一人気がついていなかったのです。17:23にはイエス様の受難と復活の預言を聞いた時に、「弟子たちは非常に悲しんだ。」と書かれています。彼らは、何を悲しんだのでしょうか。それは、愛するイエス様が、死んでしまうということでした。 しかし、本当に悲しまなければならないのは、愛するイエス様でさえ、十字架に架けるために、人々の手に引き渡してしまうような、弟子たち自身の罪深さだったのではないでしょうか。 実際にあの時に、イエス様を十字架につけたのは、「長老、祭司長、律法学者たち」でしたが、実は、イエス様は「わたしの罪」のために「あなたの罪」のために十字架に架かられたのです。その罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架を見上げましょう。
 黒人霊歌に「きみもそこにいたのか。」という賛美があります。あの賛美を歌う時「きみもそこにいたのか。」と、イエス様の十字架が、誰のためでもなく、私の罪のために十字架に架かって下さったことが、リアルに迫ってくる素晴らしい賛美です。 受難節を迎えていますが、もう一度、わたしの罪のために、イエス様が十字架にかかってくださったことを深く覚えて、心からの感謝を献げましょう。


(2)神殿税の納入

 次に、神殿税の納入についての出来事が24~27節に書かれています。

 イエス様が、カファルナウムに帰ると、神殿の納入金を集める人たちが集金にやって来ました。神殿の納税金というのは、エルサレム神殿を維持するためにユダヤ人の二十歳以上の男子が、毎年半シェケル(20ゲラ)ずつ納めるものでした。
 出エジプト30:13~14(P144)をお開きください。

「登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。」
  この納入金は毎年アダルの月に納めることになっていたのです。 この時、神殿税の納入金を集めに来た人が、24節でペトロにこう質問しています。24節「 一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。  「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」  どうして、こんな事を聞いたのでしょうか。それは、これまでに、イエス様と弟子たちが、安息日の規定や、食前に手を洗うきよめの規定に従わなかったので、今度も従わないのかもしれないと疑いの思いを持っていたからです。しかし、それに対してペトロは25節ではっきりと、「納めます」と答えています。 ところが、イエス様はペトロと集金人とのやりとりを聞いて、ペトロに次のような質問をしました。25節「ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」                それに対してイエス様は、26節でベロとが「ほかの人々からです」  と答えると、イエス様は「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」と答えられます。  イエス様は、ここで、地上の王様でも、自分の子供から、税や貢ぎ物を取り上げることはないことを例に挙げて、神殿は神の都であり、イエス様は神の子であるのだから、神殿の税金をイエス様は払う必要はないと言われたのです。
 確かに、神殿は神の都で、イエス様は神の子ですから、税金を納める必要はないはずです。 ところが、イエス様は、そのこととは別にこうおっしゃるのです。27節をご覧ください。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」  イエス様は、彼らにつまずきを与えないようにしよう。とおっしゃって、神殿の納入金を納めるようにペトロに命じられたのです。 ペトロは、もともと漁師です。イエス様が湖に行って釣りをしなさい。とおっしゃると、すぐにガリラヤ湖に行って魚を捕りました。すると驚いたことに、イエス様がおっしゃったとおりに、その口に、銀貨が一枚見つかったのです。そこで、ペトロはそれをイエス様と自分の分として納入金を支払ったのです。


 この魚の名前は、ピーターズフィッシュと言います。ガリラヤ湖に生息する40センチくらいの大きな魚です。私も、聖地旅行に行った時、ガリラヤ湖のほとりのレストランでいただきました。 私にとって、このピーターズフィッシュが、イスラエル旅行の中で一番美味しい料理でした。というのは、黒鯛のような形をしているのですが、味は淡泊で鯵のような感じです。そして、添乗員の方が気をきかせて下さって、日本の醤油をもってきてくださっていたのです。やはり、日本人は醤油ですね。 醤油をかけたピーターズフィッシュ、あの味は忘れることが出来ない絶品でした。

27節をもう一度ご覧ください。

「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
  この御言葉から、3つのことを学びたいと思います。
① 支払う義務のない納入金も、人をつまずかせないために支払ったということです。  

 イエス様は、ここで神の子としての権威を主張して、神殿の納入金を払わないことよりも、不必要な誤解と衝突とを避けるために、ユダヤ人としての義務を果たすことを選んだのです。ここにイエス様の他人に対する配慮があります。 

パウロもⅠコリント8:13でこう書いています。

「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」と言っています。

 クリスチャンは、自由であり、権利があっても、それが人をつまずきになる場合は、その権利を主張しないで、相手のことを思いやる愛が必要なのです。
 「彼らがつまずかにいように」とありますが、つまずくのは、大体小さな石です。大きな石は、たいていの場合、気がついて避けていきますから、つまづくことはありません。 教会も同じです。教会で人がつまずくのは、大抵の場合大きな信仰の問題や、神学の問題ではありません。あの人が、こう言ったとか、ああ言ったとか。あの人がこんな事をしたとか・・・。その人にとってみれば大きな事なのかも知れませんが、後になって考えれば大したことのないどうでもいい事が多いのです。 だから、私たちは、小さなつまずきの石を取り除いてあげれば良いのです。
 そして、教会の中で大変なのが、両方が正しい場合です。 フィリピの教会がそうでした。エポディアとシンティケは、どちらも素晴らしいクリスチャンで、神様のためにと一生懸命に奉仕をしていたのです。ところが、そのやり方が違うと言うことで、教会に混乱が起き、教会が分裂騒ぎになってしまったのです。そのような、二人の女性に対して、パウロは、フィリピ4:2で、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」と言っています。  つまずきになっている、自分の権利や、主義主張、自分の正しさを捨てて、「主において同じ思いを抱きなさい。」と勧めているのです。
 私たちは、大切な信仰は譲ることは出来ませんが、小さな事は、自分の権利を主張しないで、相手の立場に立って、その小さな「つまずき」を取り除いてあげればいいのです。そうすれば、その人は、キリスト教につまずくことなく、そこに神様の愛が表れるのではないでしょうか。 ② イエス様は、神殿の納入金を御自分が支払うだけではなく、ペトロの分まで支払われたと言うことです。27節の後半にこうあります。「最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」  「それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」  とありますが、銀貨一枚は、2シェケルで、ちょうど二人分の納税金の額だったのです。 クリスチャンは、神の国に属する者ですが、同時にこの地上にあっては、この世の国民であり、一市民であることを忘れてはなりません。そして、この世の市民である限り、その義務を忠実に果たす事によって、証しを立てて行かなければなりません。

 パウロは、ローマ13:7でこう言っています。

「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
 私たちは、この世にあっても良い証し人でなければなりません。  例えば、今日は、山形県の県議会議員の投票日です。こんな非常時に選挙をしなくても・・・と私は思いますが、選挙は、私たち県民に与えられた義務です。その義務を行うことによって、また、地域の人々に仕えることによって、主を証しさせていただきましょう。


③ この奇跡は、動物が用いられていることに注目したいと思います。

  イエス様は、ペトロに魚を捕るように命じられ、そのとおりにすると、その魚の口に銀貨が入っていました。 これまで、イエス様が行われてきた奇跡は、病人の病気が治ったり、悪霊が追い出されたり、水の上を歩いたり、5つのパンと二匹の魚で、男だけで5千人を養うというような、人に対する奇跡でした。 ところが、ここで、始めて動物が登場するのです。 神様は、全てのものを創造されましたが、その中には勿論動物も含まれています。そして、神様は、その動物でさえも神様の栄光のために用いられるのです。 神様は、必要であれば、御自分の計画を進められるために、魚や動物をも用いられるのです。
マタイ21:1~3節をご覧ください。

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」  

 これは、棕櫚の聖日に、イエス様がエルサレム入場をされた時の記事ですが、その大切な時に、イエス様は「苦難の僕」として入場されることを表されるために、ロバを用いられるのです。それも、誰も乗ったことのない子ロバに対して、3節で、『主がお入り用なのです』と言っておられます。 神様は、魚や動物でさえ、主の栄光のためにお用いになられるお方です。そのお方が、私たちにも『主がお入り用なのです』と語りかけておられるのではないでしょうか。

 

 特に、今、日本は、東日本大震災の被害を受けて一ヶ月も経ちますが、先週も大きな余震があり、多くの人々が、不安と戸惑いの中で、助けを必要としています。そのような中で、神様は、私たちに、世の光、地の塩として『主がお入り用なのです』と語りかけておられるのではないでしょうか。 できることは、それぞれ違いますが、主の栄光のために、主の証人として用いていただきましょう。

 

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日   8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日 10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日 16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日   8:45〜

                       9:35〜

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase