今週は、3日からオンヌリ教会が来られます、そして4日から、ホサナファミリーキャンプが始まります。今年は鶴岡市の金峰少年自然の家に宿泊し、二日目は、日本海で海水浴の予定です。 海水浴と言えば、スイカ割りですが、タオルで目を閉じて、歩くとなかなかまっすぐに歩くことが出来ません。みんなの声を頼りに進んで、スイカの方に進んでいきます。 それは、少しの間だけですから、楽しいのですが、ずっと目が見えなかったらどうでしょう。不自由ですし、目が見えたらどんなに良いだろうと思うのではないでしょうか。 今日は、二人の盲人の聖書の箇所です。
今日の中心の御言葉は、32~33節です。
「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。」
この聖書の箇所から知っていただきたいことは、イエス様は、あなたが霊的な暗闇の中にとどまり続けることを願ってはおられない。イエス様は、暗闇に捨ておかれた人を呼び寄せ、光の中を歩み出させようとしておられるということです。
イエス様と弟子たちは、エリコを出て、エルサレムに中って旅立ちました。エリコからエルサレムまでは、約一日の道のりです。 エリコの門を出ると、イエス様は、二人の盲人に出会いました。
二人の盲人は、道端に座っていましたが、イエス様がお通りだと聞くと、30節に「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだことが書かれています。
そして、31節には、群衆が、二人を黙らせようとすると、ますます大きな声で、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。 それを聞いていたイエス様は、立ち止まって、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」 と聞かれました。 すると、彼らは、33節で「 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えたのです。 この聖書の箇所には、二人の盲人の言葉が3つかかれていますが、その一つ一つが、彼らの心からの祈りの言葉です。 今朝は、この言葉を通して、祈りについて、共にに学ばせていただきたいと思います。
(1)チャンスを逃さない祈り
イエス様と、弟子たちの一行がエリコの町に行かれ、大勢の群衆とエリコの町を出て行かれようとした時です。そこに、二人の盲人が座っていました。 そこに、いろいろな奇跡の業を行って有名になっていた、ナザレのイエス様がお通りになるということを聞いたのです。 すると二人の盲人は、ナザレのイエスだと聞くと、30節に書かれているように「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。
わたしは、この聖書の箇所を読んだ時に、彼は何とラッキーな人だろうかと思いました。この以前にも、またこの以後にもたくさんの盲人が、このエリコの道に座っていたに違いありません。けれども、二人の盲人がたまたま座っていたその時に、イエス様が通り過ぎようとされたのです。 彼は、そのチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの最初のポイントは、イエス様との出会いです。そして、彼はそのチャンスを見逃しませんでした。 こんなことわざがあります。「飛んだ矢と、語った言葉と、過ぎ去った時と、失った機会とは、とりかえしがつかない。」必用なのことは、チャンスを逃がさずに、機会をとらえて神様の恵みを求めることです。
Ⅱコリント6:1~2(P331)
「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
ここに、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」とあります。 彼らが、その大切なチャンスを逃さなかったように、私たちも主が与えてくださる、恵みの時、救いの日を大切にしたいと思います。
(2)熱心に求め続ける祈り
31節
「群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。」
この御言葉を読むと、この二人の盲人の熱心さが伝わってきます。彼の叫びを聞いた多くの人達が、叱りつけて、彼を黙らせようとしました。しかし、この二人の盲人はひるまずに叫び続けたのです。 この時を逃したらチャンスはもう巡ってこない、この方以外には救いはない、そういう切羽詰まった思いがそうさせたのではないでしょうか。彼はなりふりかまわず、叫び続けたのです。
私たちの祈りはどうでしょうか。本当に必死になって主を求めているでしょうか。 本当に、絶体絶命の所に置かれれば、必死になって祈るかも知れません。けれども、毎日の普通の生活の中で、この二人の盲人のような熱心さを、いつしか失ってしまっているのではないでしょうか。
二人の盲人は、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。 それは、率直な祈りでした。「ダビデの子」と叫んでいますから、彼はイエス様こそが救い主であることを信じていたのだと思います。そして、その救い主は、憐れみに富みたもうお方であることを信じ、暗闇の中にいたにもかかわらず、イエス様こそがその暗闇から救い出してくださるお方であることを信じて、叫び続けたのです。 神様はそのような暗闇の中でも共にいて下さるお方です。そして、神様の御手のとどかないところはないのです。 二人の盲人は、その暗闇の中でも、暗闇から解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼して叫び続けたのです。
ワールドカップで、「なでしこジャパン」が逆転に次ぐ逆転で、最後にPKで優勝した感動は、今でも記憶に新しいことだと思います。
1996年アトランタオリンピックで、女子サッカー競技で、金メダリストになったミシェル・エイカーの証しです。 彼女はは最優秀選手に選ばれたり、夫となる男性と出会ったりと、最高の人生を歩んでいました。しかし、神様の導きに従うよりも、自分の考えや欲望に従って歩んでいたというのです。 ところが、夫と結婚して1年経ったころから、原因不明の倦怠感に襲われるようになり、ついに試合の中で倒れてしまいました。慢性疲労症候群に侵されていたのです。ベッドから起きることさえできませんでした。それだけでも辛いことでしたが、そんな彼女を見捨てて夫から、離婚を突きつけられてしまったのです。 まさに、人生の真っ暗闇に突き落とされたかのようでした。 そのような暗闇の中で、ミシェル・エイカーさんは、わらをもすがるような思いで、「主よ、わたしを憐れんでください。」と熱心に神様を求めるようになりました。 すると、神様は、彼女の祈りを聞いて下さり、肩を優しく抱き、名前を呼び続けてくださったのです。そのような中、イエス様に自分の人生をすべて明け渡す決心をしました。 すると、何とも言えない平安が与えられ、すべての時間を献げて、子どもたちにキリストの愛を伝えたいという思いが与えられたのです。 それから、神様は「サッカー・アウトリーチ・インターナショナル」というミニストリーを始めるようになりました。この働きを通して、全米の1800万人のサッカーに関係する人たちにキリストの愛を伝えるようになったのです。
31節
「群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。」
どのような試練の中でも、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」熱心に祈り求めるましょう。主は必ず、その叫びに答えて素晴らしい御業をなして下さいます。
(3)御心にかなった祈り
この祈りは、イエス様の御心にかなった祈りでした。そして、その祈りを聞かれたのです。イエス様は立ち止まって、二人の盲人をお呼びになりました。そして、こう質問されました。
32節をご覧下さい。
「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」
イエス様は「何をしてほしいのか」と聞かれました。なぜ、イエス様はそのような質問をされたのでしょうか。イエス様は、神の子ですから、彼らの願いを知らないはずがありません。それなのに、なぜ、イエス様はあえて「何をしてほしいのか」と聞かれたのでしょうか。 それは、その願いを言葉に出して言う必要があるからです。そして、その祈りが御心にかなったものであるのか、御心とは違うものなのかを吟味される必要があるのです。
先日、ヤコブとヨハネの母が、「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と願ったところを学びました。けれども、神様はそれを退けられました。そのような御心に適わない祈りは、聞かれないのです。
ヤコブ4:2~3節(P425)
「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」
ここにあるように、神様は間違った動機で願い求める祈りは聞かれません。
「何をしてほしいのか」 この世の人は、自分でも何をしてほしいのかが解らなくて、苦しんでいます。ある人は、良い大学、良い会社に入ってエリートコースを歩めば幸せになれると信じて一生懸命に勉強しています。でも、それで本当に幸せになれるのでしょうか。そうではありません。エリートコースを歩んだ人も私たちと同じように悩んでいるのです。
また、ある人は、お金さえあれば幸せになれると考えている人がいます。そうでしょうか、そうではありません。お金のために、争いが起こり人間関係が壊れてしまったということを聞きます。
そのようにイエス様は、私たちに「何をしてほしいのか」と尋ねられます。 実際、今までこの二人の盲人は、道端に座り続けて、お金を求め続けてきました。けれども、イエス様に「何をしてほしいのか」と聞かれた時、彼らはこう求めたのです。
33節
「二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。」
そして、この求めは、御心にかなった祈りでした。病から癒されること、そして、人生の暗闇から救われることは神様の御心でした。そして、神様は御心にかなった祈りを聞いてくださるのです。そして、この願いは、彼の人生を根本的に変えるものでした。34節をご覧下さい。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
イエス様が、深く憐れんで、その目に触れられると、二人の盲人ははたちまち見えるようになり、イエス様に従ったのです。
「主よ、目を開けていただきたいのです」 イエス様の御心は、あなたが暗闇の中にとどまることではありません、あなたの霊の目が開かれて、光の中を歩むことを願っておらるのです。 そして、肉眼の目が見えるようになることも素晴らしいことですが、それ以上に霊の目が開かれることほど素晴らしいことはありません。
肉眼の目、それはやがては衰えてしまいます。 私も、だんだん老眼が入って、疲れると小さな字か見えにくくなりました。そして、私たちの生涯の終わりには、肉眼の目で見えなくなる時が必ずやってくるのです。 けれども、イエス・キリストによって霊の目が開かれるなら、私たちは暗闇から光の中に移されます。そして、私たちは永遠に光の中を歩むことが出来るのです。
「何をしてほしいのか」と聞かれた時、二人の盲人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と言いました。 私たちは、霊の目が開かれているでしょうか。私たちも「主よ、目を開けていただきたいのです」と霊の目を開いていただきましょう。
そして、34節にはこう書かれています。
「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」
二人の盲人の「主よ、目を開けていただきたいのです」という心からの叫びをイエス様は聞いて下さり、目に触れて見えるようにしてくださったのです。そればかりか、「イエスに従った。」とあります。 エリコの門に座って、物乞いをしていた、盲人が今や、見えるようになり、イエス様に従う者と変えられたのです。 このようにイエス様は、私たちの霊の目を開いてくださり、イエス様に従う者と造り替えてくださるのです。
ヨハン・セバスチャン・バッハは、ドイツの敬虔なクリスチャン家族の末っ子として生まれました。しかし、9歳の時に父が、10歳の時に母が亡くなり、兄のところに引き取られることになったのです。 バッハは一生懸命に音楽を勉強し、音楽の才能を開花させていきました。また、宗教改革者マルチン・ルターの教えに非常に感銘を受け、敬虔なクリスチャンとして成長しました。そのようにして、彼は多くの教会音楽を作りました。 しかし、1748年、白内障のために両目が見えなくなってしまったのです。その頃、ライプヒッチに来ていたイギリスの名医の治療を受け、二度も手術をしましたが、目は見えるようにならず、ついに全く盲人になってしまいました。 それ以来、バッハの生活は、昼も夜も暗闇に包まれてしまいました。けれども、そのような中でも彼の霊の目はふさがれることはありませんでした。そして、さらに彼は心からの賛美を作り続け、死の直前まで神様を賛美する教会音楽を作り続けたのです。 バッハは世界中に知られる音楽家になりましたが、最後まで神様に栄光を帰すことを忘れませんでした。彼の直筆の楽譜の最後には、必ず「S・D・G」のサインを書きました。 これは「Soi Deo Gloria」「すべての栄光を神に」という意味です。バッハは、「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、隣人に喜びを与えることである。」と語って、どんなに有名になっても、主に従い、教会音楽から離れることはなかったのです。
二人の盲人は、道端に座って、暗闇の中を歩んでいました。しかし、今やイエス様と出会い、病を癒され、イエス様に従って光の中を歩むものとされたのです。 神様の御心は、あなたが暗闇の中を歩むことではありません。イエス様は、立ち上がって、光の中を歩むように願っておらるのです。
道端にとどまらないで、二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだように、イエス様に呼び求め、イエス様に熱心に祈り求めましょう。そして、暗闇から光へ歩み出させていただきましょう。