7/24 主日礼拝

「自分の命を献げるために」マタイ20:17~28

今日の聖書の箇所には、自分の子供の立身出世のために、イエス様のところにやってきたゼベダイの息子たちの母親が出てきます。 今でも、親は、多かれ少なかれ自分の子供には期待を寄せるのではないでしょうか。ある親は、我が子が一生懸命勉強して、少しでも偉くなってもらいたいと思っています。そのために小さい時から塾に通わせ、勉強やけいこに励ませます。 そんなことを考えると、人間の現実は、昔も今も少しも変わっていないように思います。誰もが偉くなりたいと思っています。しかし、現代最も必用とされている人は、偉い人ではなく、人々に仕える人ではないでしょうか。

今日の中心の御言葉は28節です。

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
  今朝は、マタイ20:17~28を読んでいただきましたが、今日の聖書の箇所には、イエス様の十字架に向かって歩まれる姿と、弟子たちがこの世の地位や名誉を求めている対照的な姿が書かれています。この箇所を3つに分けて学びたいと思います。


(1)3度目の十字架と復活の預言(17~19節)

 イエス様と弟子たちの一行は、いよいよエルサレムに向かって進んでいきました。 エルサレムというのは、イエス様に激しい敵意を持っている宗教的指導者達のいるところです。そのエルサレムに上るということは、律法学者やファリサイ派の人々と衝突することを避けることは出来ません。そのエルサレムに向かって一直線に進んでいったのです。 弟子たちは、自分たちの先頭に立って進まれるイエス様の姿を見て、驚きと恐れを覚えました。 この時、イエス様が見つめておられたのは何だったでしょう。それは、十字架です。ガリラヤで福音を宣べ伝え、弟子たちを訓練する期間もそろそろ終わり、いよいよイエス様は、十字架にかかられるためにエルサレムに、先頭に立って進んで行かれたのです。 そのエルサレムに行く途中で、イエス様は再び12人の弟子たちを呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。  そのことが、17~19節に書かれています。

「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 

 これは、イエス様が十字架と復活を預言された3回目の預言ですが、ここには、祭司町や律法学者に捕らえられ、裁判にかけられ、異邦人が侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。と非常に詳しい預言がなされています。 イエス様は、神の子ですがら、このような恐ろしいことが起きることをご存じだったのです。そして、イエス様には、神の子ですからここから逃げることも、自分たちを十字架につける人々を滅ぼすことも出来たはずです。けれども、イエス様は、逃げることも戦うこともせずに、「ほふり場に引かれていく子羊のように」ただ、エルサレムを目指して一直線に進んでいったのです。 なぜでしょうか。それは、十字架にこそ全人類の救いの道があるからです。 弟子たちはこの時、イエス様が語られたその深刻な意味が少しも分かっていませんでした。しかし、イエス様は弟子たちにこのことをあらかじめ教えて、その時に備えさせようとされたのです。そして、そのイエス様のこの預言が成就したとき、大きな驚きとともに、イエス様の御心を知ることになるのです。
 今、NHKのテレビ小説で、「おひさま」という戦中戦後の暗い時代を「おひさま」を見上げるように希望をもって歩んだ、1人の小学校の先生の物語が放送されています。 先日、亘理町の逢隈高屋の公民館で「EMの講演会&ピアノコンサート」が行われました。60名近い人たちが集われて、とても素晴らしい一時を過ごしましたが、その中でもこの「おひさま」のテーマソングをみんなで歌いました。 この歌を歌いながら、同じ時代を小学校の先生として生きた、三浦綾子さんのことを思い出しました。 クリスチャンの作家、三浦綾子さんも、敗戦当時、小学校の教師でした。三浦綾子さんは、敗戦を迎えたとき、子どもたちに教科書に墨を塗らせながら、今まで自分の立っていた土台がくずれてしまい、心に空しさを覚えていました。魂だけではなく、肉体もむしばまれて肺結核を患い、結核療養所に入ることになってしまいました。 その時、幼なじみの前川正という、クリスチャンで彼女と同じように胸を病んでいた北大医学生が、彼女の所にやってきて、一生懸命に福音を伝えたのです。 ところが、三浦綾子さんは、気が乗らずに、相手にしませんでした。 ある時、前川さんは、何度言っても受け付けようとしない彼女の姿を見て、彼は目に一杯涙をためて、大きくため息をつきました。 そして、そばにあった小石を拾って、自分の足を激しくたたいたのです。やがて皮膚がまっ赤になり血が流れ始めました。「やめてください。どうしてそんなことをするのですか?」と必死に綾子さんが止めると、「信仰の薄い、わたしには、どうしても綾子さんを救うことが出来ない。この不甲斐ないわたしを自分で罰するのです。」と言って泣いたのです。 その姿を見た、三浦綾子さんは大変感動して、その日から、聖書を読み始め、求道をし、素晴らしいクリスチャン作家として用いられるようになったのです。 そして、前川さんは、肺結核のために天に召されてしまうのですが、その時も「綾ちゃん、わたしが死んでしまうことを悲しまないでください。わたしは、天国に行くのです。綾ちゃんもイエス・キリストを信じて、これからの人生を歩んでいってください。」と言い残して天に召されたそうです。
 どうして、そこまですることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架と復活の愛です。イエス様の愛が、前川正というひとりの人を動かし、三浦綾子さんは救いに導かれたのです。17~18節「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
 イエス・キリストは、私たちの救いのために、十字架で命を捨ててくださいました。そして、三日の後によみがえられて、今も私たちに対する愛を表していてくださるのです。


(2)弟子たちの姿(20~21節)

 マタイによる福音書には3回受難の預言がなされていますが、3回とも預言をなさった後の弟子たちの姿が表されています。 一回目はマタイ16:21~28ですが、ここでは、イエス様が受難の預言をされた後、ペトロは、そんなことがあってはなりませんとばかりいさめて、イエス様に「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られています。 二回目はマタイ17:22~23です。ここでも、その預言の後で、誰が一番偉いのかと議論しあっていたということが書かれています。 そして、3回目の預言の後で弟子たちがとった態度が、20節以下に書かれています。そこを読んでみましょう。20~21節「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
  ここでは、ヤコブとヨハネの母親が、イエス様にお願いしています。21節をご覧ください。

「イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
 このマタイによる福音書の書かれた時代のイスラエルは、ローマ帝国の支配に苦しめられていました。そのためにイスラエルの人々は、旧約聖書に書かれている救い主を誤解して、いつか救い主が現れて、ローマ帝国を滅ぼしてくれるに違いないと考えていたのです。 そこで、ゼベダイの息子達の母が、イエス様がローマ帝国を打ち破り、イスラエルが独立したあかつきには、自分の息子たちを一人を右に、一人を左に座るようにしてくださいとお願いしたのです。 日本の政治に当てはめると、イエス様が総理大臣として総理大臣になられたときには、ヤコブを法務大臣に、ヨハネを大蔵大臣にしてください。と頼んだようなものです。  なんと自分勝手な、身勝手な願いでしょうか。けれども、それはペトロとヨハネだけではありませんでした。 24節には

「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」  とあります。

「おれたちを差し置いてなんということだ。」というわけです。この起こっている姿を見ると、やっぱり他の弟子達も、ヤコブやヨハネと同じ価値観しか持っていなかったことがわかります。
 3人の老人の物語です。ある日のことです。ある女性の家の前に、3人の老人がいました。「お腹がすいてらっしゃるんでしょう。わたしの家で何か召し上がりませんか。」と家に招きました。 すると、老人たちは、「『わたしの名前は富』『わたしの名前は成功』『わたしの名前は愛』と言います。私たちは、同時にあなたの家に入ることは出来ません。この中で誰が一番にあなたの家に入ったら良いでしょうか。」と聞きました。 女性が夫に、そのことを伝えると、夫は『富を招待しよう』と言いました。 すると、その女性は『わたしは成功を招待したいわ』と言いました。 すると、その会話を聞いていた嫁が言いました。『わたしは愛を招待するのがいいと思います。そうすれば、この家族が愛によって仲良くなれるのですから』 夫婦は、その嫁の言葉に従って『愛が先に入って下さい』と言いました。 すると、他の二人も立ち上がって着いてきました。家に入ると、愛が口を開き『私を一番に招待したので、富も成功も入ることが出来たのだよ。他の誰かを最初に招待していたら、二人は入れずに、外にいただろうよ。』
 愛が一番大切です。そして、その最高の愛はイエス・キリストの十字架の愛です。
 私たちも、弟子たちが求めたように、この世で偉いと言われたり、この世で地位や名誉を得たりして褒め称えられることを求めます。けれども、どんなに外側を飾っても、私たちの内側に愛がなければ、どこまでも自己中心で、結局は罪を犯し続けてしまうのです。何よりもまず、私たちの心をイエス様の十字架の愛に満たしていただいて、祝福された人生を歩ませていただきましょう。


(3)皆に仕える僕

  弟子達の会話を聞いていたイエス様は、彼らを呼び寄せて弟子達の考え方の誤りを正されました。そのことが、42~44節に書かれています。 ここに書かれていることを読むと、この世の価値観と、神の国の価値観とが全く違うことがわかります。
まず、イエス様は、25節でこの世の価値観についてふれられています。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

  この世では、強い者が、弱い者の上に立つことが価値あることだと考えられ、多くの人が、人を押しのけてでも、人の上に立とうと努力しています。 受験戦争、派閥争い、出世競争などみんなが必死になって上に立とうと努力しています。 なぜ、そんなにまでして相手に勝とうとしたのでしょうか。それは、彼らが人を支配することこそが大変価値のあることで、逆に人に僕になったり仕えることは恥ずべきことだと考えているからです。  しかし、神の国の価値観は全く逆の価値観です。26~27節をご覧ください。

「 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
 ここにあるように、神の国では人を支配するのではなく、人に仕えることこそが、本当に価値あることであり、神様に喜ばれることなのです。 ここで、人に仕えるということは、自分を捨て、自分のことよりも他人のことを優先させ、相手に献身的に尽くすことを意味しています。
 そして、その模範はイエス様御自身です。28節をごらんください。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 イエス様は、ここでおっしゃったように人に仕えることを身をもって示してくださいました。 福音書を読むとイエス様がどれだけ人に仕えられたのかが良くわかります。 そして、人に仕えた生涯のクライマックスが十字架です。イエス様は、私たち全人類の罪のために十字架にかかってくださいました。まさに、十字架の死をもって私たちに仕えてくださったのです。
  先程、弟子たちの姿を見てきましたが、私たちは、あの弟子たちのように本当に自己中心で、何度も同じような失敗をしてしまいます。けれども、そのような私たちの罪のためにイエス様は、十字架にかかってくださったのです。このイエス様を信じ、心の中にお迎えする時、自己中心な私から、神様と人とに仕える者と変えられるのです。

 賀川豊彦は、貧しい人に仕え、貧しい人と共に生きた人として有名な人です。 賀川豊彦は、神学校在学中の明治42年に、神戸市新川の貧民街の二畳の小屋に移り住んで、伝道を開始しました。 さっそくやってきたのは、伝染病の皮膚病に犯された男で、一夜の宿を求めました。 その日、賀川豊彦は、我慢をしてこの皮膚病の人と一緒に一組の布団にくるまって寝ました。 次の日に、裸同然の物乞いがやってきたので、彼は自分のシャツを脱いでやりました。 すると、その次の日に、また、この男があらわれて、今度はズボンと上着をくれというのです。仕方なく、賀川先生は、求められるままに与えたので、ボロボロのシャツとズボン下一枚になってしまったのです。 賀川先生は、相当の覚悟をして貧民街に入り込んだのですが、さすがの彼も、とうとう逃げ出したくなってしまったそうです。 周りの人たちも「あいつは、きっと逃げ出すぞ。」と冷たい目で見ていました。 ところが、賀川先生は、そこにとどまり続けたのです。それは、イエス・キリストの十字架の故でした。「イエス様は、私のような罪人のために命を捨ててくださった。」そのイエス・キリストの十字架を見あげたのです。賀川先生は、その十字架の愛によって、その貧民街にとどまり続けることが出来たのです。 やがて、近所の人たちは、まだ若かった彼を尊敬するようになりました。そして、何かと彼に相談をするようになって、教会に集う人たちが起こされたのです。

賀川豊彦自身が、日記にこのように書いています。「神は最もいやしい人たちの間に住まわれる。神は、刑務所の囚人の部屋に積もるちりの上に座られる。神は非行少年とともに立ち、乞食とともにおられる。神は、病人の間に住み、失業者ともに立っておられる。神に会おうとするものは、神殿に行く前に刑務所を訪れるがよい。教会に行く前に病人を見舞うがよい。聖書を読む前に物乞いを助けるがよい。」と。

 ここにキリスト者としての偉大さがあります。 この世の偉大さというのは、その人が、使用人が何人いるか。その人がどれだけ知的な能力があるか。どけだけ富を銀行に預けているかで計られます。 しかし、イエス・キリストの評価の基準は、これとは全く逆です。それは、わたしたちが、どれだけ、神と人とに仕えたかということです。
最後に28節をご覧ください。

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
  イエス様は、私たちに仕えるためにこの地上に来てくださいました。そして、十字架で命を捨ててくださるほどに私たちのことを、あなたのことを愛しておられます。そのイエス様を心にお迎えしましょう。そして、私たちもイエス様のように神と人とに仕える者とさせていただきましょう。

 

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Illustration by c-awase