5/20 主日礼拝

「目をさましていなさい」マタイ:24:29~51

先日、福澤満雄先生が、特別伝道礼拝の御用をしてくださいましたが、昔、テープで先生が大江町キリスト教会で伝道をしておられた時のことを聞いたことがあります。 先生が大江町に遣わされて間もない頃、一軒一軒訪問をして、伝道されたことがあったそうです。あるところでは、うちは耶蘇などいらねぇと言われて断られた所もあったそうですが、山の上にある一軒家を訪ねた時のことです。その家は古い家で今にも壊れそうな家でしたが、そこのおばさんが、「良くこんな所まできてくれた。あがってけらっしゃい。」と言って、家の中にあげてくださり、お茶や漬け物を出して、大歓迎をしてくれたそうです。あまりにも、ニコニコして嬉しそうなので、「何か良いことがありましたか。」と聞くと、「どうぞ、裏を見てけらっしゃい。」と言って裏に通してくれました。すると、そこには建築中の立派な家があったのです。 今は、古い小さな家に住んでいますが、もうすぐ、あの新築した家に引っ越すので、嬉しくてたまらなかったのです。 それは、私たちクリスチャンの生き方でもあります。今のこの地上での住まいは仮の住まいです。けれども、再臨の主が来られる時、私たちは神の国に招かれて、天国に澄むことが出来るのです。 その日を待ち望みながら、喜びと希望をもってこの地上の生活をさせていただきたいと思います。

今日の中心の御言葉は、25節です。 「あなたがたには前もって言っておく。」 ここで、イエス様は、弟子たちに「前もって言っておく」と言われています。聖書には終わりの日がやってくることがはっきりと書かれています。その終わりの日が来る前に「前もって言っておく」とイエス様が語られたのです。その大切な御言葉に耳を傾けたいと思います。  今日読んでいただいた聖書の箇所で、イエス様は、終末の日には、特に3つのものに注意するように語られています。


(1)憎むべき破壊者の出現15~16節

  「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ― そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」 

「憎むべき破壊者」というのは、ダニエル書に用いられれている言葉です。 ダニエル書9章27節 11章31節 12章11節などにこの言葉が用いられています。11章31節を開いてみましょう。「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」 このダニエル書10章から11章には、ダニエルに示された終末の幻が記されていますが、ここにも、憎むべき荒廃をもたらす者があらわれることが預言されています。 これは、聖なる神殿を冒涜する異邦の権力者のことをあらわしていますが、この御言葉通りのことが、過去の歴史で現実に起きています。
 一つは、紀元前167年のことです。シリア、セレウコス朝のアンティオコス・エピィファネスは、エルサレムを攻撃し、律法によって不浄の動物とされていた豚の肉を祭壇に供え、聖域に神殿娼婦を置いて、徹底的に神殿を汚しました。この出来事は、ユダヤ民族にとって忘れることの出来ない屈辱で、神様に対する恐ろしい冒涜でした。しかし、それと同じようなことが再び起こり、神殿はさらに徹底して汚されるというのです。
  そして、そのイエス様の預言通りのことが、イエス様が十字架にかけられてから40年位たって現実になりました。紀元70年に、エルサレム神殿は皇帝ティトゥスの軍隊によって徹底的に汚され、破壊し尽くされ、多くの民衆が虐待されました。   ある文献によると、この時ローマ兵によってエルサレムが包囲された時、市民は飢えのために街頭のちりを食べるほどになってしまい、親子や夫婦が、一切れの肉を食べるために争い、中には幼い子供を殺して、その肉を煮て食べたという記録も残っています。捕虜とされた者は、9万7千人、死者は110万を数え、葬る者がいない死骸が道に横たわって、いたるところに悪臭がただよっていたというのです。まさに、生き地獄です。
 そして、私たちに語られていることは、さらに、終末の時にそのような「憎むべき破壊者」が現れて、徹底的に破壊される時がやっていくるということです。  イタリア・ルネサンスの代表的な芸術家ミケランジェロ(1475~1564)は、ローマのバチカン宮殿内の礼拝堂に壁画を描いていました。4年かかって「天地創造」の9場面を書き上げ、22年後には正面祭壇に「最後の審判」を7年もかけて描き上げていました。 裸体群像でうずまってしまった礼拝堂を見た、その当時式部長官をしていたビアジオは、その有様を見て「この絵は、礼拝堂ではなく、浴場か、酒場にふさわしい絵だ。」と批判しました。 それを聞いて起こったミケランジェロは、地獄に落ちた王の悲惨な顔をビアジオの顔にしてしまったのです。 びっくりした、ビアジオは、パウロ三世に「何とかしてください」と泣きつきました。 すると法王は、気の毒な顔をしてこう言ったそうです。「私は、この世にいる者なら救えるが、地獄に落ちてしまった者は、この私でさえも救えないのだ。」
 私たちは、どうでしょうか。終末の日が来ることが聖書には預言されています。そして、イエス・キリストを信じる者だけが、神の国にはいることが出来るのです。Ⅱコリント6:2「なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」  ここに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」とあります。「今」です。私たちは、今日の次に明日があると信じて生きています。けれども、そうではありません。その経験を、震災で多くの人たちが経験しました。また、私たちも、今日礼拝をささげて元気に会堂を出て行っても、何が起こるのかは誰も解りません。ですから、今です。イエス・キリストを信じて、終わりの日の備えをさせていただきましょう。


(2)大きな苦難が来る 

 まず、15~21節をご覧ください。 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。」 

  ここで、イエス様が語られていることは、非常に具体的なものです。 15節以下に書かれているのは当時の戦争の様子で、大変リアルに表現されています。 戦争が起きると、人々はすべてを捨てて山に逃げ、町に帰ることは出来ませんでした。もし、そんなところに帰ったら、戦争に巻き込まれて、殺されてしまうからです。 また、身重の女性が逃げるのは大変困難なことでした。そして、エルサレムの冬は寒さが大変厳しいので、イエス様がこれらのことが冬に起こらないように祈りなさい。と言われていることも納得できます。 震災で、良く聞くことは、あの日、まっすぐに山の方に逃げた人は助かったけれども、あの日、1度逃げても、家族のことや大切な物のことが気にかかって引き返して命を失った人が多かったということです。 ロトの妻が、滅び行くソドムとゴモラの町を、振り向いた時、塩の柱になってしまいました。そのように、私たちは、イエス・キリストによって救われていますが、この世の物に捕らわれて、後ろを向いてしまうなら、永遠の滅びが待っているのです。ワーシップソングに「もうふりむかない。もう振り向けない。」とありますが、救われる前の過去を振り向かないで、天国への道をまっすぐに歩んでいきましょう。
  その終末の苦しみは大変な苦しみです。けれども、そのような試練の中でも神様は、私たちのことを覚えてくださり、その苦しみに耐えられるように、その期間を縮めてくださるのです。そのことが22節に記されています。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」
  終末の苦しみを短くされなかったら、誰一人救われる人はいないでしょう。しかし、感謝すべきことには、イエス様は、このような終末の時にも、私たちを愛して下さり救いの道を備えて下さっているのです。20節の後半にこうあります。「しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」  ここに「神は選ばれた人たちのために」とありますが、これは、直接には弟子たちのことですが、一般的にはクリスチャン全体のことです。その神に選ばれた者のために、神様は、苦しみの日を短くして、その苦しみから救いだして下さるのです。 このようにして、私たちは終わりの日にやってくる苦しみを耐え忍んで、最後の勝利を得ることが出来るのです。
 今日は母の日ですが、先週の水曜日に、岩沼市仮設住宅集会所で、三浦綾子読書会で、小林多喜二の「母」のひとり芝居が行われました。仮設住宅から50名、私たちを含めると75名の方々が集われました。 この三浦綾子の「母」という作品は、小林多喜二が、共産党員として特高警察に捕らえられ拷問の末、死亡した母親小林セキの一生が描かれた作品です。この母は、長男と次男の二人を失ってしまうのですが、その時に自分も死のうと思ったそうです。しかし、自分はまだ生きている子どもたちの母でもあることを思い起こし、思いとどまったのです。しかし、その二人の息子を失った苦しみは、癒やされることがありませんでした。 そんなある日、小樽シオン教会に行きました。そこで、出会った牧師に今までのことを全部話しました。「息子が、弱い人のために小説を書いたのに、どうして殺されなければならなかったのか」といった時、牧師は、あなたの息子さんは、「イエス様に似ていますね。」と言ったそうです。と祈ったのですよ。そして、聖書の中には「最も小さな者にしたのは、わたしにしたのである。」と書かれています。息子さんは、天国にに行かれたのです。」と言いました。 その牧師の言葉によって、小林多喜二の母の心は癒やされたのです。そして、そのイエス・キリストを救い「イエス様は、何も悪いことをしなかったのに、私たちの罪のために十字架にかかり「父よ。彼らを許してください。彼らは何をしているのかわからないのです。」主と信じて洗礼を受けて、88歳で召天されていきました。 最後に、「わたしのような者でも88歳まで生かされてきたのです。どうか、仲良くして長生きしてくださいね。」と言った時、多くの方々が涙ぐんでおられました。

 そこに、集まられた仮設住宅の方々は、大切な家を失った方々です。また、中には愛する家族や親戚を失ってしまった方もおられたと思います。そのような方々にとって、この小林多喜二の母の生き様がとんなに大きな慰めになったことでしょう。また、何よりも、イエス・キリストの元にこそ、本当の逃れ場があることを伝えてくださって本当に感謝でした。
Ⅰコリント10章13節(P312)にはこう書かれています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
 神様は、私たちが耐えられない試練に合わせるようなお方ではありません。そればかりか、逃れる道をも備えてくださっているのです。  そして、何よりも素晴らしいのは、私たちには、イエス・キリストの十字架によって永遠の命が約束されているということです。この地上の苦しみがどんなに大きくても、やがて私たちは、天の御国に行くことが出来るのです。その希望をもって、今与えられている試練を最後まで耐え忍ばせていただきましょう。


(3)偽メシアや偽預言者の出現23~24節

 』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思 「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」  ここでも、偽キリストの出現に注意するように語られています。 そして、この警告通りに、すでに弟子たちの時代に、このような偽キリスト、偽預言者が現れています。

Ⅱヨハネ7~8(448)「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」
 終わりの日には、さらに多くの偽キリスト、偽預言者があらわれて、クリスチャン達を惑わすようになります。 現在も、偽キリストや、間違った宗教がこの世に氾濫しています。 彼らは、多くの奇跡や不思議な働きを行い、そのしるしによって何とかして必死になって人を惑わそうとしています。 多くの人々が、その奇跡やしるしを見て、惑わされてしまいますが、私たちを神様から引き離そうとするサタンにとって、奇跡を行うことぐらい簡単なことなのです。そのようなサタンの罠に気をつけましょう。
偽物に惑わされないために、何が必要でしょうか。 それは、いつも本物に触れていることです。 今、偽札がたくさん出回っていて、偽札に対抗してより精密なお札が発行されています。そして、さらに精密な偽札が出来、いたちごっこのようなことをしていると聞きましたが、両替機など機会はごまかすことができても、ベテランの銀行員は、偽札が混ざっているとそれを触っただけでわかるそうです。なぜなら、いつも本物を触っているからだそうです。 信仰の世界も同じことが言えるのではないでしょうか。 今、偽預言者があらわれ、偽キリストが現れて、私たちクリスチャンを惑わします。何とかして、神様から、私たちを引き離そうと必死に襲いかかってきます。そのような時代だからこそ、私たちが本物の信仰にたたなければならないのです。
  それでは、私たちクリスチャンが信じている本物の信仰とは何でしょうか。初代教会の信仰告白が、Ⅰコリント15章3~6節(P320)にあります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。」  ここには、イエス・キリストの十字架と復活の信仰が告白されています。しかも、イエス・キリストが復活された証人が、500人以上いて、その大部分が今も生きているとパウロが言っているのです。「イエス・キリストが十字架にかかられて、三日の後によみがえられました。そのよみがえりのイエス様にわたしは出会ったのです。」という証人が、500人もいたのです。 確かに、十字架にかかられた主は、罪と死に打ち勝ってよみがえられたのです。  ところが、これを書いたパウロは、ここに書かれている他の弟子たちは、肉体をもったイエス様に出会ったのですが、パウロは肉体をもったよみがえりのイエス様に出会ったのではありませんでした。しかし、パウロは、あのクリスチャンを迫害しようと息をはずませて行ったダマスコ途上で、目には見えませんでしたが、確かによみがえられた聖霊となられたイエス様に出会ったのです。その恵みによってパウロの人生が180度変えられたのです。 パウロは、そのような自分のことを続いて7~10節でこう言っています。「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」
 ここに「わたしと共にある神の恵みです。」とあります。それは、すべてのクリスチャンが経験したことです。私たちは、肉体をもったイエス・キリストに出会っていません。けれども、イエス・キリストを信じる信仰によって、確かにイエス様は、よみがえられて今も生きておられるということを信じているのです。それは神様から与えられた一方的な恵みです。私たちは、ただイエス様を救い主と信じるだけで救われるのです。その信仰こそが、終わりの日の備えです。 そして、イエス・キリストを信じる私たちにとって、終わりの日は、私たちの救いが完成し、すべての苦しみから解放され、イエス・キリストにお会いできる喜びの日であります。私たちはこの信仰にとどまって、再臨の主にお会いする準備をさせていただきましょう。

 


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase