10/23 主日礼拝

「家を建てる者の捨てた石」 マタイ21:23~46

おはようございます。 先週は、小樽ホーリネス教会の問安のために、お祈りをありがとうございました。 小樽ホーリネス教会は、ホットエルという、ゴスペルのグループがあって、毎週礼拝後に練習が行われていますが、その働きを通して救われる魂が起こされてきました。 今回も特別伝道礼拝が行われ、その中で素晴らしい賛美が献げられました。 その中に、初めて、被災に遭って、小樽に非難されている宮城県の女性が、3人の子どもを連れて礼拝に出席されました。ご主人は、宮城県で仕事をしておられ、これからどうすればいいのか解らない時に、教会の人に誘われたそうです。 「私も、宮城県でボランティアをさせていただいているくんですよ。」と声をかけると大変喜んで下さって、お祈りをすると涙を流して、感謝しておられました。 神様は、私たち一人一人の悩みをご存じで、愛の御手をもって招いておられるのです。

今日の中心の御言葉は、42節です。

「イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
 今日は、21章23~32節を読んでいただきました。 ここには、ユダヤの指導者達とイエス様の権威を巡っての論争が書かれています。
(1)権威を巡っての論争

  イエス様は、エルサレム入場されてから、毎日のように神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられました。 エルサレム神殿の東側にソロモンの廊があって、そこではラビ達が歩きながら、集まってくる人達に教えを説いていました。ですから、イエス様がここで教えを説かれたことは、特別なことではなく、普段ラビ達がやっていることに過ぎませんでした。 けれども、エルサレム神殿に入ってからの、イエス様の様々な行為や、民衆の圧倒的な支持に、ユダヤの指導者達は、いらだちと不安をつのらせていました。 そこで、ある日、イエス様が神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやってきたのです。
 この論争から、二つの権威を見ることが出来ます。

①人からくる権威

 彼らは、サンヘドリン(ユダヤ議会)のメンバーであり、エルサレムの宗教的、社会的指導者でした。彼らは、その権威をかざして厳しい口調でこう言いました。23節「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
  ここで、彼らは「何の権威で、このようなことをしているのか。」と言っていますが、「このようなこと」というのは、イエス様が、神殿で教えていることとも取ることが出来ますが、そうではなく彼らが問題にしていたのは、先週お話しした、「宮きよめ」の出来事だったようです。 イエス様が、行われた宮きよめの出来事は、彼らが定めた神殿の秩序を乱すものでした。そして、それだけではなく、彼らの利益を損なうものだったのです。彼らは、神殿の中で商売をしている人達から上納金を受け取り、大きな利益を得ていたのです。ですから、そこへイエス様が来られて、宮きよめをされては困るわけです。 彼らの関心は、真心から神様を礼拝することよりも、現実の利益にあったのです。 それにも関わらず、彼らは自らの権威をかざして、神の子であるイエス様に質問をしたのです。
 「人から」の権威、この世の権威は、自分の都合の悪い人達を滅ぼそうとする恐ろしいものです。
 神様の元を離れた、自己中心な罪人が、権力を握るということは本当に恐ろしいことです。 そして、この祭司長、律法学者、長老達の権威が、神の子であるイエス・キリストを十字架につけてしまうのです。
②「天から」の権威

 それに対して、イエス様は「天から」の権威をもって語っておられます。イエス様は、この時に直接彼らの質問に答えられずに、逆に一つの質問をなさいました。24~25b節をご覧下さい。「イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
 「天から」というのは、神からという意味ですが、ここで、イエス様はバプテスマのヨハネは、神様からの権威によってバプテスマを授けたのか。それとも、人からの権威によってバプテスマを授けたのかと切り返したのです。 バプテスマのヨハネに関しては、当時、二つの評価がありました。 一つは神様から遣わされた預言者であり、もう一つはただの人間に過ぎないと言う評価でした。 これを聞かれたユダヤの指導者達は大変戸惑ってしまいました。 そのことが、25節の後半から26節に書かれています。「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 彼らが戸惑った理由がここに書かれています。 もし、「天から」と答えるなら、バプテスマのヨハネは、イエス様を神の子であると預言していましたから、なぜ、彼に従わないのかと言われてしまいます。また逆に、「人から」と言えば、彼を預言者だと信じる民衆の指示を失うことになってしまいます。
 彼らは、イエス様の質問に対して、どちらとも答えることが出来ませんでした。それによって、イエス様は一転して、彼らを窮地に追いやったのです。 そのように答えに詰まった彼らに対して、イエス様はこう答えられます。27節「そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 真実な権威は、神様から来るものです。
 あのフランスの皇帝で、世界に勢力を広げ「私の辞書には不可能という文字はない」と言ったナポレオンⅠ世は、晩年セント・ヘレナ島に流された時に、こう言ったそうです。「私は今や、たった一人で死のうとしている、しかし、イエスキリストの兵士は、キリストの旗を掲げて行進している。」
 まさに、あの時代、キリスト教は、この世の権威によって迫害や殉教に合い、いつ滅んでしまうかと思われました。しかし、ナポレオンの最後は、たった一人でしたが、キリストの福音は、全世界のすべての人に広がっていったのです。
 イエス様は、この時、天からの権威をもって語られました。それに対して、ユダヤの指導者達は、「分からない」と答えた。」  と書かれています。この世のどんな権威も天からの権威には太刀打ちできないのです。
 イエス様は、21:23で、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」とユダヤ人の指導者たちに尋ねられていますが、27節で「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 とおっしゃって、結局その質問には直接にはお答えになりませんでした。 けれども、その事を、28~46節で、二つのたとえを用いて語られています。


(2)「2人の息子」のたとえ

  ぶどう園の主人に2人の息子がいました。 ぶどう園の主人は、まず、兄のところに行って、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。」と言いました。兄は、「いやです。」と答えましたが、後で考え直して出かけました。 次に弟のところに行って同じように言うと、「お父さん、承知しました」と言いましたが、出かけませんでした。 そのようなたとえ話をなさって、イエス様は31節でこう尋ねました。 「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」   ここで、最初は「いやです」と言いながらも、考え直してぶどう畑に行った、兄を、徴税人や娼婦たちに譬えています。彼らは、罪深く、神様から遠い存在だと考えられていましたが、救い主が来られた時、罪を悔い改めて救われたのです。
 それに対して、「お父さん、承知しました。」と良いながらも、ぶどう畑に行かなかった弟を、祭司長や律法学者やファリサイ人に譬えています。彼らは、選民と呼ばれ、律法を厳守していることを誇りとしていましたが、救い主イエス・キリストが来られたにもかかわらず、受け入れようとはしなかったのです。
 ここで、カギになる言葉が、29節です。「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」  ここに後で考え直して出かけたとあります。

 あの、豚のえさのいなごまめを食べたいと思うほど、落ちぶれてしまった時、ルカ15:17には、「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』  言って父親の所に立ち帰るのです。 「彼は我に返って言った。」と書かれています。それは、180度の方向転換という意味があります。どのような取り返しのつかない罪を犯しても、神様からかけ離れていると思っても、その場所から、「考え直して」「我に返って」180度の方向転換をして、神様のもとに立ち帰れば良いのです。
 徴税人や娼婦はそのように罪を悔い改めましたが、祭司や律法学者、ファリサイ人は、返事は良かったのですが、救い主の所へは行こうとはしませんでした。


(3)ぶどう園の農夫の譬え

  このたとえは、救済史とも言われるたとえで、神様がどのようにして救いを実現されたかということが書かれています。そして、ここには救いの主権は神様にあるということが書かれています。
 まず、33節をご覧ください。 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」 

 ここに出てくる「ある人」とは神様、「ぶどう園」とはイスラエルの国、「農夫」とは、そのイスラエルの民を表しています。 33節には、ある人が、精魂込めて作ったぶどう園を農夫達に貸したことが書かれています。 ぶどう園とは、ただ、土を耕して木を植えればいいというものではありません。獣を防ぐ垣を巡らし、収穫が終わったらすぐにぶどう酒が作れるように、搾り場を掘って、それが盗まれないように、見張りのやぐらを立てたのです。
 そのように、神様は、イスラエルの民を選ばれ、このブドウ園の主人のように、精魂込めてイスラエルの民を愛され、守り導かれて、収穫の準備をされたのです。 そのようにして、このイスラエルの民を通して全人類の救いの実現をしようと計画を立てられ、豊かな実を結ぶことを期待されたのです。
 やがて、収穫の時になったので、僕を農夫達のところに送りました。ところが、その農夫達は、その僕を捕まえ、1人を袋だたきに、もう一人を殺し、一人を石で打ち殺したのです。 そこでまた、他の僕を前よりも多く送りましたが、同じ目に遭わせたのです。 このたとえは、イスラエルに送られた預言者たちのことを表しています。そして、このたとえのように、神様から遣わされた預言者達は、苦難を経験したのです。
ネヘミヤ9:26(P753)「 しかし、彼らはあなたに背き、反逆し/あなたの律法を捨てて顧みず/回心を説くあなたの預言者たちを殺し/背信の大罪を犯した。」

 そのように、神様は、たくさんの預言者を遣わして、イスラエルの罪を警告しますが、とうとう彼らはそれらを受け入れようとはしませんでした。
 しかし、主人は寛大な心を持って、37節では「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と最後に、主人は自分の愛する息子を遣わしたのです。それは、神の子であるイエス・キリストをあらわしていることは言うまでもありません。 ところが、農夫達は、とんでもないことを相談したのです。そのことが38節に書かれています。「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』」  そのようにして、神様から選ばれたイスラエルの民は、神様の期待に応えることが出来ずに、とうとう、神の子であるイエス・キリストを十字架につけてしまうのです。 その結果、エルサレムは紀元70年に、ローマ軍に滅ぼされ、ユダヤは滅亡して異邦人に支配されてしまいます。イエス様はそのことをこのたとえ話で預言しておられるのです。
 ところが、神様は、このとんでもない絶対に許せないような出来事を通して、ユダヤ人の罪を明らかにすると同時に、このことを通して素晴らしい救いの御業を成してくださったのです。 この聖書の箇所はまさに、野球に譬えるなら9回裏の大逆転です。 ユダヤ人の罪の権威によって、神様の救いの業は、もう終わりかと思われました。そして、神様は、そのひとり子であるイエス・キリストを遣わされたのですが、その神の御子でさえ彼らは十字架につけてしまうのです。 けれども、そのイエス・キリストの十字架の死によって神様は、救いの道を開いてくださったのです。42節をご覧ください。「イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
 イエス様はまさに「家を建てる者の捨てた石」のように、当時の宗教家や律法学者たちに捨てられ、十字架につけられてしまいます。けれども、そのイエス様は、この時全人類の罪の身代わりに十字架にかかられたのです。そのイエス様によって、救いの道が開かれ、教会が建てあげられるようになったのです。 まさに、神様の愛による大逆転です。 そして、救い主の権威は、十字架の傷跡に表されています。
 ビリー・グラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区で日雇い人夫をしていた一人の人が救われました。 貧しさの故に荒れた生活をしていた彼は、この時から、全く変えられたのです。教会へも日曜毎に通い、仲間に会うと誰かれとなく教会に一緒に行こうと誘いました。 ある日のことです。仕事場で、顔にかたな傷のある、いかつい顔をした男と出会いました。昔の彼なら、そんな男には近づこうともしなかったのですが、神様によって変えられた彼は、進んでその顔に傷跡のある男と組んで仕事を始めました。 二人は、昼食の時間になったので、がれきの山に腰をおろし、ぽつり、ぽつり世間話を始めましたが、「今度、教会に来ないか」と、勧めたのです。突然のことにびっくりした彼は「このおれが」と自分を指さして言いました。「俺なんか駄目さ。こんな傷を持った俺を、どうして教会が迎えてくれるんだ。」と言って下を向いてしまいました。 その男に、彼はこう言ったそうです。「いいや、俺たちをな。迎え入れてくださるお方がいらっしゃるんだよ。そのお方は、お前より、もっとひどい傷を持っておられるんだよ。」
 もう一度42節をご覧ください。

「イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」 

 イエス様御自身が、人から捨てられ、神様からも捨てられて、十字架に架かってくださいました。その十字架によって救いの道を開いてくださったのです。
 私たちの救いは、「人から」くる権威によるのではありません。「天から」くる権威、すなわち十字架の愛によるのです。この十字架を見上げて、救いの恵みの中を歩ませていただきましょう。

 

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Illustration by c-awase