先週もMSR+のボランティアに、九州教区を始め日本の各地から17名、そして韓国の永楽教会からも21人の方々が来られて、炎天下の中、田んぼの草取りのボランティアをしてくださました。 そして、作業が終わった後で、田んぼの真ん中で手をつないで、ここに豊かな稲の穂が実り、傷ついた人々の心が癒され、素晴らしい神様の御業がなされるようにと祈ってくださいました。 わたしは、田んぼの真ん中で、祈りながら、ミレーの晩鐘の絵を思い出して、「いいな」と感激しました。 MSR+にもいろんな国の方々が来られますが、今ほど、東北のために世界中の人たちが祈って下さっている時は今までなかったのではないでしょうか。 その祈りを必ず神様が聞いて下さって、今は解らなくても、私たちの考えをはるかに超えた素晴らしい御業をなして下さることを信じています。
今日の中心の御言葉は、13節です
「そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
特に、『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』という御言葉を心に留めたいと思います。
今日読んでいただいたところは、「宮きよめ」と言われる聖書の箇所です。この並行記事が、マルコ11;15~19、ルカ19:45~48、ヨハネ2:13~22と4つの福音書に記されています。このことからも、この出来事が重大な出来事であったことが解ります。今日はこの聖書の箇所から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
今日の聖書の箇所から3つのことをお話ししたいと思います。
(1)イエス様が怒られた「エルサレム神殿」
ちょうど、この時は、過ぎ越しの祭りの時でしたから、世界中から散らされていたユダヤ人達が、祭りを祝うためにエルサレム神殿に集まっていました。
イエス様の一行が、エルサレム神殿に入られると、宮の境内で売り買いをしている人達がいました。 エルサレム神殿は、異邦人のはいることの出来る外庭と、ユダヤ人だけしか入ることの出来ない内庭に分かれており、その二つの庭は高い壁で区切られていましたが、この12節にある「神殿の境内」というのは、異邦人のはいることの出来る外庭だったようです。
イエス様が神殿に入られた時、その境内には神殿礼拝に必要なものが売られていました。 祭りの時には、地方から来た巡礼者たちは、犯した罪の代償として、犠牲の動物をささげなければなりませんでした。 その事がレビ記5章6~7節(P167)にあります。 「犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。貧しくて羊や山羊に手が届かない場合、犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩、すなわち一羽を贖罪の献げ物として、もう一羽を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。」
エルサレム神殿で、礼拝をささげるために、贖罪の献げ者として動物をささげなければなりませんでした。しかも、それは、傷のないきよい動物をささげなければなりませんでしたから、多くの人達が、旅の途中で動物が傷つかないように、エルサレム神殿で贖罪の動物を買うようになりました。 ですから、この境内には、雌羊や雌山羊を売る人、山鳩や家鳩を売る人で一杯で、動物の声が響き渡っていたに違いありません。
また、出エジプト記30章13節に、主への献納物についてこの様な規定があります。「登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。」 つまり、献金は外貨ではなくユダヤのシェケルというお金でささげなければならないことが定められていましたのです。そこで、ローマやギリシャのお金を持ってきた人達は、ユダヤのシェケルに両替をしなければなりませんでした。ですから、その境内には両替人が並んで、お金の音が鳴り響いていたのです。その手数料で両替人は、お金を儲けていたのです。
イエス様は、そのようなエルサレム神殿に入られたのです。そして、その光景をご覧になると、売買している人達を追い払い、両替人の台を倒し、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。
イエス様は、愛の人です。弟子たちを最後まで愛し抜かれ、そして、全人類の救いのために十字架で命を捨ててくださるほどに、私達の事を愛しておられるお方です。 その愛のお方が、なぜ、この時にこんなに怒りを露わにされたのでしょうか。
それは、愛するエルサレムに対する深く激しい失望と怒りです。
怒りには、二種類の怒りがあります。一つはエゴイズムから生まれた人間に怒りで感情にまかせた怒りです。それは他に対する非難と破壊で終わってしまいます。 もう一つは、神の怒りで、愛するが故の怒りで、偽善と不真実を焼き尽くす炎のような激しさと力を持ち、怒る本人にも痛みの伴う怒りです。
神様は、全人類の救いのために、まずイスラエルの民を選ばれました。そして、そのイスラエルの民が神様を礼拝する場所としてエルサレム神殿を建てられたのです。それなのに、今は礼拝は形式的なものとなり、神殿は荒れ果てていました。 イエス様は、神を礼拝する聖なる場所であるエルサレム神殿が、喧騒に満ち、欲望と利益を満たす場になりさがっていることに言いようのない怒りと憤りを覚えられたのです。それはまさに神の怒りでした。
そして、その怒りの理由が、13節にあります。
「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
この『』は、イザヤ56:7ですが、イエス様はこの『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』という御言葉を引用して、神殿は本来祈りの家でなければならないことを教えられました。 ところが、人々は神殿で商売することに慣れてしまい、それがどんなに神を礼拝する場にふさわしくない行為であるかに気がついていませんでした。彼らは、この時自分の利益のために神様を利用していたのです。イエス様は、そのように腐敗してしまった信仰に耐えることも赦すことも出来なかったのです。
(2)「祈りの家」
さて、17節の『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』とありますが、今の私達にとって、「祈りの家」とは何でしょうか。それは、私達の教会であり、聖霊の宮である私達の体です。
まず、教会についてお話しします。 私たちは、毎週、ここで礼拝を献げていますが、もし私たちが、この礼拝の場が、単なるこの世的な交わりの場所で会ったり、心の伴わない形だけの礼拝であるならば、それはこの当時のエルサレムでささげられていた礼拝と変わらないのではないでしょうか。 イエス様は、そのような姿を見られて、激しく怒られたのです。もう一度私たちの礼拝の姿を確認させていただきましょう。 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
昔、ホーリネスの教会は、教会のことを「祈りの家」と言っていました。そして、教会には「祈りの家」という看板が掲げられていました。 今日は、敬老の日ですが、私たちの教会は、多くの年輩の方々の祈りによって、支えられてきたことを思い出します。
天に召された、國井ハナさんが、まだ、駅前の香澄町に住んでおられたころですが、わたしが訪問をすると、必ずと言っていいほど、丸いテーブルの上には、聖書とアパルームが置かれて、祈りの香りが漂っていました。そこで、一緒に祈ったことを忘れる事が出来ません。
また、歌丸憲三郎さん、愛子さんご夫妻は、午前中は、二人で聖書を一章読んで、榎本保朗先生の「一日一章」を読んで、祈りの時を過ごしておられました。 よく「先生のために、教会のために毎日祈っていますからね。」と励ましてくださいました。 それだけではなく、ここにおられる方々の祈りによって、このような足りない者がここまで支えられ、今の教会があるのだと思うと感謝に絶えません。
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』 私達も、「祈りの家」にふさわしく祈りによって神様の素晴らしい御業を見せていただきましょう。
次に聖霊に宮である私達の体です。
Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
イエス様は、私達の罪のために十字架にかかってくださいました。そして、そればかりか3日の後によみがえられて、今も私達の体を聖霊が宿ってくださる神殿として用いてくださるのです。 私達の心がどんなに暗く汚れていても、また私達の周りの状況がどんなに大変な状況でも、イエス様は私達と共にいて祝福してくださるのです。イエス様を心にお迎えするということは本当に素晴らしいことです。
みなさんの中には、ニューヨークのスラム街で児童伝道をしておられるビル・ウィルソン牧師をご存じの方も多いと思います。 ビル・ウィルソン先生が子供の頃、母親はドラッグの常習者でとてもすさんだ生活をしていました。彼が12歳の時に、母親と一緒に座っていると、母親が急に立ち上がり「ここで待っていなさい」と言っていなくなってしまいました。ビルは、母親の言葉を信じて3日3晩ただ泣きながら待ち続けました。けれども、とうとう母親は帰ってきませんでした。 母親の帰りを待ち続ける彼の前を、いろんな人が通り過ぎました。麻薬中毒者、売春婦、通り魔、強盗・・・。もし、それらの人々が彼に声をかけて誘惑していたとしたら、彼は罪と悪の暗闇の世界に落ちてしまっていたかも知れません。 けれども、そのような道端で涙を流し、悲しそうにうなだれている少年に心を留めた一人の人がいました。彼は、クリスチャンでした。彼は、ビルを自分の家に連れて行き、食べ物を与え、教会のキャンプに誘いました。もちろん、ビルはお金を持っていませんでしたので、そのキャンプの費用もそのクリスチャンが払いました。 そのキャンプで、ビルは、イエス様に出会ったのです。 実の親にまで捨てられ、希望のかけらさえなかった彼の人生に、光が差し込んだのです。 それまでは、本当に孤独でどのように生きていったらいいのか解りませんでした。けれども、イエス様を信じた時、イエス様が心の中に宿ってくださり、いつも一緒に歩んでくださったのです。 やがて、彼は、ニューヨークのスラム街の子供達のために真剣に祈り始めました、そして、命がけで、この子供達にイエス様の愛を伝えるようになったのです。神様は彼を豊かに用いてくださり、次々に救われる子供達を起こしてくださいました。そして今では、彼の教会学校には毎週2万2000人もの子供達が集まっているそうです。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」
ビル・ウィルソンは、イエス様を心にお迎えした時に、人生が造り替えられ、神様の栄光のために用いられています。 そのイエス様は、イエス様を信じるわたしたちの体も、「祈りの家」「聖霊が宿ってくださる神殿」として用いてくださるのです。 今日、私達の心を神様に明け渡して、聖霊の宮として用いていただきましょう。
(3)「祈りの家」にふさわしい心
「他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
イエス様は、宮きよめをなさると、目の見えない人や足の不自由な人がやって来たので、イエス様は、そこにやって来た人たち達を癒されました。
そのような、不思議な業を見た子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と賛美し始めました。 ところが、それを見ていた、祭司長や律法学者は、腹を立てて、イエス様に16節で 「イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」と言いました。「子どもたちは、お前のことをメシアと言っている。もし、そのことを認めるなら、神を冒涜する不敬罪だ。」というのです。 ところが、それに対してイエス様は、16節の後半でこう言われます。
「イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
『』は、詩編8:2の引用です。イエス様は、この御言葉を引用して、メシアは幼子や乳飲み子から賛美されると言ったのです。 大人は心がかたくなで、偏見があるために賛美をしないが、幼子や乳飲み子は、純真なので、素直にイエス様をメシアと信じて、賛美しているのです。 そのような、幼子や乳飲み子から私たちは大切な事を学ばなければならないのではないでしょうか。
スイスの神学者、カールバルトは、20世紀最高の神学者であり、偉大な哲学者といわれています。 このカールバルトが、アメリカに行った時のことです。博士を囲んでセミナーが行われました。 そのセミナーの中で、一人の学生が、「バルト博士、これまで、あなたの頭にうかんだ、最も偉大な真理は何ですか?」と質問をしたそうです。 出席した人たちは、みんな、カールバルト先生が、何か偉大な、深遠な、答えが返ってくることを期待して、身を乗り出すようにしてその答えを待っていました。 すると、バルト先生は、その偉大な白髪の頭をゆっくりあげて、学生を見つめてこう言いました。「Jesus
loves me this I know for the Bible tell me so」とあの主我を愛すの歌詞を、ゆっくり語ったのです。 イエス様はあなたのことを愛しておられます。わたしは、聖書にそう書いているのを知っています。
聖書で一番大切なこと、それは、決して難しいことではありません。神様が私たちを愛しておられるという聖書に書いていることを子どものように、素直な純真な心で信じることです。
私たちも、子どものような、素直な純粋な心で、心からの祈りをささげ、賛美をしましょう。 そのような姿こそが、「祈りの家」にふさわしい人の姿です。
最後に、もう一度、13節を読みましょう。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
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