8/21 主日礼拝

「いと高きところにホサナ」マタイ21:1~11

8月8日から11日まで、ウェスレアン・ホーリネス教団青年大会が行われました。最高集会出席人数が153人、登録者数が250人を超える祝福された青年大会になりました。 感動したことの一つに、牧師の子どもたちが、牧師になって奉仕をしている姿でした。 また、この青年大会でも、証しをする青年や、招きに答えて献身をあらわす青年の姿を見て、大きな感動を覚えました。

今日の中心の御言葉は9節です。「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
 今日読んでいただいた聖書の箇所は、受難週の最初の日曜日のことです。この日には、大勢の人々が棕櫚の枝をひいてイエス様を歓迎したことから「パームサンデー」棕櫚の聖日とも呼ばれています。  今日はこのエス様ののエルサレム入場の御言葉を通して主の御声を聞かせていただきたいと思います。

 
(1)旧約時代に預言された救い主

 まず5節をご覧ください。

 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 

 これは、ゼカリヤ書9章9節の引用です。(P1427)

「シオンの娘よ、大いに喜べ。 エルサレムの娘よ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来られる。 この方は正しい方で、救いを賜り、 柔和で、ろばに乗られる。 それも、雌ろばの子の子ろばに。」
  このゼカリヤ書というのは、イエス・キリストがお生まれになる500年も前に書かれた書簡です。それなのに、エルサレム入城のことがこんなに詳しく書かれているということは、本当に不思議です。  人間はいつ生まれ、いつ死んで行くのか将来のことはわかりません。まして、その人がどのような生き方をするのかを知ることは全くと言って良いほど不可能です。  けれども、イエス様の誕生はイエス様がお生まれになる500年も前の旧約聖書の時代から預言されていたのです。  このゼカリアの預言がその通り成就されたことは、イエス・キリスト様こそが特別な救い主としてこの地上に来られたきよい神の子キリストであるということを表しています。  イエス様が、エルサレムに入城されたとき、9節で、群衆は、イエス様の前を行く者も、後を行く者も「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」と歓喜の声をあげました。 「ホサナ」とは、アラム語で、「今お救いください。」という意味がありますが、新約聖書では、「栄光あれ。祝福あれ。」という意味で用いられています。 イエス様がエルサレムに入場された時、群衆は、旧約時代から待ち望まれてきた、救い主を「栄光あれ。祝福あれ。」とお迎えしたのです。 この9節の賛美のようにロバの子に乗られたイエス様こそが栄光と祝福をお受けになられる方なのです。


(2)救い主は受難の王

 イエス様はこのようにエルサレムに入城されるとき大勢の群衆の大歓迎を受けましたが、しかし、その5日後にはその同じ群衆が「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫び出すのです。 先程お読みしたゼカリヤ書9章9~10節には、救い主が受難の王として来られる、そして、この救い主の受難によって、全世界に平和が訪れると言うことが預言されているのです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
  ロバという動物は、古代オリエント時代には旅行用や運搬用として好んで用いられていたそうです。特に馬のなかった昔のイスラエルでは、士師も預言者も王様でさえも、みんながロバに乗っていたそうです。  ところがソロモンの時代になるとソロモンが大量の馬を輸入したため、ロバに乗るのを止め、馬に乗るようになりました。  日本では昔、殿様の力を表すのに何万石と言って米の取れる量で表されましたが、イスラエルでは馬をどれだけ持っているかでその王様の力が表されたのです。  ですから、馬は大変価値のあるものでしたが、ところがそれとは逆にロバは価値のない動物になってしまったのです。
 そして、このロバの仕事は主に荷物を運ぶことでした。馬はさっそうと人を乗せて走っているのに、ロバは重たい荷物を、主人に何度も鞭打たれながらのろのろと運ぶのです。このロバの姿は、私達の重荷を負って下さったイエス様の姿を表しています。 マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 イエス様こそが、私たちのすべての重荷を負ってくださるお方です。そして、この御言葉通り、イエス様は、全人類の罪をその身に負って、十字架に架かってくださったのです。
 先週、牧師休暇をいただいて、北九州に行ってきました。今回は、私の母の喜寿のお祝いで兄弟が集まってお祝いをしました。 その食事の席で、子供や孫を前にして、母がこんな証しをしました。 わたしが、最初に教会に行ったのは、16才の時でした。讃美歌や良い話しを聞いて、少し教養を得ようと思ったのがきっかけで、仏教との家で育ったわたしは、あまり深入りしないようにと考えていました。 初めて行った教会の人達は、わたしを温かく迎えてくださいました。そして、次第にどうしたらあの人達のようになれるのだろうと考えるようになりました。そして、3年経って、宣教師がやって来て特別伝道集会が行われ、私も教会の人達のようになりたいと思って洗礼を受けました。  クリスチャンになって、聖書を読むようになると、自分の罪が示されるようになりました。最初は、隣のいちじくを取って食べたことや、弟とけんかをしたことや、ねたみや傲慢の心などが示されましたが、その内に、自分の心の奧にある一番大きな罪が示されたのです。 それは、私が父を許せないという思いでした。 戦争中に祖父は満州に行きましたが、母と兄弟で迎えに行くと、父は別の女性を連れて帰って来たのです。祖母は離婚を決心して、裁判を起こしましたが、その裁判が終わる前に、祖母は肺炎をこじらせて亡くなってしまったのです。 そんな父だけは、絶対に許せないと思い続けてきたのです。 ところが、イエス様はこんな私のために、十字架に架かってくださって、私のすべてを赦してくださった。このイエス様を信じなければ、私は生涯、この罪を背負って歩んでいかなければならない。そして、そのことを示された時、心から自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架が私のためだったと信じたのです。 イエス様を信じた時、何とも言えない平安と喜びが溢れて、天にも昇るような思いになりました。 そして、神様はわたしを祝福してくださり、クリスチャンの伴侶が与えてくださり、4人の子供のうち3人、孫が3人クリスチャンになりました。あんなに憎んでいた祖父の所へも看病のために通うようになり、ついに、父も97才で受洗の恵みに与ることが出来ました。 そして、母は2年前に父を天国に送りましたが、また、天国で会えるからとそのことも喜寿に祝いの席で感謝しました。  子ロバに乗られたイエス様は、私達の全ての重荷をその身に負って下さいました。そして、私達の罪のための十字架で死んで下さったのです。命を投げ出して下さるほどに私たちのことを愛しておられるのです。そして、その尊い犠牲によって、私達の罪を許し、永遠の命の約束をを与えて下さったのです。このイエス様を信じて、「いと高きところにホサナ。」神様に栄光と祝福あれと感謝と賛美をささげる者でありたいと思います。


(3)救い主が、子ロバを必要としておられる

  ロバというのは、馬と比べるとスタイルも良くありませんし、馬のように速く走ることもできません。 このロバの仕事は主に荷物を運ぶことでした。馬はさっそうと人を乗せて走っているのに、ロバは重たい荷物を、主人に何度も鞭打たれながらのろのろと運ぶのです。欧米でも、日本でも、ロバと言うと、誰にも相手にされない、「のろま」とか「まぬけ」とかそういった人の代表のように言われます。  けれども、そのようなロバに対してイエス様は何と言われたでしょうか。 3節をもう一度ご覧ください。 「もし誰かが何か言ったら「主がお入り用なのです」と言いなさい。そうすれば、すぐ渡してくれます。」  イエス様はこのロバに対して「主がお入り用なのです」とおっしゃったのです。しかも、「主がお入り用なのです」と言われたのは、大きな親ロバではなく、まだ小さな子ロバたったのです。  イエス様はここに立派な馬がいなかったので仕方がなく子ロバに乗られたのではありません。イエス様は神の子ですから何でもできないことはありません。ですから立派な白馬に乗ろうと思えば乗れたはずです。 けれども、ここでイエス様はあえて馬には乗ろうとはなさらず、力のない弱い子ロバに乗られたのです。これは神様が人を用いられる手段です。
 あのダビデが選ばれた時のことを思い出してください。 サムエルは父エッサイのところに行きました。そして、長男のエリアブを見て、彼こそ、主の前に油を注がれる者だと思いました。 ところが、神様はこう言われるのです。Ⅰサムエル16:7(P453) 「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 そして、エッサイは7人の息子をサムエルのところに連れてきましたが、サムエルは、「主はこれらの者をお選びにならない。」  と言いました。そして、一番末っ子で、羊飼いをしていたダビデをお選びになったのです。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
  ギデオンの時もそうでした。士師記6:11

「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。」  と書かれています。

 ギデオンの姿を想像してください。兵士でありながら、ミディアン人に襲われるのを恐れて、酒船の中に隠れて、小麦を打っていたのです。なんと情けない姿でしょうか。 しかし、そのギデオンに神の使いはこう言うのです。12節 「主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」  神様は、今の情けないギデオンの姿のことを何も言われず、主が共にいて勇者として用いられるギデオンの姿をご存じで、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と声をかけられたのです。
 それは、新約の時代も同じです。イエス様は、12弟子を選ばれる時、優秀なファリサイ人を選ばれず、ガリラヤ湖の漁師や徴税人を選ばれました。
 また、パウロはコリントの信徒への手紙でこう言っています。Ⅰコリント1:26~31(P299)

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」
  パウロはⅠコリント1章で「しかし神は、無に等しいものを選ばれたのです。」と言いましたが、神様は力あって、立派で、才能のある人を用いようとはなさらずに、かえって弱い、貧しい、才能のない私達を用いようとしておられるのです。 神様は、馬のように力あって、立派で、才能のある人を用いようとはなさらずに、かえって子ロバのような弱い、貧しい、才能のない私達を用いられるお方なのです。
 そして、ここで、本当に大切なことがあります。 それは、イエス様をお乗せする「子ロバ」を必要としているということです。 私達も、「子ロバ」のような小さく弱い者です。けれども、わたしの背中に、イエス様をお乗せすることが出来たらどうでしょうか?イエス様の御臨在を持ち運ぶことが出来るのではないでしょうか。 そのように、神様は、イエス様の御臨在を持ち運ぶ、子ロバを必要とされているのです。
 先週の木曜日に、戸畑高峰教会をお訪ねし、みなさんにも祈っていただきましたが、お父さんを天に送られた、塩屋優子先生と良き交わりと祈りの時が与えられました。その後で、去年の春に天に召された白石兄を記念して建てられた白石鉄鋼の十字架と復活のモニュメントも見せていただきました。
 その塩屋先生の長男、証し君が、今回の青年大会で証し者としてたてられました。 証くんは、牧師の息子として、幼いころから教会に通っていましたが、高校生になったころ、日曜日にみんなが遊びに行っているのに、自分だけはどうして、教会に行かなければならないのだろうと悩むようになりました。また、悪い友達と付き合うようになり、夜遊びをして、何度も警察に補導されたこともありました。 そのような中で、大学生になった時、KGK(キリスト者学生会)との出会いが与えられました。KGKのキャンプに行って、同じ年代のクリスチャンと出会い、十字架のメッセージを聞きました。それまでも、聞いていたメッセージでしたが、その時は自分の罪が示され、こんな僕のためにイエス様が、十字架に架かってくださったのだと、罪を悔い改めてイエス様を心の中にお迎えしました。  その時から、この世の楽しみを求める生活から、イエス様を求める生活に変えられたのです。 ところが、そのような時です。みなさんにも祈っていただきましたが、彼のおじいさんは、白石鉄鋼の社長をしておられた敬虔なクリスチャンでした。そして、一人の元暴力団の青年を雇ったのです。ところが、勤務態度が悪く、無断欠勤も続きました。そこで、社員から「もう、これ以上雇っていることは無理です。」と言われ、その社員を解雇することになりました。社長自らが解雇を言い渡すことは異例なことでしたが、彼の将来のことを心配して、その日、彼に会うことにしました。ところが、逆恨みをされてしまい、殺されてしまったのです。 証くんは、その彼のことがどうしても許すことが出来ませんでした。 そのような時、九州でアシュラムが行われました。母親に勧められて、その集会にでで、神様の前に静まる時が与えられました。聖書を読み、牧師のメッセージの中で、復活のイエス様が、弟子たちにあらわれて、「平安があるように」と言われた御言葉か語られました。「平安があるように」嵐のように、荒れ狂っていた心の中に、何とも言えない平安が与えられました。そして、その時、祖父を殺した加害者を許すという心が与えられたのです。 そして、「そのような心を与えてくださった、イエス様にすべてをお献げします。」と献身を言い表し、来年の春に、ウェスレアン・ホーリネス神学院に入学する予定です。 証し君を救ってくださった十字架の主は、おじいさんを殺した加害者を赦す心を与えてくださり、そればかりか、「いと高きところのホサナ」と主の栄光を祝福をあらわす器として用られているのです。

 

 今日はロバに乗られたイエス様は、私達の救い主、私達の重荷を全て負って下さる方です。そのイエス様が、あなたに「主がお入り用なのです」と語りかけておられます。主の御言葉に従い、「いと高きところにホサナ」神様に栄光と祝福をあらわす者とさせていただきましょう。

 


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase