10月の第一聖日にご奉仕くださった、木内先生が、「先生、私たちは岩沼市の住民になりましたよ。」と岩沼市に住民票を移したことを報告してくれました。 わたしは、とうとう東北の地に骨を埋めるつもりで、住民票を移されたのかと大喜びをしましたが、良く聞いてみると、そういう訳ではなく、木内先生は、ボリビアに9年おられて今年の6月に帰国されましたので、住民票を日本に移すために、今自分たちの住んでいる岩沼市に住民票を移したということでした。
私たちクリスチャンには、二つの国籍があります。一つは、この世の国籍で、日本人であるならば日本に国籍があり、その責任を果たさなければなりません。 もう一つは「私たちの国籍は天にあり」とありますが、イエス・キリストを信じて永遠の命をいただいた時から、私たちの国籍は天にあります。 その二つの国籍をいただいた、私たちはどのような生き方をすれば良いのでしょうか。今日は、司会者にマタイ22:15~22を読んでいただきましたが、この御言葉から「神のものは神に」という題で御言葉を取り次がせていただきます。
今日の中心の御言葉は21節です。「彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
この出来事は、イエス様がエルサレム入場されて、十字架にかかられる少し前の出来事です。 ファリサイ派の人々は、何とかしてイエス様を捕らえて殺そうと考えていましたが、群衆を恐れて、手をくだすことが出来ませんでした。 そこで、彼らは策略を巡らし、ここでは、彼らの弟子とヘロデ派の人々を一緒に遣わして、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようと、質問をさせたのです。
15~16節をご覧下さい。
「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。」
ファリサイ派の人々というのは、生粋のユダヤ人であり、国粋主義者でした。そして、それに対してヘロデ派の人々というのは、徹底してローマに傾倒する人達でした。ですから、彼らの考え方は全く違う者で、普段は犬猿の仲でした。 ところが、その犬猿の仲のファリサイ派とヘロデ派の人々が、イエス様の前にあらわれたのです。それは、ただ、イエス様をおとしいれようという目的であり、どちらの立場をとっても、どちらかがイエス様を訴える証人となるためでした。
彼らは、まずイエス様の所に来ると、最大級の賛辞を並べ立てています。16節の前半をご覧下さい。 「そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」
ここに「先生」「真実な方」「真理に基づいて」「だれをもはばすらない方」「人々を分け隔てなさらない」とありますが、この言葉の中に、イエス様をおだてて陥れようとする思惑を知ること読みとることが出来ます。
そこで、質問の本題に入ります。17節「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
質問の本題は、皇帝に税金を納めることは、律法にかなっているかどうかということでした。 この質問は、どちらを答えたとしても大変な問題になり、イエス様を不利におとしいれるようなものでした。 もしも、イエス様が税金を納めるべきだと答えたとしたらどうなるでしょうか。
当時は、イスラエルはローマに支配され、皇帝にまで税金を納めなければならないということは我慢の出来ないことでした、ですから、機会があれば、そのように支配から解放されて、政治的にも経済的にも真の自由を勝ち取りたいと思っていたのです。 そのような時に、イエス様が来られ、力あるわざや、新しい教えを語られたので、もしかしたら、イエス様が私たちをローマの支配から救い出してくれる指導者かも知れないと期待を抱き始めていたのです。 ところが、もしここで、イエス様が皇帝に税金を納めなさいと言ったら、彼らの心はいっぺんに失望し、イエス様から離れてしまうことになってしまいます。
しかし、もし逆の皇帝に税金を納めなくて良いといったらどうでしょうか。 今度は、ローマに対する立派な反逆罪です。官僚に訴えられ口実が与えられることは明らかです。 ですから、これは簡単には答えられない問題でした。「税金を納めなさい」と答えても「税金を納めなくてもいい」と答えても必ずとちらからか激しく批判される仕組みになっていたからです。
そのような、巧妙な質問に対して、イエス様はどのようにお応えになったのでしょうか。そのイエス様の答えについて3つのことをお話ししたいと思います。
(1)知恵に満ちた答え
イエス様の答えは実に見事なものでした。 ファリサイ派やヘロデ派の人々の、最大級の賛辞と、巧妙な質問の陰に隠されている偽善と殺意を鋭く見抜いて、こう言われました。まず、18、19a節をご覧下さい。「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」」
この一言で、この論争の主導権は、イエス様に移りました。 このデナリオン銀貨には、ローマの皇帝第二代皇帝ティベリウスの像が刻まれていたと言われています。そこで「これは、だれの肖像と銘か」
と聞かれると「皇帝のものです」と答えました。 パリサイ派とヘロデ派の人々は、イエス様を罠にかけるつもりでしたが、いつの間にかすっかり、イエス様のペースに乗せられていました。 そして、イエス様はこうおっしゃいます。
21節「彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
この言葉は、彼らの罠に陥らない巧みな答えでした。 また、それだけではなく、問題の本質にかかわる答えでもありました。ローマとユダヤという政治と宗教の二大勢力が微妙に絡んでいたこの社会では、それそれのものを認め合いながら共存しなければなりませんでした。人に従うよりは神に従うということは大前提ですが、地上の秩序に従うことも必要です。ですから、この言葉は、当時の社会に対するすぐれた回答でした。イエス様は、全てをご存じで、知恵に満ちたお方です。
(2)皇帝のものは皇帝に
「皇帝のものは皇帝に」
当時のユダヤ人は、ローマの支配下にいましたので、その責任を果たさなければなりませんでした。 それと同じように、私たちも「国籍は天にある」からと言って、この地上での責任を果たさなくて良いというのではありません。今、日本国民である以上、国に税金を納めなければなりませんし、日本の法律を守らなければならないのです。それをもっと具体的に考えると、地域の秩序や、学校の規則なども守る必要があるということです。 イエス様は、山上の説教で、「あなたがたは世の光である。」とおっしゃいました。光は暗闇の中でこそ輝くのです。 この世の中は暗闇に覆われています。 特に、東日本大震災から8ヶ月になりますが、今でもその被害は大きく、多くの人達が不安を抱えて生活をしています。
けれども、そのような暗い社会だからこそ、クリスチャンの光が必要なのです。この世の中でも責任を果たし、世の光として輝かせていただきましょう。
21節「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
世界一金持ちだった、ロックフェラーの話しです。 ロックフェラーは若いころ、神様に「世界一の金持ちにしてください。」と祈り、多くの富を築くことができました。 ところが、彼が、53才になった時、突然病に襲われました。夜も眠ることができず、数枚のビスケットと水しかのどを通らず、美しかった彼の顔は、まるでミイラのように変わっていきました。髪の毛が抜けていき、それを隠すために、2週間毎に長さが違うカツラに変えて、自然に髪が伸びているかのように見せたのですが、だんだん隠すことができなくなってしまいました。 その時に彼は、こう祈ったのです。「神様、どうかわたしの健康を祝福してください。長生きしたいからではなく、今まで築いてきたお金を、この世のために、そして、善を行うために用いたいからです。」 神様はこの祈りに答えてくださり、彼の健康を回復させてくださいました。 ひたすら、世界一の会社を築くため、わき目も振らず53年走ってきた実業家ロックフェラーは、そのときから事前事業家に変えられました。その後43年間、ロックフェラーは、お金を稼ぐこと以上の喜びと熱情をもって、献金を必要としている学校や、福祉団体や、教会に今まで稼いできたお金をささげていきました。 そして、彼は微笑みながら「主からいただいたものを主にお返ししただけです。」と言って、96才で天に召されていったのです。
私たちも、ロックフェラーのように、この世にあって「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」生き方をさせていただきましょう。
(3)神のものは、神に返しなさい
「神のものは、神に返しなさい。」
この御言葉が、私たちクリスチャンにとって、もっと大切な御言葉です。私たちは、自分がどのような存在なのかということを突き詰めていくと、究極的には神様のところまで帰っていきます。 創世記1章27節をご覧ください。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と書かれています。 これは、私たちには神の像が刻まれているということがあらわされています。 ちょうど、デナリオン銀貨に皇帝の像が刻まれているように、わたしたちの体には、神様の像が刻まれているのです。これは本当に素晴らしいことです。そして、そうであるならば、私たちは自分自身を神様の者として、神様に自らを返さなければならないのではないでしょうか。
けれども、私たちはどうでしょうか。神様に栄光を帰す生き方が出来ているでしょうか。神様の像が刻まれた私たちであるにもかかわらず、神様に栄光を帰すどころか、自己中心な自分勝手な生活をしてはいないでしょうか。 そして、そのように、神様にかたどって造られた私たちが、それを忘れて自己中心な自分勝手な生き方をしているところに、全ての問題の根源があるのです。
アダムとエバが、神様に食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実を取って食べてしまいました。それが、人類が犯した最初の罪でした。神様に従わずに、自己中心に自分勝手に善悪を知る知識のみを取って食べ、神様中心の生活ではなく、自己中心の生活を始めたのです。
そのために、私たちに刻まれた神様のお姿は、汚され、薄れ、消えかかって見えなくなっているのです。それをどのようにすれば回復できるのでしょうか。わたしたちは、どんなに努力しても、私たちが不完全ですから、自分地からでは、完全な神様の像を刻み直すことなど出来るはずがありません。
けれども、そのような私たちを愛して下さり、神様のお姿を、私たちの内に刻み直すために神の子である、イエス様がこの地上に来てくださったのです。そればかりか、イエス様は私たちを「「神のものは、神に返」すために、十字架にかかってくださったのです。そして、そのイエス様の十字架の贖いによって、罪が赦され、神の子と呼ばれるようにしてくださったのです。私たちは、神の子です。子供は、親と似ています。 そのように、神様は、私たちをイエス様の十字架の血潮によって、私たちの内に神様の姿を刻みつけてくださったのです。
その素晴らしい恵みをもう一度覚えましょう。そして、だからこそ、私たちも神のものとして、神様に栄光を帰す者でありたいと思います。
何カ所か聖書を開きます。ローマの信徒への手紙12章1~2節(P291)
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
コリントの信徒への手紙一6:19~20(P306)
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
この御言葉にあるように、私たちの体を神の喜ばれる生きた聖なる献げましょう。そして、わたしたちの体は、聖霊が宿ってくださる神殿です。自分の体で神の栄光を現すものとさせていただきましょう。
最後にもう一度21節をお読みしたいと思います。
「彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
私たちは、この地上で生かされていますから、知恵が必要です。この世の秩序の中で、責任を果たさなければなりませんし、それが良い証しの場にもなります。 けれども、何よりも大切なのは、私たちを神様に似たものとして造りかえていただき、私たちを救いに導いて下さった神様に栄光を帰すことです。 私たちを、聖なる生きたいけにえとして献げ、自分の体で神の栄光を表す者とさせていたただきましょう。