早いもので、今日は、アドベントの第3週目を迎えました。 今年は、大震災のことがあって自粛ムードですが、それでも、ところどころイルミネーションが輝いています。 先日、ボランティアに行った時に、名取市を車で走っていると、ある家で、イルミネーションが飾られていて、そこに「がんばれ名取」と赤い光が輝いていました。 その光を見た時に、心が明るくなりました。 私たちは、光を見ると心が明るくなります。 そして、クリスマスは、暗いこの世に、救い主が、まことの光として来てくださった日です。
今日の中心に御言葉は、5節です。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
この御言葉は、口語訳聖書では、こう訳されています。「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」 光が、輝くと一瞬にして、闇は消え去ります。そして、どんな暗闇も光に勝つことはできません。
イエス様は、ヨハネによる福音書8章12節で、「わたしは世の光である。」と言われました。「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
イエス様は、約2000年前のクリスマスに真っ暗なこの世を照らす、まことの光としてお生まれになったのです。今朝は、この光について、ヨハネ1:1~9から3つのことをお話ししたいと思います。
(1)光を創造された救い主1~3節
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
1節に「初めに言があった。」 とありますが、この「言葉」という単語はギリシャ語ではロゴスという言葉が用いられていますが、このロゴスという言葉は、イエス・キリストをあらわす言葉です。 ですから、この「言」というところに「イエス・キリスト」という言葉を入れると、この御言葉が良く分かります。
「初めにイエス・キリストがあった。イエス・キリストは神であった。このイエス・キリストは、初め神と共にあった。万物はイエス・キリストによって成った。成ったもので、イエス・キリストによらずに成ったものは何一つなかった。」
このように読むと解ると思いますが、イエス様は、神の子として永遠の昔から神様と共におられたお方なのです。そして、万物は三位一体の神によって創造されたのです。
天地創造が行われる前、この世はどのようなところだったのでしょう。 創世記、1章1~3節を読んでみましょう。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
神様が天地創造をなさる前は、光が一つもない、深い誰も経験をしたことのない暗闇の中にありました。そこで、神様が「光あれ」と言われると、今まで闇に包まれていたこの世に光が差し込んで、世界中を照らしたのです。 神様は、太陽の光も月の光も星の光も造られたお方です。 ここにろうそくの光や、電気の光がありますが、この地上の光と神様が造られた光とは全然違います。 ろうそくは、吹き消すとすぐに消えてしまいます。また、この電気もスイッチを切ったり、停電になると消えてしまいます。けれども、太陽の光は人間の力では消すことは出来ません。 そして、人間の作った光は、下からの光ですが、神様の光は上から与えられる光です。
そして、神様は、「光あれ」という一言で、光を造られ、私たちが一度も経験をしたことのない暗闇を打ち破られたお方なのです。 ということは、私たちの心の中に、どんな暗闇が襲ってこようと、その心の中に「光あれ」必ず光を与えてくださるお方なのです。
今年、日本に大きな暗闇が襲ってきました。東日本大震災で、地震と津波、それに原発と大きな災害によって、12月現在、死者が15,781人、行方不明者が4086人という、大惨事になってしまいました。 また、なかなか進まない被災地の復興や、特に放射能の問題で、被災地の方々だけではなく、日本中の人たちが、大きな不安と恐れがあります。
みなさんの中にも、今、暗闇の中を歩んでおられる方がいらっしゃらないでしょうか。そして、この問題は、自分には手に負えないし、どうすることも出来ないと失望したりあきらめてしまってはいないでしょうか。 けれども、諦めないでください。イエス・キリストは、天地創造の時に光を創造された方です。そのお方が、私たちの心の中に光を与えてくださらないはずがありません。「光あれ」と一言でこの地上に光を造られたお方は、あなたの心の中にも光を与えてくださるお方なのです。
(2)暗闇からの救い主5節
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」 後半に「暗闇は光を理解しなかった。」 とありますが、旧約聖書は、まさに、神の光を理解しなかった歴史であるといっていいと思います。
