おはようございます。
新しい年を迎えて、8日が過ぎました。 特に今年は2012年を迎えて、一日一日が神様が与えてくださった、新しい特別な一日だという思いが与えられています。
今年の御言葉をみなさんで読んでみましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 (使徒言行録16:31)
今日は、母エウニケと祖母ロイスに育てられたテモテの姿から、家族の救いと成長の祝福について御言葉を取り次ぎたいと思います。
今日の、中心の御言葉は、5節です。
「そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」
このテモテへの手紙二は、使徒パウロが愛するテモテに宛てて書いた2通目の手紙です。 この祖母ロイスと母エウニケの信仰を継承したテモテの姿を良く表している言葉がありますので、それをまず開いて見たいと思います。 使徒パウロは、多くの人たちと一緒に伝道しましたが、中でもこの年若いテモテとよく一緒に各地を歩いたようです。そのいつも身近にいたパウロが、テモテのことをこう言っています。
Ⅰコリント4:17(P304)「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」
ここでは、「彼は、わたしの愛する子で、主において忠実なものであり・・・」とパウロは紹介しています。この言葉からもよく分かりますが、パウロがどんなにテモテのことをどれだけ愛し、信頼していたかが良く分かります。 どうして、テモテはパウロからそのような愛され、信頼されるようになったのでしょうか。いろいろな事が、挙げられると思いますが、その大きなカギが、今日の中心の御言葉、Ⅱテモテ1章5節にあると思います。
5節の後半でパウロは「その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。」
テモテの信仰は、まず祖母ロイスと母エウニケに与えられました。そして、その信仰を、祖母ロイスにとっては孫であり、母エウニケには息子であるテモテに、伝えたのです。 それも、この二人は、自分の人生で一番大切なものとして、遺産を分け与えるかのように命懸けでこの信仰を伝えたのではないでしょうか。その結果、使徒パウロにこんなにまで愛され、信頼される忠実な人になったのです。
現在、日本のキリスト教会では、信仰の継承ということが大きな問題として取り上げられていますが、この祖母ロイスと母エウニケは、どのようにして信仰を継承したのでしょうか。 テモテはやがて、パウロと共に伝道者として用いられていくのですが、そのための備えとして3つのことをテモテは与えられました。
(1)家庭での聖書による子育て
祖母ロイスと母エウニケは、パウロの第一回伝道旅行の時に、ルカオニア地方のルステラに立ち寄ったときに、福音を聞き、信仰を持ちました。 テモテの家で最初にキリスト教の信仰を持ったのは、祖母ロイスと母エウニケでした。そして、彼女たちは、聖書から学んだ信仰の確信をしっかり保ち続けました。 けれども、この二人の信仰は自分だけの信仰にとどまりませんでした。彼女たちは、パウロから聞いた純粋な信仰をテモテに注意深く伝えたのです。 テモテは、祖母ロイスと母エウニケから、祈られ、聖書を読み聞かせられて成長しました。このようにして、テモテは、聖書に親しんで成長し、正しい信仰を受け継いでいったのです。
現在、教育の困難さがしばしば論じられています。その原因として挙げられるのが家庭教育です。 家庭で、過保護に育てられた子供は、中高生になって、考えられないような反抗をするケースがあるそうです。 また、逆に放任されている場合は、判断力がつかず、間違った方向に進んでしまうことがあるそうです。
このように、家庭でその子供がどのように育てられて行くかということで、その子供の生き方が大きく左右されていきます。 私も一人の親として責任を神様から与えられているのですが、私の教えることが一つの人格を左右してしまうと思うと自信がありませんし、真剣に考えるとその責任の重さに押し潰されそうになってしまいます。 けれども、私達クリスチャンには、この祖母ロイスや母エウニケのように、聖書が与えられているということは、本当に素晴らしいことです。 人間の考えや、人間の教育というものは、どんなに素晴らしいものであっても絶対的なものはありませんし、限りあるものです。 しかし、聖書の御言葉は、決して変わることのない神様の言葉です。この聖書に基づいて子供たちを教え、私達に与えられた信仰を継承していくことは素晴らしいことです。
先週の水曜日から土曜日まで、かわかみ設計事務所で設計された町田福音キリスト教会の脇先生ご夫妻と4人の子どもたちがスキーに来られました。吹雪の中でしたが、楽しくスキーをしました。そして教会にも寄って下さり、お交わりの時が与えられました。 脇先生の奥さまの多恵さんは、おじいさまが亡くなった時に、洗礼を受けられたそうです。そして、去年の8月におじいさまが亡くなられましたが、その時に次男の和生君がイエス様を信じて、今年のイースターに洗礼を受けられるそうです。 そのように、信仰が継承されていくことは何よりも素晴らしい恵みです。
申命記11章18~20節には、子供たちに聖書の言葉を伝えることが具体的に命じられています。(P299)「あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
特に20節には「書き記しなさい」という言葉が記されていますが、これは英語では、in print という言葉が使われています。版画を作るときに、インクが染み込むように何度も何度も刷り込むように、子供たちに御言葉を伝えなさいと言うことです。
おばあちゃんがこどもに昔話を、何度も繰り返しお話しするように、祖母ロイスは聖書の話を語り聞かせたのではないでしょうか。 また母エウニケは、台所で、生活の中で生きた聖書の御言葉をテモテに伝えたのです。 私達も子供たちに、家庭の中で、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」インクを刷り込むように、聖書の言葉を伝えさせていただきましょう。
ジョン・ウェスレーとスザンナ・ウェスレーの間には19人の子供が与えられましたが、与えられたかわいい子供達を、なんとしても立派に育てようと、決心したスザンナは、祈りと御言葉によって、子供を育てました。 毎朝、旧約聖書を一章、夜は新約聖書を一章、そして、毎日二回詩編を一緒に読んだそうです。子供を正しく教育するためには、聖書程良い物はないと思ったからです。子供達は、神様に従い、神様のお役に立つことが、彼女の一番の願いでした。 スザンナが、19番目の子供を身ごもっていた時のことです。牧師願が火事になり、5才のジョンだけが、二階に取り残されました。階段は目の前で焼けくずれ、もう助けに戻ることはできません。スザンナは「助けてください。」と祈りながら、気を失ってしまいました。 その時です。近所の勇敢な二人の農夫が、火の中に飛び込んで、ジョンを助けたのです。ジョンを連れた二人が外に出てくると同時に、屋根は音を立てて崩れ落ちました。ジョンは、最後の瞬間に、奇跡的に救い出されたのです。 ジョン・ウェスレーは、その時のことを思いだし、自分のことを「火の中から取りだした燃えさし」と言っています。 スザンナは、19人の子供の内9人までが、病気や事故で天に召されてしまいましたが、神様は、スザンナの祈りに応えてくださいました。あの時、火事の炎の中から助け出されたジョンは、伝道者となり、弟のチャールズ・ウェスレーは讃美歌を書いて、リバイバルの炎が燃え上がったのです。
本当に、感謝なことに、私達の教会にはたくさんの子供たちがいます。この子供たちが本当に素晴らしい人生を過ごすことが出来るために、聖書の御言葉を伝えましょう。そして、この山形南部教会の中からも、第二のテモテ、第三のテモテが起こされることを期待して希望を持って伝道させていただきましょう。
(2)神様から与えられた賜もの
テモテが、祖母ロイスと母エウニケから継承した2番目の事は、神の賜物です。6節を御覧ください。 ここに、「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」とあります。
手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物というのは、具体的には、パウロがテモテに与えた按手のことです。 パウロは、第二回伝道旅行のときに再びルステラを訪れました。その時にテモテは、自分の町だけではなく隣の町イコニオムでも、クリスチャンたちの間で評判の良い若者になっていました。そこで、パウロと長老たちは、テモテを神様の特別な使命に遣わすために按手を施したのです。 この按手というのは、特別な目的のために、献身をすることを表す行為です。そして、新約聖書では「宣教や奉仕のための聖別」や聖霊の満たしのためにこの按手が行われています。 テモテはパウロの按手を受けたときに、特別の賜物が与えられました。
Ⅰテモテ4:14(P387)「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」
「あなたの内にある恵みの賜物」とあるように、テモテは、神様からの一方的な賜物として、信徒を教え、牧会する賜物を与えられたのです。そして、この神様からの一方的な恵みによって、テモテは伝道者にされたのです。
私達もイエス様を信じたことによって「恵みの賜物」を与えられているのです。 ここにいるみなさんが、テモテのように按手を受けて、特別な目的のために用いられる訳ではありません。しかし、神様はすべてのひとに一方的な恵みとして賜物を与えておられるのです。 ある人は、信徒として、ある人は役員として、証しすることができます。また、ある人は学生として、ある人は主婦として、ある人は仕事を通してイエス様の愛を言葉を通して、行いを通して伝えることが出来ます。 「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。」 それぞれが与えられている「恵みの賜物」はかけがえのない素晴らしい賜物です。それぞれにふさわしい素晴らしい賜物を神様が与えて下さったのです。その賜物は、どれが良くて、どれが劣っていると比べられるものではありません。全てが、かけがえのない素晴らしい賜物なのです。 テモテが、「恵みの賜物」をいただいて信徒を教育し、牧会し、伝道したように、わたしたちも、お互いに与えられている恵みの賜物を生かして、主の栄光をあらわすものとさせていただきましょう。
(3)福音のためなら何でもする熱心
祖母ロイスと母エウニケによって与えられた三番目の恵みは、全ての人を愛する愛です。 使徒言行録16章1~3節には、テモテが伝道者になるために割礼を受けていることに表されています。 3節に「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」とあります。
テモテの母エウニケは、ユダヤ人でしたが、父はギリシャ人でしたので、テモテは割礼を受けていませんでした。そこでパウロは巡回伝道者としてテモテを連れて行くために割礼を授けたのです。 何故、パウロはテモテに割礼を授けたのでしょうか。勿論割礼を受けなければ救われないと信じていたのではありません。ただイエス・キリストを信じるだけで救われるということは、パウロは良く知っていました。 にもかかわらず、テモテに割礼を施したのには大切な理由がありました。それは、これから伝えようとしていたユダヤ人に対する愛から出たものでした。と言うのは、当時、儀式にうるさいユダヤ人が「無割礼の者が、伝道しているとはけしからん。」と言って非難する可能性があったので、ユダヤ人達に配慮する必要があったのです。 そして、テモテも福音宣教のために喜んで割礼を受け、パウロに従ったのです。
パウロはⅠコリント9:19~23でこう言っています。(P311)「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
特に23節でパウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」とあります。それは、神様を愛する思いと、福音を伝えようとする人々に対する愛がなければ決して出来ることではありません。私達も神様の愛に満たされて「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と福音を伝えるものとさせていただきたいと思います。
テモテは、このように祖母ロイスと母エウニケから、聖書を学び、恵みの賜物と神様の愛を継承して、伝道者になりました。 そして、パウロと共にマケドニアにも渡って伝道活動したテモテは、パウロの大きな信頼を得ました。そして、第三回伝道旅行の後は、エフェソにある教会を牧会するという重大な責任を果たすことになります。 そのような素晴らしい働きをした伝道者テモテでしたが、彼は決して力強い完璧な人間ではありませんでした。
Ⅱテモテ1章7節を御覧ください。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」
ここに「おくびょうの霊ではなく、・・・」とありますが、重大な任務をおわされたテモテは、度胸のある堂々とした人ではなかったようです。ですから、パウロはここで「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」とテモテを励ましたいるのです。
また、Ⅰテモテ5;23節には、パウロがテモテの胃の状態を心配している箇所があります。そこには、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ブドウ酒を少し用いなさい。」と言っています。このことからも、テモテが非常にデリケートな神経の持ち主だったのではないかと考えられます。
それでは、どうしてそのようなおくびょうな、また若くてデリケートなテモテが、この大変な時代に、福音を大胆に宣べ伝え、伝道者としての人生を全うすることが出来たのでしょうか。
それは、神様の愛と霊の力によってです。 そして、テモテにはその神様の愛と霊の力を感じる具体的な事がありました。それは、祖母ロイスと母エウニケが伝えた御言葉と祈りによるものです。 彼は、日常生活の中で福音に触れ、理屈抜きで信仰の信仰の素晴らしさを知っていました。幼いころから、聖書に親しんで来たことは、彼を信仰者として成長させる大きな力になったに違いありません。 聖書に基づいた生活は、テモテのように「おくびょうな」私達を強くし、周りからの困難に力を与えてくれるのです。
聖書に基づく家庭、それほど素晴らしい家庭はありません。 テモテは幼いころ、そのような、聖書と信仰を祖母ロイスと母エウニケに教えてもらったからこそ厳しい伝道の戦いに耐えて信仰を全うすることが出来たのではないでしょうか。私達も、愛する子供たちにこの聖書の御言葉と信仰を伝えていきましょう。
祖母ロイスや母エウニケのように、聖書と「あなたが抱いている純粋な信仰」を、愛する大切な子供たちに伝えさせていただきましょう。
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