2012年の年間聖句を、読みましょう。
使徒言行録16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
最初に、「主イエスを信じなさい。」とあります。「主イエス」とはどのようなお方でしょうか。
イエス様は、神の子ですから、何でも出来る全能のお方です。そして、十字架で命を与えてくださる程に、私たちの事を愛しておられるお方です。そのお方を信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。というのが、この御言葉の約束です。ただ、このお方さえ信じればどんなことがあっても大丈夫なのです。
この御言葉は、良く聞く単純な御言葉ですが、本当に、この御言葉のように「主イエス」を信じているでしょうか。 主イエスを信じていれば、大丈夫だと言うことは頭では分かっていても、自分の力で何とかしようとか、誰かの力や他のものに頼っていると言うことがないでしょうか。そのような私たちに、「主イエスを信じなさい。」「ただ信ぜよ」という聖歌がありますが、、イエス様だけを信じていれば大丈夫だと語りかけておられるのではないでしょうか。
今日の中心の御言葉は23節です。
「イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
今日読んでいただいた前の箇所9:2~13には、変貌山の記事が書かれています。イエス様が、ペトロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登られると、イエス様が栄光の光を輝かせ、その輝きの中にモーセとエリヤが表れたのです。それは、まさに天国のような輝きでした。 ところが、今日の聖書の箇所には神の栄光とは対照的な世界が描かれています。 イエス様が、変貌山で、神の栄光を表しておられたころ、地上では、弟子たちは、不信仰のために、悪霊に取りつかれた子供を癒すことが出来ずに当惑しきっていました。 今日は、この聖書の御言葉から、ここに出てくる3種類の人々の姿から、主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)弟子たちの不信仰な姿
イエス様が、ペトロとヤコブとヨハネを連れて、あの変貌山から帰ってくると、他の弟子たちは何をしていたのでしょうか。
14節をご覧下さい。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
弟子たちは、悪霊につかれてものを言うことの出来ない子供を癒すことが出来なかったので、大勢の群衆に囲まれて、律法学者たちと議論をしていたのです。
その時の状況が、17~18節に書かれています。「群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
どうして、この時、弟子たちは悪霊を追い出すことが出来なかったのでしょうか。 それは、彼らの不信仰です。彼らは、神様に頼ろうとはせずに、自分の力で、悪霊を追い出そうとしていたのです。そこには何の力もありません。
あのちいロバ先生で有名な、榎本保朗先生が、信仰についてこんなたとえ話をよく用いられたそうです。 どんな走り高跳びの選手でも、3メートルを超えることは出来ません。しかし、少しも飛ぶことの出来ない赤ん坊でも、飛行機に乗れば、何千メートルも上空に昇ることが出来ます。 それが、キリスト教の信仰です。私たちも、人間の力から言えば、赤ん坊と変わらないかも知れません。けれども、イエス・キリストを信じる信仰によって、はじめて可能な世界が与えられるのです。それが、神様から一方的に与えられる恩寵です。
神様は、全知全能のお方です。このお方を信じて従うならば、必要な全てを与えてくださるのです。 不信仰を取り除いていただき、自分の力や自分の知識に頼ることをやめて、神様だけを信頼して、祈る教会でありたいと思います。
(2)父親の信仰
この父親から、大切な二つのことを学ぶことが出来ます。
Oまず、その問題をイエス様の所に持っていくことです。
19節「 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
ここでイエス様は、「その子をわたしのところに連れてきなさい。」とおっしゃいました。 「その子」というのはどのような子でしょうか。悪霊に取りつかれて、所かまわず地面に引き倒され、口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまう「その子」です。誰の力でもどうすることも出来ず。弟子たちの力でもどうすることの出来なかった「その子」です。 また、その子は、この父親にとって、本当にかけがえのない大切な子供でもありました。この父親は、愛する子供が、地面に倒れて、転び廻っている姿を見て、また、悪霊によって火の中や水の中に投げ込まれるのを見て、どんなに心を痛めたことでしょうか。その父親の愛が、わざわざ、イエス様を訪ねてこの場所にまでやって来させたのです。
イエス様は、その大切な人を、また、その自分ではどうすることも出来ない問題や課題を「わたしのところに持ってきなさい」「その子をわたしのところに連れてきなさい。」とおっしゃっておられているのです。
まず、この父親は、その問題をイエス様の所に持っていきました。そこから、イエス様の癒しの御業が始まったのです。 私たちも様々な問題があります。その問題や課題を、主の御前に注ぎだして祈るのです。そこにこそ本当の解決があり、それが問題解決の一番の近道です。
O次に、できると信じることです。
イエス様のところにその子を連れて行くと、悪霊は、すぐにその子を引きつけさせました。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いたのです。なんという悪霊の力でしょうか。それは、悪霊が自分の力を見せつけているようでした。 ところが、イエス様が、その父親に「このようになったのは、いつごろからか。」とお尋ねになると、父親はこう答えるのです。
21~22節「イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 それに対してのイエス様の答えは、23節です。「イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」「神にはなんでも出来ないことはありません。」その事を信じる者には何でもできるとおっしゃったのです。
そのイエス様の言葉を聞いた父親は24節でこう答えています。「その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」」 「信じます。」という言葉と、「信仰のないわたしをお助けください。」という言葉は、一見矛盾している言葉のように思えます。けれども、この言葉の中に、信仰の真髄があります。 信仰というのは、まず、自分の信仰のないこと率直に認めて、神様に絶対的な信頼を置くことです。 私たちの信仰は、神様を信じる信仰と、この世の常識や現実の間で揺れ動いてしまいます。そのような弱さの中で、この父親のように「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と祈って、神様に絶対的な信頼を置くのです。
水曜日の夜、復興支援委員会が行われ、岩沼市で行われている宮城南部復興支援ボランティアのこれからの歩みについて、話し合いと祈りの時が持たれました。 これまでは、ボランティア中心の働きでしたが、この働きを通して、救われる魂が起こされ、教会が建て上げられるようにというビジョンが与えられました。 そして、名前が今までは、MSR+でしたが、その+の後に、「岩沼チャペル」という名前がつけられました。そして、これからは月に一回ですが、ボランティアが行われる時には、早天だけではなく、初日の夜に礼拝が行われることが決められました。 先日もお話をしましたが、今から13年前に、ウェスレアン・ホーリネス教団の教会は、山形南部教会一つしかありませんでした。そこで、何とがもう一つの教会を生み出すことは出来ないだろうかと、私たちは壮年会で名取市や岩沼市を視察し、その地で、「神様この地に、教会を建ててください。」と祈った事がありました。 その後、キリスト塩釜ともしびチャペルの開拓伝道がはじまり、名取、岩沼の伝道のことは、棚上げになっていました。 ところが、この震災を通して、もう一度、13年前に祈った場所で、ボランティアが始まり、まだ始まったばかりですが、「岩沼チャペル」の働きが始まろうとしているのです。 それは、単なる偶然ではなく、神様があの13年前に祈った小さな祈りを聞いて下さったのだと本当に感謝しました。23節「イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
このお方のもとに、問題を持って行き、心から信じて、祈りの答えを見せていただきましょう。
素晴らしい御業を表していただくために必要なことを、今日2つ学びました。 一つは、「その子をわたしのもとに連れてきなさい。」とおっしゃるイエス様の所に、その問題や課題を持っていくこと。 そしてもう一つは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 とイエス様への絶対的な信頼を表すことです。 そのようにして、主の御業を見せていただきましょう。
(3)祈りによらなければ
イエス様は、このようにして、悪霊を追い出されました。それは、本当に素晴らしい神様の御業でしたが、それを見ていた弟子たちはショックを受けたようです。 この出来事の後で、イエス様が家の中に入られると、そっとイエス様に「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねています。 その弟子たちにイエス様は、こう答えられます。29節「イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」 イエス様はここで「祈りによらなければ」と言っていますが、「祈りによる」とは、神様との深い交わりの中で、神様の力を受けることです。ですから、「祈りによる」とは、「神の力によって」ということです。
わたしたちも、この悪霊につかれた子供の父親のようにその問題や課題ををイエス様の元に持っていき、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と信じて祈るなら、私たちの力ではなく、神様が素晴らしい御業を成してくださるのです。 「神には、何でも出来ないことはありません。」神様は、この自然も、天地万物を支配しておられるお方です。 その神様に祈ることこそ、最善の方法であり、最高の力です。
先週、ウェスレアン・ホーリネス教団の委員会が行われました。二泊しましたが、一泊は、教団ビルに泊めていただき、次の日は、妹の所に泊まりました。 私は、4人兄弟ですが、上の3人は、洗礼を受けていますが、妹だけは、反発して、洗礼を受けていません。 今年は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この御言葉をいただいて、何とか福音を伝たいと祈りながら、妹のところに行きました。 家に着くと、妹が、二日前に、妹の夫が、東京から神戸に転勤という辞令が出たばかりだと話しをしてくれました。いろいろ家族会議をした結果、まず、単身赴任で、神戸に行き、様子をみて、長く単身赴任が続くようだったら、家族で引っ越しをという事になったということでした。 その時に、妹が俗と祈りたいと思いましたが、みんなが、忙しそうにしていましたし、妹の家族は誰も信仰を持っていませんので、気を使って、祈れずに、その日は寝むってしまいました。 次の朝、ディボーションをして、「神様、何とか妹家族と祈りの時を持つことができますように。」と祈りました。 そして、食卓に着きましたが、みんな学校や出勤の準備でばたばたしています。とても、祈りの雰囲気ではありません。 その時に、私が一番気を使っていた、妹の夫が、私がなかなか食事をしないのを見て、「お祈りだ。さぁ、みんな集まって。」と言い出したのです。妹も、二人の子どもたちも食卓に集まって来きました。そして、「単身赴任をする妹の夫のため、また、留守を守る妹と二人の子どもたちの祝福のために」祈る事が出来たのです。 祈り終わると、一番大きな声で妹の夫と子どもたちが「アーメン」と言いました。そして、妹は、涙を隠すように台所にいきました。 その時に、神様が朝の祈りを聞いて下さったのだと感謝しました。
今年「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」という約束を与えられ、24節に「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」とあるように、何でもおできになるイエス様を信じて、祈り続け、福音を伝えて、神様の素晴らしい御業を見せていただきたいと思います。
それぞれの救われていない家族が、救われていったらどうでしょうか。 神様が御言葉の約束を与えてくださいました。その御言葉を信じて、家族の救いのために、祈り、福音を伝えていきましょう。もし、家族に伝える勇気や信仰の弱さを感じるなら、この父親のように、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と祈れば良いのです。そうすれば、神様が一番良い時に、一番良い方法で家族の救いを見せてくださるのではないでしょうか。
今日は、癒しの賜物をいただきながらも、不信仰によって、癒すことの出来なかった弟子たちの姿と、イエス様の所に「その子」を連れて行き、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と神様への絶対的な信頼を表した父親の姿を見てきました。 そして、この父親の姿こそが、祈りの姿ではないでしょうか。
私たちはどうでしょうか。今日、弟子たちのような不信仰を取り除いていただき、この父親のように今ある問題や課題を、イエス様の所に持っていき、絶対的な信頼を持ってイエス様に祈るものとさせていただましょう。
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