4/24 イースターファミリー礼拝

「見ないで信じる人の幸い」 ヨハネ20:24~29

イースターおめでとうございます。 桜の季節になりました。昨日テレビを観ていましたら、被災に遭った福島の桜の名所に桜が満開できれいに咲き誇っていました。 東日本大震災で、すべてを失ったかのように思っていましたが、そこにも桜が美しく咲いていました。まだまだ、問題や課題は山積みで先が見えませんが、この桜は、私たちに希望の光を与えてくれるように感じました。 そして、イエス様は、全字類の罪の身代わりに、十字架に架かられ黄泉にまで下られましたが、三日の後に罪と死に勝利されて、三日の後によみがえられて、私たちに対する愛を注いでくださっています。 このイースターを心からお祝いしましょう。

今日の中心の御言葉は27節です。

「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 イエス様が、十字架で亡くなられてから三日目の朝早く、マグダラのマリアは、イエス様の墓にいきました。すると石が取りのけてあり、その中は空っぽでした。 マグダラのマリアが途方に暮れて歩いていると、イエス様が、マグダラのマリアの側により、よみがえりの姿を現されたのです。 マグダラのマリアは、よみがえりのイエス様に会うと、心からの喜びに満たされて、弟子たちのところにかえって、「わたしは主を見ました」と伝えました。
 ところが、そのことを聞いた弟子たちは、すぐにはそのことを信じられなかったようです。 マリアが弟子たちにイエス様がよみがえられたことを伝えた夜のことです。弟子たちは、イエス様が亡くなられて、今度は自分たちがユダヤ人の指導者たちに捕まるかも知れないと恐れて、家の鍵ををしっかりと閉めて閉じこもっていました。 そんな弟子たちの真ん中に、突然イエス様はお立ちになったのです。そして、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、御自分の両手と、わき腹をお見せになりました。そこには、十字架にくぎづけられた傷あとが残っていました。 十字架に架かられたイエス様は、確かによみがえられたのです。悲しみに沈んでいた弟子たちの心が、喜びで一杯になりました。 そんな弟子たちに、イエス様は「聖霊を受けなさい。」  とおっしゃって、イエス様の十字架と復活を伝える力をお与えになったのです。
  ところが、よみがえりのイエス様が、弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった人がいました。それは誰てしょう。それは、12弟子の一人トマスです。 24節に十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」とトマスのことが書かれています。 この「ディディモと呼ばれるトマス」「ディディモ」というのは、双子という意味があります。トマスが実際に双子であったかどうかは分かりません。  けれども、今日の聖書の箇所を読むと、トマスの心の中に、双子のように二つの心があったことが分かります。  今日は、ディディモ「ふたご」とよばれるトマスの2つの性格を見てみたいと思います。

 

(1)疑い深いトマス(24~25節)

 イエス様にお会いした弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た。」と言いました。  けれども、トマスは信じることが出来なかったのです。 その時、トマスはこう言っています。 25節

「 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

  トマスは「目で見て、実際に手で触れて見なければ信じない。」と言ったのです。  ここに、疑い深いトマスの姿が現されています。トマスは、本当に疑い深く、弱く、臆病な弟子でした。  けれども、それは、トマスだけではありませんでした。他の弟子たちもトマスと同じでした。他の福音書を見ると、女達が復活の知らせを伝えたとき、他の弟子たちも疑って信じることが出来なかったことが書かれています。
  そして、それは私達にも同じことが言えるのではないでしょうか。一度死んだ人がよみがえって、会いに来られたなどと言うことは決して常識では考えることの出来ないことです。 私達も、トマスのように、自分の力では、決してイエス様のよみがえりを信じることの出来ない、本当に疑い深い、不信仰な者ではないでしょうか?
  しかし、よみがえりのイエス様は、そんな疑い深く、不信仰なトマスに、そのよみがえりの姿をはっきりと表されたのです。 そして、よみがえられたイエス様は今も生きておられます。誰でも、よみがえりのイエス様との出会いを真剣に求めるなら、必ずイエス様は、その人の元に来てくださるのです。


(2)信仰の人トマス(26~28節)

  8日目に、イエス様は再び、よみがえりのイエスは弟子たちの所に姿を現されました。  この時はトマスも一緒でした。イエス様は、トマスの心のようにかたくカギのかけられている部屋の中に入ってこられ、その真ん中に立たれました。  そして、「あなたがたに平和があるように」と声をかけられるとトマスに向かって、両手を差し出して言われました。27節「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 この時、イエス様は1度もトマスをせめたり、叱ったりしておられません。トマスは、復活の出来事を信じたくなかったのではありません。他の弟子たちと同じように信じたかったのです。けれども、どうしても信じることが出来なかったのです。その苦しみをイエス様は知っておられました。 そこで、イエス様は、トマスのもとに足を運んで下さったのです。 そして、あの疑い深いトマスにもはっきりと分かる形で、手の釘後を差し出し、わき腹を見せられたのです。                                                               この時トマスは、この時よみがえりのイエス様に出会いました。 そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と、イエス様の声を聞いたのです。よみがえりのイエス様に出会ったのですから、もう、どんなに疑い深い、トマスでもこれ以上疑うことは出来ません。  そこで、トマスは、よみがえりのイエス様を前にして「わたしの主、わたしの神よ。」とはっきりと告白したのです。
  その後で、イエス様はトマスにこうおっしゃいました。29節「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」「見ないのに信じる人は幸いである。」
  わたしたちは、トマスのようにイエス様を見たり、直接イエス様の声を聞いたりすることは出来ません。 けれども、私達は聖書の御言葉を通して、イエス様の声を聞くことが出来ます。そして、トマスが心からよみがえりのイエス様との出会いを求めたように、私達も、心からよみがえりのイエス様との出会いを求めるならば、私達にはっきりと解る形で、私達に出会いを与えて下さるのです。なぜなら、十字架につけられたイエス様は、三日の後によみがえられて今も生きておられるからです。  そして、その復活の主と出会った時、私達は力をいだき、力強い証人と変えて下さるのです。


(3)復活の喜びを伝えたトマス

 トマスは、よみがえりの主に出会って「わたしの主、わたしの神よ。」、と告白した時から、力強い証し人に変えられました。
 その後、トマスがどうなったのかははっきりと解りませんが、外典に「トマス行伝」と言うのがあって、そこには、トマスのことが書かれています。  それによると、イエス様が昇天なさった後、弟子たちは、くじを引いて世界のどこに伝道をするかを決めました。そして、トマスがくじを引いたところ、トマスはインドに行くことになりました。 最初、トマスはインドに行くことを断りました。「自分は長い旅をするほど、体が丈夫ではありません。それに、私はヘブル人です。その私がどうしてインドに行って説教をすることが出来るでしょうか。」とトマスは言いました。  すると、その晩、イエス様は、彼のところに現れて、こう言われたのです。         「恐れるな。トマス。インドに行ってそこで、御言葉を伝えなさい。わたしの恵みがあなたと共にあるのだから。」  その御言葉を聞いたトマスは、長い旅をしてインドに行きました。そして、インドで多くの人々に宣べ伝えたのです。  今でも、インドに行くと南インドに「聖トマス教会」が立っています。そして、トマスは、このインドの地で殉教の死を遂げたと言われています。
29節

「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
  疑い深いトマス、弱く、臆病なトマスがこのようなすばらしい働きが出来たのは、言うまでもなく、よみがえりのイエス様に出会ったからでした。  トマスに現れたイエス様は、今日も私達に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」「見ないのに信じる人は幸いである。」と言われます。  私達も、トマスのようによみがえりの主にお会いし、主の証人として立ち上がらせていただきましょう。


 私が、高校時代の頃、基督教独立学園の創設者、鈴木弼美先生に、こんな話しを聞いたことがあります。 1923年関東大震災が起こりました。あの時は地震だけでなく、火災が起き、多くの人が犠牲になりました。多くの人達が焼き尽くされた瓦礫の山で苦しんでいました。特に大変だったのは、水がなかったことです。多くの人達が飢えと渇きに苦しんでいました。 その時です。ひとりの人が、瓦礫を撤去していると、井戸水を見つけたのです。その井戸からはこんこんと水が湧いていました。 彼は、その水を見つけた時に、嬉しくてたまらなくて、周りの人たちに、水が出たぞ、水が出たぞ、と伝えて廻ったそうです。そして、その水によって多くの人達の命が救われたのです。 鈴木弼美先生は、そのような話しをされて、福音を伝えることは、これと同じようなことだとおっしゃいました。イエス様は、私の罪のために十字架に架かってくださり、三日目によみがえられました。そして、ただ、イエス・キリストの十字架を信じるだけで、私たちは救われたのです。 その喜びに満たされて、あの関東大震災の焼け野原で、水を見つけた人が、喜んで「ここに水があるぞ」と叫んだように、「ここに救いがあるぞ」と叫び続けるのが伝道だと教えてくださいました。 鈴木弼美先生は、まさに、その喜びに満たされた証人でした。その救われた喜びを伝えるために、小国の山奥に高校を建て、多くの人達にこの福音を伝えたのです。そして、その福音は鈴木弼美先生が亡くなられた今も、語り続けられています。
一カ所聖書を開きたいと思います。ヨハネ4:13~14(P169)「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
  目に見えるものは、やがて滅んでしまいます。しかし、イエス・キリストの福音は、決して乾くことなく、泉となって、永遠の命に至水が湧き出るのです。


  今、東日本大震災を経験して、日本人の考え方や、物の見方が大きく変わったと言われています。 今までは、私たち日本人は目に見えるものを求めてきました。そして、経済的な発展を遂げ、誰もが便利な生活が出来るような社会になりました。 ところが、今回の大震災で、それらのものが一瞬にして滅んでしまうという経験をしました。みんながあこがれるような新築の家も、高級車も、ブランド品も全部一瞬にして流されてしまったのです。 先週、好美牧師が、ろう者の支援のために、石巻に行ってきました。瓦礫の山の中を車で走っていると、隣の人が悲鳴を上げたそうです。そこには、何千万円もするようなポルシェが積み上げられていたそうです。そのポルシェもあの津波によって一瞬に瓦礫の一部になってしまったのです。 このように目に見えるものは、やがて滅んでしまいます。 しかし、そのような中で、命の大切さを教えられ、目に見える物ではなく、目に見えないもの、家族の絆や、人と人とのつながりがが、どんなに大切であるかを知らされてます。 そして、私たちは、私たちの罪のために十字架に架かられ、復活された、目に見えないお方こそが、私たちの救い主です。 今こそ、このイエス・キリストの十字架と復活の福音を一人でも多くの人達にお伝えしましょう。                                                            29節

「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 この御言葉は、トマスのようにイエス様を信じられないで苦しんでいるすべての人に語られている御言葉です。 そして、そのイエス様は、まだ、救われていない多くの人達をも救うことの出来るお方です。 そのことを信じましょう。そして、トマスのように一人でも多くの人達に、このイースターの喜びを、永遠の命の希望をお伝えさせていただきましょう。

 

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日   8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日 10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日 16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日   8:45〜

                       9:35〜

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase