8/28 召天者記念礼拝

「見えないものに目を注ぐ」Ⅱコリント4:16~18

今日は、召天者記念日です。 今、召天者の名簿が読まれましたが、去年の7月から今日まで、私たちの大切な教会員、教会関係者を天に送りました。
 そして、今年は、未曾有の大震災を経験した後の特別な召天者記念礼拝です。 東日本大震災を経験して、日本人の考え方や、物の見方が大きく変わったと言われています。それまでは、私たち日本人は目に見える繁栄の豊かさに幸せを求めてきたのではないでしょうか。 ところが、今回の大震災で、それらの目に見える物が一瞬にして滅んでしまうという経験をしました。 そのような中で、命の大切さを教えられ、目に見える物ではなく、目に見えないもの、夫婦や家族の絆や、人と人とのつながりがが、どんなに大切であるかを知らされてます。
 そして、今日の聖書の箇所を書いたパウロは、コリントの教会の人々に宛てて、目に見える物ではなく、目に見えない十字架の愛がどんなに大切な者であるのかを書いています。

 今日の中心の御言葉は18節です。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

  この御言葉は、歌丸愛子さんの愛唱聖句で、特に晩年、祈祷会などで繰り返し、この御言葉を引用してお祈りをしておられました。
 今日の聖書の箇所は、4章全体のまとめのような箇所です。この箇所から3つのことをお話ししたいと思います。


(1)「外なる人」は衰えても「内なる人」は日々新にされていく

16節

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」
 パウロは「外なる人」を、土の器に譬えています。

 Ⅱコリント4:7「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

  当時、土の器というのは、素焼きの壊れやすいもろい物だったそうです。コリントの町は、貿易港として大変栄えた町で、稼いできた金貨や銀貨をその土の器に入れることがあったそうです。 パウロはそのようなコリントの日常生活で行われていることを譬えに、この御言葉を書いたのです。 「外なる人」というのは、土の器のように、弱く、壊れやすい肉体のことです。それは、ますます衰え、いつかは、必ず死んでしまうものです。 しかし、「内なる人」は、土の器に盛られた宝、すなわち、キリストによって新しく生まれ変わった霊は、日々新にされ、永遠に続くのです。  肉体的に見れば、20代後半から衰えて、だんだん弱って、お墓に向かう坂道を下っています。それは、誰一人として避けることは出来ません。
 しかし、霊的に考えると、私たちの肉体が弱って、死が近くなればなるほど、天国が近くなっている訳ですから、神の臨在という頂上に登っていることになります。 ですから、イエス・キリストを信じる私たちは、年をとることを恐れる必要はないのです。なぜなら、年をとるということは、主の御もとに近づくことだからです。 だから、「外なる人」が衰えるということも、キリスト者にとっては、神様から与えられた祝福なのです。
 今、医師の日野原重明さんが、老後の積極的人生論を次々に出して、ベストセラーになっています。その本を読み返しながら、老いということについて考えさせられました。 ある方が、定年退職を迎えて、「お疲れさまでした」「本当に御苦労さまでした」と会社人たちに拍手で送られたものの、次の日の朝、もう会社に行くことが出来ないのだということが分かった時、深い喪失感に襲われたと書かれていました。
 しかし、信仰を持って教会生活をしているということは、本当に素晴らしいことだと思います。定年退職を迎えて職を失っても、神様を礼拝し、神様に仕えるという最高の仕事が与えられているのです。  何よりも「内なる人」は日々新にされていきます。とあります。 だから、イエス・キリストにある私たちは、日々新にされていますから、「内なる人」は老いることがないのです。そして何よりも、永遠の命が約束されていますから、決して失われることのない希望があるのです。
 日野原先生は、60歳になる前に、よど号ハイジャック事件に巻き込まれ、死に直面する体験をしました。その経験の中で、聖書の御言葉に励まされ、60歳からの新しい人生設計を立て直したそうです。 その時を転機に、100歳を越える今も生き生きと社会で活躍をしておられます。 その日野原先生に大きな影響を与えたのが、マルチン・ブハーの言葉です。
「人間とは、新しいことをすることさえ忘れなければ、老いるものではない。」
 それは、趣味やスポーツ学問といったこの世のことに取り組むことも含まれているのだと思いますが、何よりも素晴らしいことは、「内なる人」を日々新にする、イエス・キリストを信じる信仰です。そこにこそ本当の希望があります。
 この日野原先生の生き方を読みながら、歌丸憲三郎さんのことを思い出しました。77才で洗礼を受けられて、89才で天に召されるまで、「内なる人は日々新たに」というこの言葉のように前向きで、青年のような生き方をしておられました。、そして、いつも礼拝や祈祷会を欠かさず、集会の始まる15分前には席に着かれて、聖書を開き準備をしておられた歌丸憲三郎さんの姿に、「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」という素晴らしい生き方を教えられてきました。
「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」  わたしたちもこの恵みの中を歩ませていただきましょう。


(2)艱難は、永遠の栄光をもたらす

17節

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
 信仰生活には苦しみが伴います。苦しみの伴わない信仰生活は信仰生活ではありません。なぜなら、イエス様御自身が、苦しまれたからです。そして、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのです。
ローマ5:3~5(P279)

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
 キリストのために苦しむ人は、必ずキリストの栄光に与ることが出来るのです。それは、単なる希望や願いではなく、聖書の約束です。 私たちもしっかりとゴールを目指して、キリストのために艱難を喜んで、乗り越えて、福音をのべ伝えてさせていただきましょう。
  昨日から、世界陸上が韓国で行われています。今回の世界陸上の最初の種目は、「女子マラソン」でした。昨日はケニアが金銀銅独占で、日本の選手は赤羽選手が、最後追い上げましたが5位でした。 人生をマラソンにたとえるなら、上り坂も、下り坂もあります。まっすぐな道もあれば、曲がりくねった道もあります。そして、マラソンというのは、苦しい困難な道のりです。しかし、選手が、長い道のりを走りきって、ゴールのテープを切った時、喜びに溢れて、今までの疲れはどこかに行ってしまうのではないでしょうか。全ての苦労が報いられる時です。 私たちの信仰の歩みもこれに似ています。信仰者として歩むということは、艱難はつきものです。なぜなら、イエス様御自身の歩みが、私たちの救いのために十字架に架かられる苦難の僕としての歩みだったからです。そのイエス様の御足跡に従っていくのですから、艱難が無い訳がありません。 しかし、私たちには、天国というゴールがあるのです。そして、その天国というゴールのテープを切る時、全てが報いられるのです。そして、何よりも私たちを愛してやまないイエス様御自身が、私たちを迎えてくださるのです。
 去年の夏から、今日まで5人の方を天に送りました。 今年の2月5日には、国井 哲兄弟と泉姉妹の長女、國井成実ちゃんが、出産と同時に天国に召されました。つらく、悲しい出来事でしたが、やがて、また天国で会えるのを楽しみにしています。
 去年の9月24日、斎藤孝子さんのお母様の太田冨美江さんが天に召されました。洗礼を受けることは出来ませんでしたが、亡くなられる一年前に、教会の前で、イエス様を救い主と信じて救われて、天国へ行かれました。  また、今年の7月2日に飛渡ヒロエを天に送りましました。 飛渡ヒロエさんは、私の目をしっかりと見て、「イエス様を信じたら天国へ行けるんでしょ。」「だから、わたしは死ぬことは全然恐くありません。」とはっきり証ししておられました。その言葉通り、死に打ち勝って天国へ行かれたのです。
 そして、去年の7月25日に村山トミさんが、そして、今年の5月6日に、村山正男さんが、天に召されました。村山さんご夫妻は、新潟市に引っ越しされて、あまりお会いする機会がありませんでしたが、山形におられる時は、歌丸愛子さん、國井ハナさんととても仲良しで、いつも一緒に礼拝や祈祷会に出ておられました。特に、賛美が好きで、いつも賛美をしておられました。 その村山トミさんが、30周年記念誌に書かれた、証しを紹介します。 1989年の記念誌ですから、この会堂が増築する前の文章です。

 

 「無から有を創られる神様」  村山 トミ

  無から有を創られる神様。信仰を持って祈ります。教会を総二階にしてください。そして、いよいよ信仰から信仰へと進ませてください。神様信じます。 愛する岡先生、好美先生、毎日ご苦労様でございます。私、初めてお二人とお会いした時、若くてピチピチはりきっておられる姿に、山形に栄光が現れると一瞬頭にひらめきました。信徒の私たちも先生ばかりにまかせないで、先生の手となり足となって、力を神様からいただきながら大いにはりきって恵まれています。 神様には何でもおできになりますから、「我らは常に勝利、勝利、勝利。我らは常に勝利。」悪魔と日々戦っています。 そして、「戦い終わらば、武具を捨てて、あまつふるさとの家に帰らん。」心も身も一つになって前進していきましょう。 先日、イエス様の夢を見せてくださいと寝る前に祈っていました。すると本当にわたしの夢に現れたくださったのです。私をじっと見ておられました。兄弟たちも並んでおりました。それは、私が召されるところでした。のどが苦しくなってそこで目が覚めました。神様ちょっとお待ちください。まだ、潔められておりません。あの5人の賢い女と愚かな女のことを思いました。 イエス様がいついらしても、すぐイエス様がいらしても取り残されないで、共に天国に行かれるように導いてください。 一生懸命、聖書を読み、主をさんびして「歌いつつ歩まん、この世の旅路を。」

 

 この証し通りに、無から有を創られる神様が、次の年にこの会堂を増築してくださいました。そして、村山トミさんの祈りに答えて、ご夫妻で、信仰を全うされて天国へ召されていったのです。
パウロはⅡテモテ4:7~8でこう言っています。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」 

 キリストのために苦しむ人は、必ずキリストの栄光に与ることが出来るのです。それは、単なる希望や願いではなく、聖書の約束です。 私たちもしっかりとゴールを目指して、キリストのために艱難を喜んで、乗り越えていくものでありたいと思います。


(3)見えるものにではなく、見えないものに

 18節

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
 私たちの周りには、見えるものと、見えないものがあります。どちらが大切でしょうか。 見えるものは、確かに、目で見えますし、手にとって握ることも出来ますから、確認しやすいです。それも確かに必要ですが、目に見えるものは、必ず終わりがあります。やがては、滅んで無くなってしまいます。 しかし、目に見えないもの、天に属するものは、永遠に続くのです。
Ⅰコリント13章13節(P317)にこう書かれています。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 

   信仰も希望も愛も、目には見えません。しかし、イエス・キリストを信じる信仰、永遠の命への希望、イエス・キリストの十字架にあらわされた神様の愛は、永遠に続くのです。そこに、私たちの希望があります。
 二人の宇宙飛行士の話しです。 一人は、世界で最初の宇宙飛行士となったのは、旧ソビエト連邦のガガーリンです。彼は、共産主義者だったので神を信じていませんでした。 その彼が、宇宙から帰った時、堂々とこう言ったそうです。「宇宙には神はいませんでした。あたりを良く見回したのですが、やはり神はいませんでした。」 神様は、この大宇宙を作られたお方ですから、この宇宙より偉大なお方です。そして、「神は霊であるから、あなたがたも霊と真をもって礼拝しなさい。」とあるように、神様は霊的存在ですから目に見えないのは当たり前です。その神様を否定する生き方は、空しく希望がありません。
  もう一人は、、アポロ15号に乗り込み、月面に立ったアメリカのジム・アーウィンです。彼は、月から見た宇宙の広大さ、深遠さに、目に見えない神様の存在を感じぜずにはおられなかったと告白しています。 彼は、それまでは熱心なクリスチャンではなかったのですが、その偉大な体験から、やがて神様の存在を伝える伝道者になったのです。実際、ジム・アーウィンだけでなく、多くの宇宙飛行士が伝道者になっています。私たちは、天地創造をされた、神様の御業を通して、目に見えない神様の存在を知ることが出来るのです。そして、そこにこそ、永遠に変わることのない、信仰と希望と愛があるのです。
18節

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
   私たちの目は、どこに注がれているでしょうか。また、私たちの生き方はどうでしょうか。クリスチャンでありながら、目に見えるこの世のものを追い求めているということはないでしょうか。 天に召された方々が、最後まで目に見えるものではなく、永遠に存続する目に見えない神様の恵みを追い求めたように、私たちも永遠に存続する、目に見えない物を追い求めていきましょう。

 

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日   8:45〜

                       9:35〜

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Q1.教会見学に行きたいけど、行ってもいいですか?

A1.どうぞいらしてください。ぜひいらっしゃる前にお電話を下さい。おいしいお茶を用意してお待ちしてますよ。

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Q2.教会でお金は払わなくていいの?献金ていうお金がいるんじゃないの?


A2.献金はわたしたちが神様に対して自由意志で出すものです。南部教会でも、礼拝、祈祷会、いろいろな会で献金の時間があります。でも出したくない時は、献金係りが来ても何も出さなくていいんですよ。

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Q3.教会に行くとクリスチャンになるようにって無理やり勧誘されない?

A3.無理やり勧誘はしません。でも私たちはクリスチャンで、その幸せを十分感じていますから神様のお話をしたり、聖書を一緒に読みたいと思っています。

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Q4一度教会に行ってみたいけど、一番教会に行きやすい時っていつでしょう?

A4.日曜礼拝が一番人も多いし、教会というものをよくわかっていただけるような気がします。ぜひ一度礼拝においで下さい。毎週日曜日10時15分からです。

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Q5.教会って毎日やってるの?

A5.教会によって違いますが、南部教会は月曜日は基本的にお休みです。その他の日は、プレイズタイム、祈祷会などいろいろな会があります。気楽にぜひ一度おいで下さい。

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Q6.前に教会に行ったら「あなたは罪人です」って言われてむかついた。私何も今まで悪いことしてないのに。何でそんなこと言われなくちゃいけないの?

A6.いきなりそんなことを言われて不快に感じられたお気持ちよくわかります。教会で「罪人」というのは「神様から離れてしまった人」「神様を知らない人」のことを言うんですね。
私たちが普通使う、犯罪を犯したとか、そういう意味ではないのです。

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Q7.教会にはどんな人が行ってるの?何才から行っていいの?

A7.イエス様を信じる人、また信じていきたいなと思っている人が教会に来ています。イエス様を信じない人もぜひいらしてください。南部教会には今0才の赤ちゃんから、85才の教会員がいます。もし足の悪いお年寄りの方がいらしたらお迎えに行くことも考えます。狭い玄関ですが車椅子の方も入れますよ!

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Q8.私は仏教徒ですが、教会に行ってもバチがあたりませんか?

A8.イエス様はバチをあてる神様ではありませんから安心しておいで下さい。

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Q9.教会にはどんな格好で行けばいいですか?

A9.どんな格好でも大丈夫ですよ。神様はあなたのありのままを受け入れ愛してくださいます。

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Q10.教会に行ってみて、つまらなかったら途中で帰ることができますか?ドアがロックされていたりしませんか?

A10.大丈夫です。ドアはいつも開いています。