主日礼拝 4/15

みなさんは、どんな動物を飼ったことがありますか? わたしは、兄弟が多かったこともあって、いろいろな動物を飼いました。わたしが小学生の頃です。お祭りで、小さなひよこを買ってきました。部屋の中で飼って、練り餌をやったりして、家族のようにかわいがりました。だんだん大きくなって若鶏になった時です。一匹の猫がやってきて、あっという間に加えて持って行ってしまったのです。必死になって探しましたが、若鶏はもう死んでいました。それを見た時、兄弟で大泣きをしました。その後、この猫がどのような目に遭ったかは、みなさんのご想像にお任せします。 今日の説教題は、「めん鳥が雛を集めるように」です。

今日の中心の御言葉は37節です

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
  この今日の御言葉は、神様に背く、律法学者やファリサイ派の人々に対して、愛の訴えをしてこられたイエス様が最後に語られた言葉です。 「エルサレム、エルサレム」という言葉は、イエス様の愛と悲しみが入り交じった言葉です。 イエス様の、エルサレムに対する愛してやまない心は、最後まで変わることはありませんでした。イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々に対して、心からの愛を込めて、愛の訴えをしてきました。ところが、その訴えに対してさえ、彼らは少しも心を動かそうとはしなかったのです。 それどころか、神様の御心に逆らって、偽善を行い、自らを誇り人々を裁いていたのです。そして、やがて彼らの上に裁きの時がやってくることを思って、耐えがたい悲しみを持って「エルサレム、エルサレム」と叫ばれたのです。新改訳聖書では「ああ、エルサレム、エルサレム」と訳されています。このイエス様の言葉は、そのようなイエス様の愛と悲しみの叫びです。  この御言葉を中心に3つのことを学びたいと思います。


(1)使命を忘れたイスラエルの民

 神様が造られたものには、それぞれ使命があります。 人はカナリヤを、何のために飼うのでしょうか。それは、きれいな鳴き声をきくためです。しかし、そのカナリヤが鳴くことを忘れてしまったら、どうでしょうか。その役割を果たすことができません。 また、番犬は何のために飼うのでしょうか。それは、家の番をするためです。ところが、その番犬が鳴かなくなってしまったらどうでしょう。ペットとしてはかわいいですが、番犬としては役に立たなくなってしまいます。 そのように、神の民には、大切な使命が与えられています。その使命が、信仰の父アブラハムに語られた、神様の言葉にはっきりと表されていますので、そこを読んでみましょう。

創世記12:1~2「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」

  神様は、神様を離れ、神様に背いているイスラエルの民のために、一つの民を「祝福の源」として選ばれたのです。 イスラエルの民が、律法を守り、神様に従って祝福され、その祝福が全世界に広がって、神の御国がこの地上に建てあげられることが主の御心でした。 しかし、この律法学者やファリサイ派の人々が、自分たちに与えられた使命を忘れていました。 彼らが、自分の使命を忘れて、神様をはなれ、そのあかししなかったらどうでしょうか。歌を忘れたカナリヤや番をしなくなった番犬が捨てられてしまうように、神様からの使命を忘れたイスラエルの民も、捨てられてしまわなければなりません。
 それは、私たちにも同じことが言えます。私たちは何のために救われたのでしょうか。私たちは、イエス・キリストを信じて、全ての罪が許され、神の子とされ、永遠の命が与えられました。それは本当に素晴らしいことですが、それだけで良いのでしょうか。 私たちクリスチャンの使命は何でしょうか。それは、私たちが「祝福の源」となることです。

 イエス様はマルコ16:15で、弟子たちにこう命じられました。「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

   これは、よみがえりのイエス様が、天に帰られる前に最後におっしゃった言葉です。「全世界に行って」とありますが、山形も全世界の一部です。みなさんが遣わされていく場所が、全世界の一部なのです。そこで、「福音を宣べ伝えなさい。」それが、私たちクリスチャンに与えられた使命です。 鳴くことを忘れたカナリヤや番犬のように、私たちは大切な使命を忘れて、口を閉ざしてはいないでしょうか。
 今日、教会総会が行われます。その中でも、お話をしたいと思っていますが、山形南部教会では、3年間受洗者が与えられていません。そのことに気がついた時、私は今まで何をしてきたんだろうと悔い改めさせられました。新会堂建設も、ボランティアも大切な働きですが、一番大切な働きは、一人の人が救われることです。もし、救われる魂が起こされなかったら、神様がどんなに悲しまれるだろうと思わされたのです。
「エルサレム、エルサレム」と愛と悲しみを込めて叫ばれたイエス様の言葉は、まさに今、私に、私たちの教会に対して叫ばれているように感じます。 もう一度、クリスチャンとしての使命を、はっきりとして、家族や友人知人に福音を宣べ伝える者とさせていただきましょう。


