収穫の秋を迎えました。田畑は色づき、刈り入れが始まっています。農家の人にとっては、一年間の労苦が報われる喜びの時です。 ところが一方、被災地では津波の塩害のために、収穫はなく、多くの農家の方が、瓦礫の撤去に追われています。 私たちが、ボランティアをさせていただいた、亘理町は、いちごの名産地で、かつてはいちごで儲けた農家が、いちご御殿と言われるほど立派な家を建てたそうです。けれども、その家も畑も津波によって流されて、今年の春は、全く実を結ぶことはできませんでした。 一刻も早い復旧、復興が行われ、やがてあの被災地の田畑が色づき、いちごが豊かに実るように祈りたいと思います。
今日の聖書の箇所は「枯れてしまったいちじくの木」の話しです。
今日は、この枯れてしまったいちじくの木から、イエス様の御心を知り、どうすれば、豊かな実を結び成長することが出来るのかを学びたいと思います。
(1)実を求められる主
イエス様は、弟子たちと都に帰る途中、空腹を覚えられました。道端にいちじくの木があるのを見つけて、近寄られましたが、葉は茂っていても実は一つも実っていませんでした。 そこで、イエス様はいちじくの木に向かって19節で「今から後いつまでも、お前には実がならないように」 と言われると、そのいちじくの木はたちまち枯れてしまいました。
この出来事は、非常に不思議な聖書の箇所です。 イエス様が、エルサレムに入場されたのは、過ぎ越の祭りでしたから、春です。そして、日本でもいちじくは夏実りますが、イスラエルでも、夏実るのが常識です。 イエス様もそのことはよくご存じでした。それなのにどうして、イエス様はいちじくの木を枯らしてしまったのでしょうか。空腹でいらいらしていたからでしょうか。 そうではありません。
それは、このいちじくの木が、イスラエルを象徴するものだったからです。いちじくというのは、イスラエルの平和と繁栄をあらわすものです。
いちじくの木というのは、イスラエルで一番愛されていた果物で、申命記8:7~8では、約束の地のことを「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」
と言っています。 また、シナイ半島を旅したイスラエルの民が、約束の地に偵察隊を送った時、彼らがカナンの地が「良い土地」であることを証明するために、持って帰ったのも、ぶどうと、ざくろと、いちじくでした。(民数記13:23)
神様は、イスラエルをいちじくの木にたとえ、豊かな実を結ぶことを願っておられたのです。ところが、エルサレムは、葉が茂っていても、実がなっていないいちじくのようでした。 このいちじくの木のように、エルサレムは葉は茂っていても霊的には衰えていて、素晴らしい大神殿があり、宗教的な力も大きな勢力をもち、儀式が盛んに行われていましたが、神様への真実な信仰や貧しい人々への愛の配慮に欠けていたのです。
10月31日は、宗教改革記念日です。 この宗教改革を行ったマルティン・ルターは、最初の頃、行いによって救いを得ようと努力しました。聖書を読み、祈りをささげ、善行と言われることは何でもしました。ところが、いくら努力しても救いはありませんでしたし、聖書の光に照らされれば照らされるほど、自分の罪深さを示されるばかりでした。そこで、ローマ法王のいるローマに行けば救いが得られるに違いないと夢にまで見たローマに行ったのです。 ところが、ローマは非常に世俗化していて、「わたしが夢見てきたローマはこれだったのか」とその堕落した有様に失望してしまうのです。 そこで、1517年本来のキリスト教の信仰に立ち帰ろうと、マルティン・ルターはヴィッテンベルク城教会の扉に『95ヶ条の論題』を張り出し、信仰のみ、聖書のみ、万人祭司という3つの柱を掲げて、あの宗教改革を行ったのです。
あの、マルティン・ルターが、形骸化したキリスト教をなげいたように、いやそれ以上に、イエス様はエルサレムの町と腐敗してしまったエルサレム神殿をご覧になって失望されたのです。
葉は茂っていても、実を結んでいないいちじくの木・・・。
被災地の農家の方が、塩害に遭った土地を耕し、肥料を蒔いて、苗を植えたそうです。苗は成長し花を咲かせましたが、根が深くまで張らないので、実を結ぶ前に枯れてしまったと悲しそうな顔をしておられました。
私達は、どうでしょうか。私たちの信仰が形式化していないでしょうか。私たちの心や信仰生活に豊かな実を結んでいるでしょうか。
3カ所聖書の箇所を開きたいと思います。
・悔い改めの実ルカによる福音書3章8節「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
ここに、悔い改めにふさわしい実を結べ。とあります。どうでしょうか。主の御前に自らの罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結んでいるでしょうか。
・御霊の実ガラテヤ5章22、23「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」 ここには、9つの実が表されています。最初の霊のみが結ぶ実は愛であり、という愛という実が、単数で書かれていますので、ちょうどぶどうの房のように、9つの実で一つになっているそんな実です。どの一つの実を取っても本当に素晴らしい実です。そして、すべての実が神様の愛のあらわれです。 どうでしょう。このような豊かな実を結んでいるでしょうか。
・伝道の実テモテへの手紙二4:2「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
神様は、すべての人が救われることを願っておられます。そのために、救われた私たちが御言葉を宣べ伝えなければならないのです。そして、伝道の豊かな実を刈り取らせていただきましょう。
私達は、今収穫の時を迎えていますが、私達もイエス様の十字架の恵みにふさわしい悔い改めにふさわしい実を、御霊の実、そして伝道の実を結ものとさせていただきましょう。
(2)実を結ぶために
20節で、弟子たちは、いちじくの木がたちまち枯れてしまったのを見て驚いて、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねています。
このいちじくの木が枯れたのは、イエス様の言葉によるものだと言うことを良く知っていたのです。ペトロは、このイエス様の言葉の力とその呪いの意味の重大さを感じて大きな不安を感じたのです。
そこで、イエス様は、弟子たちにこうおっしゃいました。21~22節「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
これこそが、エルサレムの宗教指導者たちに欠けていたものです。エルサレムの宗教指導者は、壮大な神殿で、荘厳な礼拝をささげていました。そのように外側は、整っていましたが、礼拝に一番大切な祈りと信仰が欠けていたのです。そのような礼拝は、結局神様の裁きを受けて枯れてしまうのです。
それでは、どうすれば、豊かな実を結ぶいちじくになることが出来るのでしょうか。イエス様は、ここで三つのことを語られています。
①疑わない信仰
21節に「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、」とあります。 神様を信じる信仰、これが、実を結ぶために一番大切なものです。 イエス様は「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、」と言われた後で「いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とおっしゃっています。 信仰は、山を海に動かす程の力があります。信仰は、必ず実を結ぶのです。
ヘブライ人への手紙11章をお開き下さい。11章6節には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」とあります。 11章には「信仰によって」という言葉が何度も繰り返し出てきます。 昔から、ノアもアブラハムも、モーセもダビデも、ダニエルもすべて神様に大きく用いられた人達は、みんな信仰において偉大な人達でした。ここに記されているすべての人達が、信仰によって豊かな実を結んだのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」
それがたとえからし種のような小さな信仰でも、生きた信仰があるならば、鳥が宿るような豊かな実を結ぶ事が出来るのです。
②信仰による祈り
22節「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 サルターという人が、この信仰の祈りについてこう言っています。「祈りの弓に、約束の矢をつがえ、信仰の手をもって放てば、これを天まで達せしめることができる。」祈る時に、そのような姿を思い出して祈ると良いのではないでしょうか。 祈りの弓に、約束の矢(御言葉)をつがえ、信仰の手でそれを放つのです。信仰と御言葉の祈りの矢は、天にまで達し、豊かな実を結ぶのです。
宗教改革者マルチン・ルターが、ある時親友のメランヒトンが大病を患ったというのでお見舞いに行きました。その枕元で、約一時間ばかり、信仰をもって熱心に祈ったそうです。そして、祈り終わった時、その祈りは天まで届いたという確信が与えられそうです。 彼は、帰って自分の妻に「神様は、必ずわたしの祈りに答え、兄弟メランヒトンを癒してくださるに違いない。」と言いました。 そして、マルチン・ルターが言った通りに、神様は、その祈りに答えてくださり、その時から、彼の病は不思議に解放にむかい、やがて全く癒されました。そして、ルターと共に宗教改革の働きに貢献したのです。
22節「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」 信じて祈る祈りには力があります。
新聖歌196番の「祈れ物事」という聖歌は有名で祈祷会などで良く歌いますが、その4節に「祈れ御業は必ずなると、 信じて感謝をなし得るまでは。」とあります。
祈りの中で、このことは必ずなると信じて感謝を献げることが出来るまで祈りましょう。そのような信仰の祈りを主は必ず聞いて下さるのです。
③他人の罪を赦すこと
祈りが聞かれるために必要な事がもう一つあります。マルコ11:25(P85)をご覧ください。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」 罪が心の中にあると、豊かな実を結ぶことが出来ません。
もうすぐ紅葉の季節を迎えますが、みなさんはどうして葉が落葉するかご存じですか?あれは、葉っぱ全体が枯れ始めるのではないそうです。ある時期になると、枝と葉の間に薄い膜が出来るそうです。その薄い膜のために、葉っぱに栄養が行かなくなり葉全体が枯れて、落ちてしまうのです。 それと、罪というのは良く似ています。私達と神様との間に、罪があるならば実を結ぶことが出来ないのです。特に、ここで、イエス様は他人の罪を赦すことを求めておられます。
中世の頃、ある大名が隣国の大名をやみ討ちしようと計画を立てました。 キリスト教の影響の強い時代です。そのことを教会の牧師に相談すると、その牧師は、大名を連れて、礼拝堂に行きました。そこで、ひざまずいて「主の祈り」をささげましょうと祈り始めたのです。「天にまします我らの父よ・・・」と祈り始めて、だんだん進んで「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく・・・」というところに来た時です。その大名は急に口をつぐんでしまいました。 「どうしましたか。なぜ、祈れないのですか。」と聞きますと、大名は「それを唱えては、やみ討ちができなくなる。」と言いました。そこで牧師は「それが唱えられないようでは、あなたの罪は許されません。」と言われ、彼は悔い改めて、主の祈りをささげ、隣国の大名をやみ討ちするのを思いとどまったそうです。 その結果、その国に平和が訪れ、祝福の中を過ごすことが出来たというのです。マルコ11:25「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
どうでしょうか、今、あなたと神様を妨げている罪、また、あなたと人とを妨げる罪がないでしょうか。その罪をそのままにしておくと、どんなに祈っても実を結ぶことは出来ません。 あの大名のように罪を悔い改めて、平和という実を、何よりも私達の心の中に豊かな実を結ぶ者とさせていただきましょう。
今日は、実を結ばない、いちじくの木を通して私達が実を結ぶために3つのことを学びました。
①神を信じる信仰②御言葉を信じて祈る祈り③他人の罪を赦すこと イエス様は、実を結んでいないいちじくを見て、弟子たちにこの3つのことを弟子たちに教えられました。 どうでしょうか。私達は、悔い改めにふさわしい実を、御霊の実を結んでいるでしょうか。神様を信じ、御言葉を信じて祈り、罪を悔い改めて、豊かな実を結ぶ者とさせていただきましょう。