6/19 主日礼拝

「神が結び合わせてくださったもの」 マタイ19:1~12

今日は父の日です。父の日に「お父さんありがとう」と感謝を言われることは本当に感謝です。自分のことを振り返ると、本当に足りない父親だなと思いますが、私たちには、私たちの模範である天の父なる神様がおられることが感謝です。 父なる神様を見上げて、父親として成長させていただきたいと思います。

今日の中心の御言葉は、6節です。

「だから、二ない人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはなら。」

 

 イエス様は、ガリラヤを去って、ヨルダン川の向こう側のユダヤの地に行かれました。すると、イエス様に従って大勢の人たちが着いてきました。イエス様は、その着いてきた病人の病気を癒され、また、その群衆に対して、大切な事を教えられました。 マタイによる福音書19章には、結婚と子供と、富についての教えが書かれています。これらは、イエス・キリストに従って行く者の社会生活に関するものです。 19:1~12には、結婚についての教えが書かれています。
 ファリサイ人が、イエス様を陥れようとして質問をしました。3節

「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。」 

これは、申命記24:1の律法と関係があります。

「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」

 ここに、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とありますが、この「何か恥ずべきこと」とは何かという問題について、当時の律法学者達に、二つの解釈がありました。 シャンマイ派の学者は、これは、姦淫の罪だけをあらわすと言いました。 それに対して、ヒルレル派の学者は、もっと広い意味で解釈して、姦淫だけではなく、他のどんな理由でも、離婚できると考えたのです。 そして、ファリサイ派の人々は、ヒルレル派の立場をとって、どんな理由でも、それを離婚の理由にしていたのです。 律法学者は、その離婚の問題を質問して、イエス様を陥れようとしたのです。
 しかし、イエス様は、ファリサイ人の質問に答えることはなさられずに、問題の根本にある、結婚とは何かということを明らかにしています。 この結婚・離婚・独身について4つに分けて学びたいと思います。


(1)結婚は神様が定められたものである。

 4節

「イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
 この御言葉は、創世記1:27からの引用です。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

  この1:27には、まず、神様が人を造られた目的が、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と書かれています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」  というのは、どういう意味でしょうか。 神様にも、私たちのように目があり、鼻があり、口があって二本の足で歩いているのでしょうか。そのような見かけを言っているのではありません。 そうではなく、神様が霊のお方であられるように、私たちにも霊を与えてくださり、神様と交わりができる存在として造られたということです。 それが、他の動物と違うところです。人間には、誰にも神様を思う思いが与えられています。私たちが、今日こうして、神様を賛美し、祈りをささげ、礼拝を献げられるのは私たちの特権です。
 そして、人は神様と交わるためだけではなく、人と人とが交わるように造られたのです。その一番身近な関係が、夫婦の関係です。そのことを表すために、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」  とある後で、「男と女に創造された。」と書かれているのです。 神様は、人を男と女に造られました。なぜ、神様は人を男と女に造られたのでしょうか。それは、人が共に生きるためです。互いに愛し合い、仕え合い、足りないところを補い合って生きるために、神様は、男と女に造られたのです。
 プラトンは、理想的な結婚によって、人格は完成すると言っています。 プラトンの考えによると、人間は、もとは二倍の大きさだったというのです。ところが、あまりにも大きく、力が強くなり、傲慢になったため、神々が人間を半分に切り離した。 そこで、この一方ずつが互いに相手を見つけて結婚すると、そこで始めて完全になるというのです。 結婚というのは、生活を狭めるものではく、完成するのです。なぜなら、夫婦がお互いに、それぞれ新しい豊かさ、新しい満足、新しい幸福を与えるのです。
4節「イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」  この御言葉から教えられることは、神様が結婚を定められたということです。 ですから、青年にお勧めしたいと思いますが、結婚の相手を決める時、神様に祈って決断してください。自分がどんなに相手のことが好きであったとしても、また、相手に好かれていたとしても、それが、人間の感情であるならば一時的なものです。 しかし、それが、神様から与えられたものであるならば、それは、神様が必ず祝福してくださいます。確信が与えられるまで祈ってください。そして、聖書の御言葉を与えられるように祈ってください。人間の感情や考えは変わりますが、神様が与えてくださる確信や聖書の御言葉は変わらないからです。それが、二人の土台になって行きます。


(2)二人は一体となる

 5節

 「そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 

これは、創世記2:24の御言葉の引用です。 この結ばれるという言葉は、原語では、夫婦の関係と、キリストと教会の関係だけに用いられる特別な言葉が用いられています。 それは、2枚の紙がのり付けされるいう意味があります。世界でたった一人だけのり付けされる人がいる、それが夫婦だというのです。 一枚の紙、それは、どんなに強く見えたとしても、突然の強い力が働く時、破れてしまうかも知れない、そのような弱さを誰しも持っているのではないでしょうか。けれども、それが2枚になるとどうでしょう。二倍の強さ、増して、二人がしっかりとのり付けされていくなら、それは、本当に強いものになっていきます。 そして、そののり付けをするのは、愛です。 2人が愛し合ってこそ、1枚の紙になることが出来るのです。けれども、その愛が、不完全なものだったらどうでしょうか。しっかりとのり付けされることはできません。 完全な愛、それは、キリストの十字架の愛です。その十字架の愛によって、本当の意味で夫婦は一体とされるのです。
 エフェソ5:21~33には、夫と妻の関係が、キリストと教会の関係にたとえられています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」 

イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で命を捨ててくださいました。その愛は、決して変わることのない永遠の愛です。そして、一方的に与える愛、犠牲的な愛、とも言われます。そのような愛をもって互いに愛し合い、仕え合うならば、キリストの愛があふれる夫婦になれるのです。キリストの愛が、夫婦を一つにするのです。
 31節に「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。」と書かれてますが、キリストと教会の関係が、夫婦の関係に譬えられているということは、神秘です。 

 ある先生が、こんな話しをしてくださいました。夫婦と神様の関係は二等辺三角形のようなものだ。二等辺三角形の頂点にはイエス・キリストがおられます。そして、左と右にいる夫と、妻が、神様に近づけば近づくほど、その距離は近くなって一つになることが出来ます。しかし、夫婦が、イエス様から離れてしまうと、その二人の距離も離れてしまい、愛し合うことが出来なくなってしまいます。 ですから、本当に幸せな夫婦となるためには、夫婦がお互いにイエス様近づくことです。イエス様の愛によって、夫婦は一つになることが出来るのです。
 そして、それは、純粋な愛でなければなりません。5節

 「そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」とありますが、これは、ただ1人の人を愛するということです。
 現在は、性の乱れている時代です。エルシオンで結婚式のカウンセリングをさせていただきながら感じるのですが、一昔前なら、少なくとも、婚前交渉や同姓いうのは、タブーでありましたし、2人の間にも後ろめたいような思いがありました。ところが、今は、平気でそれらのことが行われる時代になりました。 けれども、聖書はこう言います。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」   つまり、二人は一体となるのは、結婚と言うことを通してだけ許されるということです。そして、独身時代にそのような清いつきあいをすることは、結婚してからの幸せに必ず繋がっていきます。
 昔、ペルシャの王様が、イギリスに旅行に行きました。ちょうどその時に、イギリスの首相グラッドストーンが、金婚式が行われていました。ペルシャ王は、その金婚式に出席しましたが、そのグラッドストーンの家庭は、大変清らかで、温かい家庭でした。その家庭を羨ましく思いこういったそうです。「わたくしは、一生に50人の妻を持ったが、グラッドストーン氏は、50年の間1人の妻を愛し続けた。その幸福は、彼にあって、わたしにはない。」
 純粋な愛は、本当の幸せを生みます。 この世の間違った考えに惑わされずに、聖書の御言葉に従って、幸せな家庭を築き上げましょう。


(3)神が結び合わせたものを、人は離してはならない。

6節

「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 

夫婦というのは、神様によって、肉体的にも、精神的にも、霊的に一体にされるのです。だから、神様が結び合わせたものを、他のどんな人も引き離すことは出来ません。そして、当人同士であったとしても、決して離してはならないのです。 普通の人間関係なら、のり付けされていませんから、やり直しがきくと思います。上司との関係でも、友人との関係でも、「本当に済みませんでした。」と言って、菓子折でも持って行くと「仕方がないな」と言ってやり直すことが出来るでしょう。 しかし、夫婦は、一度のり付けされていますから、それを引き裂くと、2枚の紙は破れて、ビリビリ、ボロボロになって、お互いに傷ついて大変なことになってしまいます。だから、神様によって結び合わされたものは、決して離してはならないのです。それが、聖書の原則です。
 ところが、イエス様が、離婚は神様の御心ではないというと、ファリサイ人はすかさず、7節でこう質問をしました。「すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」  申命記24:1には、確かに、離婚状を渡して離婚することができると書かれています。あの律法は、間違っているのかというのです。これに対して、イエス様は8節でこう言われました。「イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」  離婚というのは、最初から認められていたのではなく、あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したというのです。
 当時は、男性が強い権限を持っていて、女性は何の権限も認められない弱い立場にありました。その弱い立場の女性を守るために、設けられた律法です。 そして、離婚された女性は、離縁状があれば、他の男性と再婚することが出来たのです。 文化のの進んだ現在でも、ドメスティクバイオレンスや夫の不倫などで苦しめられている女性、女性だけでなく男性もいます。それらの人たちを守るために、このような律法が出来たのです。
 鎌倉に東慶寺というお寺があります。別名「駆け込み寺」と呼ばれています。徳川時代には、女性の社会的地位が低く、苦しい生活を強いられていました。 そのため、夫の不貞や乱暴に悩まされた妻は、この寺に駆け込むことによって保護され、やっと離婚の申し出をすることが出来たのです。
 モーセが、妻を離縁することを許したのも、このように弱い立場の女性を守るためでした。ですから、人間に離婚する権利があるのではなく、やむを得ず許されていたのです。
 そして、イエス様はくぎを刺すように、9節でこうおっしゃいます。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」  なぜなら、このような離婚は、神様の前に認めらないからです。

 

(4)独身について

  弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエス様とファリサイ人とのやりとりを聞いていた、弟子たちは、10節で結婚に対して消極的な言葉を言いました。「弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。  イエス様は、弟子たちの言葉を受けて、独身について教えました。弟子たちは、離婚の条件がそんなに厳しいのであれば、結婚しない方がましだと言いましたが、イエス様は、誰もが独身でいられるわけではないと言いました。 なぜなら、先程話したように、神様が、人を男と女に造られ、結婚するのが自然な姿であるからです。 ですから、独身でいられるのは、神様からそのように導かれている人だけなのです。
 12節で、イエス様は独身者としての3つのケースをあげています。

「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

①結婚できないように生まれついた者」というのは、肉体的、精神的な病気のために、結婚できない人のことです。

②「人から結婚できないようにされた者」というのは、当時の宮廷の寝室に仕えるために、強制的に去勢されていた宦官を表しています。

③「天の国のために結婚しない人」というのは、神様から与えられた使命のために、独身でいる人たちのことです。パウロなどは、このような人です。Ⅰコリント7:7「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」  パウロが、ここで言っているように、独身でいるか、結婚すべきかは、各自が神様から与えられた賜物に従って、神様との祈りの中でそれぞれが決断するべき大きな問題です。
 今日は、19:1~12で、結婚と離婚と独身について、非常に重要な問題について聖書から学んできました。 結婚・離婚・独身ということについて語られた、イエス様の教えを学んできました。これらは、人生の中で本当に大切な決断の時です。だからこそ、もう一度聖書の原点に立ち帰りましょう。 神様と私たちとの関係はどうでしょうか。また、一番身近な夫婦の関係はどうでしょうか。もう一度、私たちの心をキリストの愛に満たしていただき、聖い、幸せな生活をさせていただきましょう。

 

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祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Illustration by c-awase