ペンテコステ礼拝 6/12

「ペンテコステに降った聖霊」使徒言行録2:1~13

ペンテコステおめでとうございます。 みなさん「宮城南部復興支援ボランティアセンター」のためにお祈りをありがとうございます。先週の火曜日にの開所式が行われました。その後、名取市、岩沼市、亘理町、山元町の市役所や役場、そして、各ボランティアセンターに挨拶に行ってきました。次の日には、亘理町のクリスチャンのための家に行って、実際にEM散布を行い、いよいよ活動が始まりました。亘理町や山元町の海岸線沿いを視察に行ってきましたが、三ヶ月も経っているのに、津波で襲われた町や建物はそのままで、手つかずという状態でした。 このように、災害の大きさから考えると、本当に小さな働きですが、神様のよって建てられたこの、ボランティアセンターを用いて御業が成されるようにと願っています。誕生したばかりのこの働きのためにお祈りをご協力をお願いします。 今、「宮城南部復興支援ボランティアセンター」の誕生について報告しましたが、ペンテコステというのは、教会の誕生の日でもあります。今から約2000年前に、二階座敷で祈っていた弟子たちに聖霊が降って、その日だけで3000人の人々が救われ、教会が誕生したのです。

ペンテコステというのは、ギリシャ語で50という意味がありますが、過越しの祭りの第二日から数えて、50日目の五旬節の日のことです。 この日は、収穫感謝の日で、「初穂のパンの祭り」とも言われ、この日には、新しく収穫した麦から作った二つのパンを神様に献げる儀式がありました。 その日、弟子たちは、二階座敷に集まって、聖霊を求めて心を合わせ熱心に祈っていました。 聖霊が与えられることは、イエス様の約束でした。イエス様は、十字架に架かられる前夜、木曜日の夜に、弟子たちに詳しく聖霊について語られました。また、イエス様が昇天される前に、聖霊が降るのを待つように、勧められました。 その約束の聖霊が、ペンテコステの日に降ったのです。 旧約時代には、祭司や預言者や王様など、特別な選ばれた人にだけ聖霊は与えられましたが、この時から、イエス・キリストを信じるすべての人に、聖霊が与えられるようになったのです。また、この日は、協会誕生の記念日でもあります。それでは、聖霊は、どのようにして、弟子たちに降ったのでしょうか。


(1)天から降った聖霊

1~2節

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」 

 それは、突然の出来事でした。激しい風のような音がして、「天から聞こえ」て来たのです。聖霊は、天から与えられたものでした。それは、地上のどこからでもなく、天から降られたのです。 父なる神様は、天におられます。そして、主イエス・キリストは昇天されて、父なる神様の右に、おられました。 そして、弟子たちに降られた聖霊も天からのものでした。ですから、聖霊を受け、聖霊に満たされた者は、天のものとなるのです。 イエス様の弟子たちは、3年半の間、主の弟子としてお伴して歩いていましたが、その性質は、肉的なもので、あまりにも世俗的で、この世のものでした。ユダは、金銭に心が捕らわれ、ヨハネとヤコブは「誰が一番偉いのでしょうか。」とこの世の名誉欲に捕らわれ、ペトロも、人を恐れる世俗的な人でした。 しかし、この聖霊は、そのような世俗的な弟子を、天からの者、天的な性質を持つ人へと造り替えられたのです。 わたしたち、クリスチャンは、この世に生きています。この世から離れて生活することはできません。 しかし、私たちの体は、この世にあったとしても、内なるものまでも、この世的な影響に支配され、汚染されてはならないのです。 イエス様は、ヨハネ17:14~16でこう祈られました。

「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」 

 ここで、イエス様は、二度も「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」と言われています。
 クリスチャンがこの世から聖別されるのは、この聖霊の恵みによるのです。聖霊は天から降りました。そして、私たちの心と生活を占領し、天に付けるものとしてくださいます。そのために、聖霊は天から降られたのです。
イザヤ32:15

「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。」

  このような素晴らしい御業が、今の日本にも成されるように、祈りましょう。

 

(2)聖めてくださる聖霊

 3節

「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」 

聖霊は、炎のように、弟子たちの上に降りました。 イエス様に聖霊が降られた時は、鳩のようでした。(マタイ3:16) それは、イエス様は、神の子で聖いお方なので、聖められる必要はなかったからです。しかし、弟子たちは、聖められる必要がありました。 火は、焼き尽くし、精錬します。聖霊もまた、汚れを焼き尽くし、聖別する力を持っておられるのです。 ペンテコステの日に、聖霊が、炎のように降られたのは、弟子たちを聖めるためでした。

ガラテヤ5:19~21

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」  聖霊を受ける前の弟子たちの心は、ここに書かれている、肉の業で、覆われていました。 このような、生まれながらに持っている肉的な心は、聖霊の炎によって、焼き尽くされ、聖められなければならないのです。聖霊は、そのことをしてくださるのです。
 エリヤがバアルの預言者と戦った時、列王上18:24にはこう書かれています。

「そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」

 民は皆、「それがいい」と答えた。」  バアルの預言者が、どんなに大勢で祈っても、大声で祈っても、また自分たちの体に傷をつけて祈っても、祭壇には火は降りませんでした。 しかし、エリアは、その祭壇の周りに、溝を掘らせ、四つの瓶に一杯の水を汲んでこさせ、3度も祭壇に水をかけました。 そして、エリアが祈ると、列王上18:37,38にこう書いています。 

わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。」  38節に「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。」と書かれています。 聖霊の炎は、私たちの石のようなかたくなな心をきよめ、塵のような世俗に汚れている肉の思い、また、私たちの生活までもきよめてくださるのです。 「きよく」なければ、神を見ることもできませんし、主をお喜ばせすることもできません。多くのクリスチャンの生活が、中途半端なのは、この聖霊の恵みに与っていないからです。
 イエス様の弟子たちは、ペンテコステの日から変わりました。肉的な人ではなく、聖霊に満たされた霊の人に造り替えられたのです。ガラテヤ5:22、23

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

  このペンテコステの日に、エゼキエルによって、預言されたことが成就しました。石の心が除かれ、柔らかい心、新しい霊が与えられたのです。エゼキエル36:26,27「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」  それは、2000年前のペンテコステの時だけに行われた特別なことではありません。今も、イエス様は、私たちにも、このような御業を成して下さるのです。


(3)宣教のために降った聖霊

 4節

「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 

 ペンテコステの時に降った聖霊は、宣教のために与えられたものです。 人を恐れ、人の怒りを避けようとしていた弟子たち、イエス様が、よみがえられた時も、イエス様の次は、自分たちが、捕らえられ十字架に架けられるかも知れないと、しっかりとカギをかけていた弟子たちでしたが、この時から、全く別人のようになったのです。一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で大胆に、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を証しし始めましたのです。

 

 ベニー・ヒン師は幼い頃からひどいどもりがあり、自由に話すことが出来ませんでした。それは、彼にとって耐えがたい苦しみでした。友人は、彼をからかい、離れていきました。 14歳の時、彼は学校の祈り会で、個人的にイエス様と出会いました。 その時から、学校にいても、アルバイト先にいても、一日中、一つの幻が目の前にちらついて離れなくなりました。  その幻とは、大きな野外集会場、スタジアム、コンサートホール、教会で説教をしている自分の姿でした。 ところが、家族は彼の話を受け入れませんでした。父親から平手打ちされ、2年間も口をきいてもらえなかったのです。 しかし、ベニーは、ただひたすら主との交わりを求めました。彼の寝室は主の臨在と栄光があふれる特別な場所になりました。ベニーは、そこで祈り、学び、賛美し、養われていったのです。 ある日、友人が自分の教会にベニー師を招きました。生まれて初めて講壇にたち、口を開いた瞬間、舌が何かに触れてすっと楽になり、ベニー師は、すらすらと御言葉を語り始めたのです。 それ以来、どもりはすっかり消えてしまいました。そして、幻で見た通り、世界中の大きな会場でメッセージを語る器となったのです。
4節「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」  聖霊が、私たちに降る時、私たちイエス・キリストの十字架と復活を証しする証人として豊かに用いられるのです。
 そして、14節以下には、ペトロの説教が書かれていますが、ペトロの説教を聞いた人々が、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架と復活を信じて、その日に3000人の人々が、救われたのです。 このようにして、キリストの教会が誕生しました。 そして、この福音は、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、やがて、地の果てまで、宣教の御業が広げられていきました。教会は、様々な迫害や試練の中を通りましたが、それでも、福音は今も伝え続けられています。


 ところで、山形南部教会の誕生の日をご存じでしょうか。  私は、1988年(23年前)の4月に山形南部教会に遣わされました。  遣わされたときに、先輩の牧師に「最低でも、最初の一年は、教会のやりかたを変えないでその教会に学びなさい。」と言われ、そのことを心掛けました。特に、ちょうど次の年に30周年を迎えましたので、教会の歴史を調べて記念誌を作ることにしました。
  そして、山形南部教会に前身の教会が存在したことを知りました。 現在の山形南部教会の設立される50年も前のことです。1908年(明治41年)に東洋宣教会福音伝道館山形支部として、前川忠二郎牧師によって伝道が始めらたのです。その後、東洋宣教会の再編成、山形ホーリネス教会、山形聖教会、日本キリスト教団成立などの変遷があり、牧師も変わりましたがホーリネスによる伝道が、ずっと続けられてきました。 しかし、山形伝道が始められて34年たった、1942年(昭和17年)6月26日私達の教会にとって最も苦しいときを迎えました。それが宗教弾圧です。 この弾圧により、私たちの教会は解散させられ、当時牧師をしておられた吉沢幸平先生は牧師職を剥奪、迫害を受けました。そのような迫害にあいながらも、信徒は信仰を守り続けたのです。その時にいた方々はは、山形市内の他の教会に籍を移して信仰を保ちました。 その中に、国井巌さんや国井ハナさん、鈴木長右エ門さんなどがおられたのです。
 そして、17年間、教会は復興されず、空白のときが流れました。
 この時、日本全国で、日本基督教団第6部(聖教会)、第9部(きよめ教会)が、弾圧を受けました。この時逮捕された牧師は、警察で非人道的な処遇を受け、審問、拷問、筆舌に尽くしがたい心身への迫害を受けました。けれどもその中にあって、多くの牧師や信徒が見事にその信仰を守り通したのです。   そして、ついに1945年(昭和20年)8月15日、日本は敗戦しました。同じ年の10月27日には、大審院は、この宗教弾圧に関して、国家の為した行為が誤っていることを全面的に認めて、免訴の判決をくだしたのです。  天皇は人間宣言をし、憲法によって「天皇は神ではなく、日本人の象徴である」ということが明らかにしました。また、教会に対して力を誇っていた、特別高等警察も治安維持法も消え去ってしまいました。この世の権力は、滅んでしまいましたが、この世の力は信仰を滅ぼすことはできなかったのです。
 そして、私たちの教会も宗教弾圧によって滅ぼされたのではありませんでした。
 1959年5月5日東京聖書学校から黒田愛子牧師が遣わされ、散らされていた信徒が、ホーリネスの教会を建て上げるために集まり、山形南部伝道所の伝道の火が再び燃え上がったのです。  山形南部教会は、弾圧によって解散させられ一度は見えるところはなくなってしまいましたが、今年の5月5日で、復興して52周年を迎えました。最初の開拓から数えると103年になります。
 今もここに、山形南部教会があります。そして、イエス・キリストを信じる方々が、今日もペンテコステ礼拝をささげているのです。その事事態が、聖霊が働いておられるという確かな証拠ではないでしょうか。イエス・キリストは、今も生きておられ、私達と共にいてくださるのです。
 このような弾圧を乗り越えて、福音が伝えられてきたのは、聖霊の働きです。私たちの先輩方が、弾圧の中で信仰を守り通したように、私たちも聖霊に満たされて、宣教の働きに加わらせていただきましょう。
最後に使徒1:14,15をご覧ください。

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」
  心を合わせて熱心に祈っていた時、一人一人の上に、聖霊は降りました。今も、聖霊は心を合わせて熱心に祈るところに降るのです。 今日は、ペンテコステを迎えていますが、今こそ、私たちもこの聖霊を心を合わせて熱心に祈り求めて、素晴らしい御業を私たちの心と生活に、また、私たちにとどまるのではなく、地の果てまで、福音が広がる素晴らしい御業を見せていただこうではありませんか。

 


WE LOVE YAMAGATA
WE LOVE YAMAGATA

Illustration by c-awase