そして、6~8節には、バプテスマのヨハネのことが書かれています。 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
このバプテスマのヨハネの使命は、光について証しをするためでした。そして、彼が伝えたのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2)というメッセージでした バプテスマのヨハネは、メシア預言をした最後の預言者ですが、旧約聖書の歴史を見てみると、罪の歴史であり、その罪を悔い改めて、神様に立ち帰るようにという、神様の愛のメッセージであることが分かります。
天地創造の時に「光あれ」と言われると、この地上は明るくなりました。神様は、この光の中で、植物や動物を造られました。そして、土のちりで人間の形を造り、それに命の息を吹き入れられました。 神様が、天地創造の業を成し遂げられた時、創世記1章31節には 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書かれています。神様が造られた世界は、神様の目から見ても素晴らしく、栄光に満ちたものでした。 ところが、最初に造られたアダムとエバが、神様から食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまったのです。その時から、人間の心に罪が入ってきたのです。
それは、善悪の知識の木の実に毒が入っていたとか、その実に原因があるのではありません。神様との契約を破ったしまったことに原因があります。その時から、人の心の中に神様に従わない、罪が入り込み、神様から離れた人の心の中に暗闇が入り込んだのです。それは、電気のスイッチを切るのと同じです。 罪という言葉には、断絶という意味があります。神様と離れてしまうことです。人は神様から離れたために自己中心になり、悪を行うようになりました。 電気のコードを断絶すると、光が消え、真っ暗闇になるように、神様との断絶によって私たちの心の中に暗闇が訪れたのです。
このように、アダムという一人の人が、善悪の知識の木から実を取って食べたことによって、罪がこの世に入り込み、罪によって死が入り込んでしまいました。 そして、旧約聖書には、その神様に背き続ける長い人間の罪の歴史が書かれています。
けれども、神様は、そのような罪を犯し続ける人間を見捨てるようなことはなさいませんでした。それどころか、そのような神に背き、罪を犯し続ける私たちの救いのために、ひとり子であるイエス・キリストを送ってくださったのです。そのひとり子によって救いの道が開かれたのです。
ローマ5:17~18(P280)「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
アダムという一人の人によって、全人類に罪と死がこの世に入り込んでしまいましたが、神のひとり子であるイエス・キリストによって、すべてが義とされて命を得ることになったのです。
私は、岩沼のボランティアセンターから、気仙沼に行く時に、何度も壊滅的な被害に遭った南三陸町を通りました。 今年の9月、北海道教区の方々が来られた時に、南三陸町の防災センターの場所に行きました。その防災センターも津波で流されて、鉄骨の骨組みだけになっていました。 この場所は、みなさんも覚えておられると思いますが、あの日、一人の若い女性が、最後まで、「津波です。高台に避難して下さい。」「津波です。高台に避難して下さい。」と、自分が波にのまれるまで避難警告を何度も繰り返し叫び続け、それによって多くの住民の方が命を救われた場所です。そこには、たくさんの花束が飾られていました。 この話しは聞いたことはありましたが、実際にその場所に立ってみると、こみ上げてくるものがありました。 そこで、みんなで輪になって、南三陸町の方々の癒しと復興のために祈りました。 そして、祈りながら、ヨハネ15:13の御言葉を思い出しました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
一人の人の犠牲によって、大勢の人たちが救われたのです。
そして、何よりも素晴らしい恵みは、罪も汚れも一切ない聖い神の子、イエス・キリストが、わたしたちのために命を捨てて下さったことです。 罪に汚れ、自分ではどうすることも出来ない、私たちの救いのために、この地上に来てくださいました。それが、最初のクリスマスです。 この救い主によって、この世に救いの道が開かれました。 神様は、私たちのために十字架で命を捨ててくださる程に、「これ以上大きな愛はない。」愛をもって私たちの事を愛してくださっているのです。
(3)すべての人を照らすまことの光9節
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
神様は、そのような罪に汚れ、暗闇の中を歩み続けている人間の救いのために、「まことの光である」イエス・キリストをこの地上に送ってくださったのです。 このイエス様は、御自分のことを「まことの光である」とおっしゃったお方です。ヨハネ8:12
「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
神の子であるイエス様が御自分で「わたしは世の光である。」 とおっしゃられたのです。イエス様こそが、「世の光」「まことの光」であります。そして、続いて「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 とおっしゃいました。
「従う」ということは、イエス様につながることです。断絶してしまった電気のコードを、つなぎ合わせるのと同じです。つなぎ合わせると、電気がついて光を灯すことが出来ます。そのように、イエス・キリストの十字架の福音を信じて、イエス様につながるならば、私たちの心も明るく輝くことが出来るのです。イエス・キリストは「まことの光」としてこの地上に来られました。このイエス様を心にお迎えして、光の中を歩ませていただきましょう。
森 裕理さんは、この東日本大震災の後に、被災地に行ってコンサートを行っていますが、森 裕理さん自身が、阪神・淡路大震災の時に、愛する弟を失うというつらい経験をしたのです。 そのことが、被災地で配られているたチラシに載っていました。 1995年1月17日の事です。森 裕理さんの弟さんは、卒業論文を書くために、神戸に行き、あの震災にあったのです。 18日に、森裕理さんの家族は、弟さんと全く連絡がとれず心配して、お父さんが大阪から歩いて神戸まで探しに出かけました。 西宮から東灘区の下宿まで、3時間、地震で大きな被害を受けた神戸の町を歩いて、やっと着いた弟の下宿は、見る影もないほどひどく壊れていました。 大家さんに聞くと「バイクがないから、森君は逃げたと思いますよ」と言います。 でも、胸騒ぎを覚えたお父さんは、瓦礫を掘り始めると、中に弟さんの体を見つけました。必死になって、何時間も近所の人と一緒に瓦礫を取り除きましたが、出てきた時には、弟さんはすでに冷たくなっていまっていたのです。 19日、牧師やお父さんに抱えられて、毛布に包まれて弟さんは帰ってきました。その時に、森 裕理さんの心は、真っ暗になり、心の中に穴が空いたかのようでした。そして、その穴は、どうすることもできない心の傷になりました。
お葬式までの数日、弟さんの遺体は、ドライアイスに包まれて、実家に置かれていました。ある時、森裕理さんが紫色にはれあがった弟の顔を眺めていると、心の中に声が響いてきたのです。「お姉ちゃん、おれ死んでないよ。」 はっとしました、「おれ、もっといいところ、天国に行ったから心配するな。」 その心にささやく声を聞いた時、森裕理さんの目に涙があふれました。その涙は、悲しみの涙ではなく、死を乗り越える大きな力を感じた、神様への畏敬の涙でした。 その時に、心の暗闇が打ち破られ、光が輝いたのです。 森 裕理さんは、その希望を胸に被災地に行きました。瓦礫の中、炊き出しの場、仮設住宅など、どんな場所も特設会場に早変わりして「希望の翼コンサート」が行われ、160回以上のコンサートが行われました。そして、同じように苦しんでいる多くの人達と会いました。そこで、手を取り合い、涙を流しながら歌う中で、森裕理さん自身も癒され、多くの人に慰めと励ましを与えることができたのです。
そのような経験をされた、森 裕理さんは、今回の東日本大震災でも、被災地を廻って、コンサートを行い、同じように愛する家族を失った人たちや、苦しみの中にある人たちに、大きな慰めと希望の光を与えておられます。
イエス・キリストこそが、暗闇を照らすまことの光です。 私たちの心が今、どのような暗闇の中にあっても、まことの光であるイエス様をお迎えする時、その心の暗闇は消え去り、希望の光の中を生きることができるのです。 クリスマスを迎えようとしているこの時、このまことの光であるイエス様を見上げましょう。そして、決して消えることのない「まことの光」の中を歩ませていただきましょう。
今日は3つのことをお話ししました。
(1)光を創造された救い主。
(2)暗闇からの救い主
(3)すべての人を照らすまことの光
どうでしょうか。みなさんの心の中に、暗闇があるでしょうか。もし、そのような暗闇があなたの心にあるならば、ぜひ、今日、「まことの光」である。イエス・キリストを、信じて、心に受け入れて下さい。このイエス・キリストは混沌とした世の中に、光を創造されたお方です。そのお方が、私たちの心の中に光を与えて下さらないはずがありません。そして、そのまことの光であるイエス様を心にお迎えして、私たちをこの世を照らす世の光として用いていただきましょう。