(2)それでも変わらない主イエスの愛

1節をもう一度ご覧下さい。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
 「エルサレム、エルサレム」  イエス様は、このエルサレムで礼拝をささげるイスラエルの民を手塩にかけて育ててきたのです。そんなイスラエルの民をそんなに簡単に見捨てることはできません。旧約聖書には、イスラエルの民を救い出すために、モーセやヨシュアのような指導者を遣わして、彼らをエジプトの地から救い出しました。 そして、エリヤをはじめ多くの預言者を遣わして、神様の元へ立ち返るように、イスラエルの民に伝えました。ところが、彼らは神様の元に立ち返ろうとはしませんでした。それどころか、神様が遣わした預言者を殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺してしまったのです。それどころか、今、神様に遣わされた独り子であるイエス・キリストを十字架につけようとしていたのです。 何という恐ろしいことでしょう。もはや、イスラエルの民は、自分で自分の運命を決定的な者にしてしまったのです。
 彼らが、自分で自分の運命を選んだのですから、仕方がありません。しかし、それにもかかわらず、イエス様は、イエス様は、彼らをお見捨てにならず、愛し抜かれてこう叫ばれたのです。1節の前半「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」  イエス様は、そんな神様を忘れ、神様を離れてしまったイスラエルの民でさえ、決して見捨てられませんでした。 私たちが人を愛する時、その愛に答えてくれたり、感謝をしてくれると、愛し続けることができるでしょう。そして、たとえ裏切られたとしても、何度も裏切られると、もう堪忍袋の緒が切れたと言って、放り出してしまうのではないでしょうか。 しかし、イエス様は、決して彼らを見捨てられず、最後まで愛し抜かれたのです。 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、」とあります。
 昔、野原を歩いていた時に、めん鳥がヘビに向かって攻撃したのを見たことがあります。そこには、生まれたばかりの雛がいて、命がけで、めん鳥はへびに向かっていったのです。さすがのヘビも、驚いたのか、その場所から逃げていって、その雛は守られたのです。
 めん鳥が、命がけで、雛を守るために敵に攻撃するように、また自分の羽の下に雛を隠して守るように、イエス様は、イスラエルの民を守られたのです。めん鳥が、雛を命がけで守るように、襲いかかる危険から神の民を守るために、命を捨てて守ってさったのです。
 先日、テレビを見ていましたら、アメリカで火災が起こり、最上階に取り残された一人の女性を助けようとする場面が写っていました。何とが、無事に助け出そうと、下には、救助用のマットが置かれていました。火が燃え上がり、もうすぐ彼女の部屋にも燃え移ろうとしていました。その時です。彼女は、足から飛び降りると、危険は少ないのですが、頭から真っ逆さまに、お腹を抱えるようにして飛び降りたのです。それは、普通には考えられない危険なことでした。 なぜ、そんなことをしたのでしょう。それは、彼女のお腹の中に赤ちゃんがいたからです。妊娠していた彼女は、自分はどうなってもいいから、お腹の中の赤ちゃんの命だけは守りたいと思って、あえて危険を犯して頭から飛び降りたのです。幸い、母子共に守られて、事なきを得たのですが、それを見て、本当に母の愛は素晴らしいと思いました。
 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」  まさに、イエス様は、私たちを愛して下さり、捨て身で私たちを救って下さったのです。それが、イエス・キリストの十字架に表されています。イエス様は、十字架で命を捨てて下さるほどに、私たちのことを愛して下さっているのです。
(3)救われない理由

 イエス様は、最初から最後まで、愛をもってイスラエルの民に接してこられました。律法学者やファリサイ派の人々に対しても、愛をもって訴え続けました。それなのに、イスラエルの民がそれに応えなかったのは、どうしてでしょうかイエス様の愛に何か欠けたことがあったのでしょうか。 そうではありません。神様の愛は完全で、神様の愛が届かない所はないのです。イザヤ59:1~2をご覧ください。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」 

1節に「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。」  と書かれています。 神様の御手が届かない場所はありません。また、神様にとって、私たちの声の聞こえない場所はありません。神様はいつも完全なのです。 その最も良い表れが、イエス・キリストの十字架です。神様は、私たちを愛して下さり、私たちの救いのために独子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さいました。しかも、私たちの罪の贖いのために、十字架という一番低い場所にまで、降りて下さったのです。神の御手は、十字架の死によって、陰府にまで伸ばされているのです。
 しかし、神様の忍耐には、時があれます。

38節に 「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」とあります。時が来ると、神様は立ち上がって即座に裁きを行われます。「お前たちの家」というのは「神の家」のことで、エルサレム神殿のことです。イスラエルの民は、神様が選ばれた時から、そのしるしとして宮を設けて「神の家」と呼んできました。ですから、「神の家」こそが、神が住んでおられるという証拠です。その神の家が見捨てられて荒れ果てるということは、イスラエル民族を見離されるということと同じことを意味するのです。 そして、それは、目に見えるエルサレム神殿だけを言っているのではありません。
 新約時代の「神の宮」というのは、手で作られた宮ではありません。イエス・キリストを信じる信仰によって作られる霊的な宮です。教会は「キリストの体」と呼ばれていますが、イエス・キリストを信じる私たちの群れこそが、神の宮なのです。

 そして、私たち一人一人が、聖霊の住まわれる神の宮なのです。Ⅰコリント3:16は、去年の御言葉でしたが、覚えておられますか?「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」 神様の救いの御手は、すべての人に伸ばされています。そして、イエス・キリストは、よみがえられて、私たちの教会に、また私たちの心に住んで下さるお方なのです。
 それにもかかわらず、律法学者やファリサイ派の人々のように、その神様を受け入れす。私たちの心の中にお迎えしようとしないなら、やがて、見捨てられ荒れ果てる時がやってくるのです。
 そして、39節をご覧下さい。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」  『主の名によって来られる方』というのは、再臨の主を表しています。私たちの罪のために十字架に架かられ、三日の後によみがえられ天に帰られた主は、時が来ると、再びこの地上に来られるのです。
 エルサレム神殿は、イスラエルが救い主を受け入れなかったため、紀元70年にローマ軍の進入によって、エルサレムが滅ぼされた時、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。
 そのエルサレム神殿のように、再臨の主が来られる時、私たちも再臨の主によって、滅びか宣告されるようなことはないでしょうか。 このイエス様がいつ来られても良いように準備ができているでしょうか。
 あるクリスチャンの新入生の話です。大学に入り、アパート生活が始まりました。受験勉強からも親からも教会からも解放されて、誰からも束縛されない自由な生活が始まりました。やがて、彼の部屋には、いかがわしいポスターが貼られ、酒とたばこに溺れていきました。 そんな時です。クリスチャンのお母さんが、彼の所に突然やってきたのです。片付ける間もなく、お母さんを迎え入れることになってしまいました。 お母さんは、しばらく、息子の部屋を見回していましたが、しばらく息子と話をして、何も言わずに、その部屋に、イエス様の聖画を張って貼って出て行ったのです。彼の荒れはてた部屋に、一枚のイエス様の絵が貼られたのです。 彼はその絵を見ながら、汚れに満ちた自分の心の中に、イエス様が来られたように感じました。そして、心から悔い改めて、新しい生活が始まったのです。 しばらくして、彼のお母さんが、彼のアパートを再び訪ねました。すると、前にあったポスターはなくなり、彼の心と生活が全く変わっていたのです。 彼は、お母さんにこう言ったそうです。「イエス様が、ボクの心の中に来られた時、ボクの姿を見て、嘆いておられたのがわかったんだ。そこで、悔い改めて、イエス様を心の真ん中にお迎えした時、ボクの心と生活が変えられたんだよ。」
最後に1節をお読みしたいと思います。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
  私たちは、このイエス様ののエルサレムに対する叫びを、他人事として聞き過ごしても良いのでしょうか。「エルサレム、エルサレム、」  という愛の叫びは、今日私たちに対する愛の叫びでもあるのではないでしょうか。この叫びを聞いた私たちは、この学生のように、罪を悔い改めて、イエス様を心の王座にお迎えして、神様に喜ばれる心と生活をさせていただきましょう。

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日   8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日 10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日 16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日 11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日   8:45〜

                       9:35〜

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase