12月は、クリスマスメッセージを、1月は、今年与えられた年間聖句から、特別な聖書の箇所を選んで、メッセージを取り次がせていただきましたが、また2月から、マタイの福音書の
講解説教に戻りたいと思います。 今日は22:23~33を読んでいただきましたが、21章には、エルサレム入場の記事が書かれていますが、イエス様がエルサレムに入場して最初にされたことは、エルサレム神殿で、商売をしている人を追い出し「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われた宮きよめでした。 ところが、それがファリサイ派の人々の反感をかい、ファリサイ派の人々は、なんとかして、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようとします。 しかし、イエス様は、たとえを用いてみごとに、答えられたのです。
ファリサイ派の人々が、イエス様の前に、あえなく敗退したことを知ると、今度はサドカイ派の人々が、イエス様に論戦をしかけてきました。それが、今日の「復活についての問答」です。
今日の中心の御言葉は30節です。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
今日の聖書の箇所には、復活を巡っての論争が書かれていますが、この箇所を3つに分けてお話しをしたいと思います。
(1)復活を信じないサドカイ派の人々
む サドカイ派の人々は、当時のユダヤ人の階級では、知識階級と上流階級に属していました。大祭司は、サドカイ派の人々でなければなることが出来ませんでした。そして、彼らは旧約聖書の中でも、モーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを神の言葉として認め、ファリサイ人のように言い伝えや戒めを、神の言葉だと信じていませんでした。 そして、イエス様とのことで対立してしまった致命的なことは、彼らは、人間の論理的なことを大切にして、霊の働きや、死後の世界や、復活については信じなかったことです。
昔ある人に、キリスト教の信仰について、イエス様の言葉や、行いは信じられる。けれども、復活だけはどうしても信じられないということを聞いたことがあります。 死人がよみがえるなんて、とても無理なことで信じられない。 それは、本当にそうかも知れません。現在は、大変科学の進んだ時代ですが、一度死んだ人がよみがえるなどということは、科学的にはとうてい説明できないことです。 復活というのは、神様の全能の力を信じることなしには、とうてい理解できないことです。
ですから、イエス様を陥れるために、復活について複雑な問題を用意してきたのです。サドカイ派の人々は、聖書(モーセ5書)と人間の論理で、イエス様の教え、特に復活ということの誤りを正そうとしたのです。
まず、24節をご覧下さい。 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
これは、申命記25章5~6節(P319)の引用です。
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」
モーセの時代、自分の家系と財産を守るために、長男が死んでしまった場合、その弟がその兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎになることが定められていたのです。 そこで、サドカイ派の人々は、この規定を利用して、復活というのが、いかに非現実的で、非合理的なものであるかを証明しようとしたのです。
それが、25~28節です。
「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
律法によると、長男の妻は、長男の夫がなくなると、次男の妻になります。そして、次男が亡くなると、三男の妻になります。そのようにして、この女性が7人兄弟みんなの妻になった場合、天国に行ったとき、誰の妻になるのでしょうかという質問です。 だいたい、こんなことはあり得ないことです。 しかし、彼らは真剣にそんなことになってしまったら大変な事になるから、復活は不合理で、実際にあり得ないし、そんなことがあっては困るというのです。 彼らの論理は、一見聖書的で、説得力があります。それだけ、良く考え抜かれた質問でもありました。 彼らは、なんとかして、イエス様の教える復活の教えの誤りを論証しようとしたのです。そして、そのことによって、イエス様に対する民衆の支持を失われることができると確信していたのです。
けれども、このサドカイ派の人々の考えは、2つの点で間違っていました。 一つは、イエス様が語られた復活というのは、一般論ではなく、イエス・キリスト御自身の十字架の死と復活を表していたということです。 そして、もう一つは、この復活というのは、単なる人間の生の延長としての復活ではなく、イエス・キリストの十字架と復活による、新しい復活の意味を教えられたことです。
そこで、イエス様は、29節でこうおっしゃいます。「イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」
サドカイ派の人々は、この世的には知識もあり、論理的にもすぐれていました。しかし、それが妨げとなって大きな思い違いをしていたのです。彼らの信仰は、自分の知識や経験によるもので、神から出たものではありませんでした。 イエス様が、言われたように、聖書も神の力も知らなかったのです。
そのような、サドカイ派の人々の姿は、そのまま現代人の姿をあらわしているのではないでしょうか。多くの人達は、自分の知恵で聖書を読み、自分の体験で聖書や復活という出来事を理解しようとしています。その結果、自分の知識で理解できない真理は、自己流に解釈して、信じることができないのです。
そこで、イエス様は、30節以下で、復活について積極的に教えておられます。
(2)復活の時の霊的な世界
まず、30節をご覧下さい。
「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
ここで、イエス様が言われたのは、復活は霊的なもので、復活後の世界のいとなみは、この地上での生活とは、本質的に違うものであるということです。私たちの知識や論理では理解できない世界であると語られたのです。
メソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレーが、ある時夢を見たそうです。彼は、夢の中で天国の門まで行きました。ウェスレーは、天国の門に入ることが許された人はどんな人たちだろうと思って、天国の入り口にいる天使に尋ねました。「天国には、ローマ・カトリックの信者はいますか。」「いいえ、いません。」「長老派・改革派の信者はいますか」「いいえ、ひとりもいません」ウェスレーは驚いてしまいました。カトリックの人達や長老派の人達はそんなに沢山いるとは思っていませんでしたが、それでもいくらかはいるだろうと思っていたのです。「それなら、監督派の人達はいますか」「一人もいません」ウェスレーは真っ青になってしまいました。彼はつづけて質問する勇気がほとんど無くなってしまいました。 それでも勇気を取り戻して、ウェスレーが創設したメソジストについて尋ねました。「それでは、メソジスト派の信者はどれくらいいますか。」「一人もいません」ウェスレーの心は、真っ暗になってしまいました。今まで、自分が命がけで伝道してきたことはいったいなんだったんだろうと思ったのです。すると、天使はそれに対して説明を始めました。「わたしはここにいる者が、地上にいた時どの教派に属していたのか全く知らないのです。天国では教派など問題ではありません。」「それなら、ここにいる人達は、どんな人達なのでしょうか。」すると、天使は、平安に満ちた顔で「主を愛している人々の群です。」
この地上では、人間は、いろいろ違いに目を留めます。国の違い、肌の色の違い、学歴の違い、男と女の違い・・・。 けれども、神の国はそうではありません。 私たちが復活の命をいただいてやがて行く天国は、この地上のものとは全く違います。
イエス・キリストの十字架と復活によって、心から神様を愛する者は、どんな人でも天国の門が開かれているのです。 貧しい人も富める人も、男も女も、大人も子供も、世界中どこの国の人も、もちろん、イエス・キリストを信じる教派であれば、どこの教派であっても一人として漏れることはありません。そのような豊かな恵みに、私たちは生かされているのです。
(3)生きているものの神
31~32節
「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
31節に 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
と言われているように、それぞれの時代の中で生きて働いておられるお方なのです。 そして、32節にあるように、神様は、「生きておられる者の神」です。生きている者を導き、死人をよみがえらせることのできる力を持った、いのちに溢れたお方なのです。
イエス様は、32節で、「神は死んだ者の神ではなく、」 とおっしゃっておられます。
日本の宗教は死者のためのものだということが言えるのではないでしょうか。 死んだ人が、極楽にたどりつくように、神棚を作って供養をします。そして、先祖を仏として拝むわけです。 あの盆踊りも同じです。一度死んだ霊を、この地上に連れ戻すために盆踊りが行われます。そのように、考えると、日本の宗教は、死者のための宗教です。 もちろん、私たちは、死者をないがしろにするわけではありません。それどころか、どの宗教よりも死者や先祖を大切にしています。それは、聖書を読むと良く解ります。モーセの十戒には「あなたの父と母を敬え」と書かれていますし、アダムから始まって、一人一人の先祖の系図が、大切に書かれています。
けれども、もっと大切なのは、今生きている私たちではないでしょうか。
聖書の神は、「死んだ者の神ではなく、生きた者の神」です。 神様は、今も生きておられます。そして、生きた者への愛を、あなたへの愛を示しておられるのです。 そして、32節にあるように、神様は、「生きておられる者の神」です。生きている者を導き、死人をよみがえらせることのできる力を持った、いのちに溢れたお方なのです。 ワーズワースという人が書いた詩に「私等は七人 (We are
seven)」という詩があります。
これは「我らは七人」というワーズワースが、1798年に作った詩です。 田舎の娘に、「あなたの兄弟はいく人ですか」と聞きました。すると、その娘は「7人です。二人はほかの町におり、二人は船乗りで、二人は墓の下にいます。」と答えました。 「でも、二人死なれたのなら、あとは五人ではありませんか。」と言うと、「いいえ、二人は墓に行っているのですから、やはり七人です。」と言い張ったことを歌っている、とてもかわいい、そして、私たちに天国への希望を与えてくれる歌で、210年経った今でも、多くの人に愛されて読まれています。
30節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かってくださいました。そればかりか三日の後に復活されて今も生きておられるのです。 そればかりか、イエス・キリストの十字架と復活を信じる、私たちにも、永遠の命が約束されているのです。そして、やがて時が来て、私たちが天の御国に行った時、愛する人たちと再会することが出来るのです。何と素晴らしいことでしょうか。 この豊かな恵みの中を歩ませていただきましょう。
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