これは何でしょう。ろうそくです。 暗いところにあるろうそくは、火をつけるまでは、何に役にも立たないただのかたのりです。でも、これに火をつけると、暗闇の中を輝かせます。 それと同じように、クリスチャンも聖霊の火をいただかなければ、十分に主のお役に立つことは出来ません。しかし、聖霊の火をいただくならば、暗いこの世を輝かす、世の光として用いられるのです。
イエス様が、天に帰られて10日が経ちました。 この日は、五旬節と言って、ユダヤ人たちが小麦の初穂を神様にささげるために、世界各地からエルサレムに集まってくる日でした。
①
弟子たちも、イエス様の命令に従って、エルサレムにとどまっていました。 弟子たちは、二回座敷で、心を合わせて熱心にお祈りをして、聖書の御言葉を読みながら、心からイエス様が約束して下さった聖霊を待ち望んでいたのです。
その約束を読んでみましょう。使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
②
すると突然、天から激しい嵐が吹いてくるような音がしたのです。そして、炎のような舌が、弟子たちの上にとどまりました。
③
すると、弟子たちは聖霊に満たされて、不思議なことに、自分たちの知らない他の国の言葉で話し始めたのです。 これを聞いてびっくりしたのは、世界中からお祭りのためにエルサレムに来ていた人たちです。自分たちが住んでいる国の言葉で、イエス様の十字架と復活の福音が話されたので、いったいどうなっているのか分からなくて、大騒ぎになってしまいました。 その中には、「どうせ、この人たちはお酒でも飲んで酔っ払っているんだよ。」と弟子たちを馬鹿にする人たちもいました。
④
すると、その時です。ペトロが立ち上がってこう言いました。「みなさん、聞いてください。私たちは酔っ払っているのではありません。今は、まだ朝の9時です。私たちがお祈りをしていると、聖書に書かれているとおりに、神様が聖霊を送って下さったのです。これは、イエス様が救い主であることのしるしです。イエス様は、十字架にかけられて死んでしまいましたが、よみがえられました。イエス様は今も生きておられます。」 ペトロは、力強く、イエス様の十字架と復活の福音を伝えたのです。 ペトロの話を聞いた人々は、イエス様を十字架につけてしまったことが、どんなに大変なことだったかに気がついて、顔が真っ青になってしまいました。 そして、ペテロに「私たちはどうしたら良いのでしょう」と尋ねたのです。ペトロは答えました。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」 すると、次々に大勢の人々が罪を悔い改めて、その日に洗礼を受けた人が、なんと3000人も与えられたのです。 ペトロや弟子たちは、聖霊の力をいただいて、イエス様のことを、ますます多くの人たちに伝えました。
今日は、聖霊をいただいたペトロの姿についてお話をしたいと思います。
(1)聖霊を受ける前のペトロ
ペトロは、ガリラヤ湖の漁師でした。ある日、いつものように、漁をしている時に、イエス様が現れました。その日は、夜通し漁をしていましたが、一匹も魚が捕れなかったのです。朝になって、もう帰ろうと思っていたその時です。イエス様が、網を降ろしてみなさいとおっしゃったのです。 ペトロは、昔からガリラヤ湖で漁をしてきた漁のプロです。漁のことは誰よりも知っていました。そのペトロにイエス様は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
とおっしゃったのです。 ペトロは、どうしたでしょうか。①いやだよと言った②そんなの無理ですと言った。③お言葉ですから、網を降ろしてみましょうと言った。
答えは3番です。ルカ5:5「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」 すると、魚がいっぱい捕れて、一艘の船では沈みそうになって、もう一艘の船を呼ぶとその舟もいっぱいになってしまいました。 その後で、ペトロが罪を悔い改めて、イエス様を信じるとイエス様はペトロにこう言われました。ルカ5:10「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」ペトロは、このようにして12弟子のひとりに選ばれました。
ところが、ペトロは、自分の力でイエス様に従う弟子でした。
イエス様が十字架にかかられる前に、イエス様は弟子たちを集めて、こう言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」 (マタイ26:31)すると、ペトロは、33節で「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いました。ペトロは、自分の力で、イエス様に従っていこうと思ったのです。するとイエス様に、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(34節)と言われてしまいました。ペトロは慌てて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(35節)と言いました。 ところが、その後とんでもないことが起こったのです。 イエス様が、兵隊に捕らえられて、十字架につけられることになってしまいました。 ペトロは、そっと、その後を着いていき、大祭司の庭に行きますが、「あなたは、イエスの弟子です。」と言われると、「わたしは、その人を知らない」「知らない」「神様に誓ってもその人をしらない。」と三度もイエス様を裏切ってしまったのです。
その後、鶏が「コケコッコー」と鳴きました。そして、イエス様がペトロを見られると、イエス様が「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、激しく鳴して、自分の犯した罪を悔い改めたのです。
私たちは、自分の力では、神様に従うことは出来ません。それは、ちょうど、自分の力で車を動かすのと同じです。どんなに素晴らしい最新式の車でも、自分の力ではその車を動かすことは不可能です。仮に、少し動いたとしても、必ず疲れ果ててしまいます。 バスを動かすためには、ガソリンが必要なように、私たちも聖霊の力が必要なのです。
(2)聖霊を受けたペトロ
あの臆病で、三度もイエス様のことを知らないと言ったペトロが、どうして、あのペンテコステの日に、あんなに大胆に、大勢の人の前で、イエス様のことを伝えることができのでしょうか。 その秘密が、4節にあります「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 ここに一同は「聖霊に満たされ」とあります。聖霊とはイエス様のことです。イエス様が、ペトロの心の中に満たされたのです。だから、もう恐いものはありません。誰も恐れずに、福音を伝えることが出来たのです。 ペトロは、この時から別人のように作りかえられました。それまでの、ペトロは、自己中心で、臆病なペトロでしたが、聖霊に満たされ、イエス様を心にお迎えした時、何をも恐れずに福音を伝える証し人に作りかえられたのです。 ペトロは、福音を伝えたために、数多くの迫害を受けましたが、それでも、大胆に福音を伝えました。
シェンキヴィッチが書いた「クオヴァディス」という本があります。その本によると、ペトロは、あまりのひどいローマ帝国の迫害に耐えられずに、ペテロがローマから逃げ出して、故郷のガリラヤに帰ろうとした時、その道途中で、イエスに出会いました、ペトロがイエス様に、「クオ ヴァディス ドミネ」(主よ、どこへ行かれるのですか)と尋ねると「あなたが、見捨てたキリスト者のために、わたしが再び十字架にかかるために行くのだ」と言われたのです。それを聞いたペトロは、非常に心を撃たれ悔い改めて、もう一度迫害の待つローマ帝国へと向かいました。そして、そこで、殉教の死を遂げるのですが、十字架刑が命じられた時、イエス様と同じ姿では申し訳ない、逆さにして欲しいと願い出て、逆さ十字架につけられたというのです。 どうして、そこまで、人を恐れずに、キリストに従い、主の証し人として用いられたのでしょうか。
それは、ペテロに力があったからではありません。ペトロは、イエス様に救われた後も、自己中心で、臆病な弟子でした。けれども、自我が砕かれ、すべてを委ねて、聖霊に満たされた時、このような素晴らしい証し人に変えられたのです。
私たちも、ペトロのように自己中心なクリスチャンだと悩んでいるかも知れません。自分の力で変わろうとしても、どんなに努力をしたり、どんなにこれからがんばるぞと決心をしても、自分の力ではどうすることもできません。しかし、ペトロが、イエス様を3度も裏切ってしまった時、激しく鳴いて悔い改めたように、自分の罪深さや無力さを認めて、心から悔い改めて、イエス様を心の中にお迎えする時、聖霊御自身が、私たちに聖霊の豊かな実を結ばせて下さるのです。
ガラテヤ5:23~24「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」 聖霊に満たしていただいて、ここにあるような聖霊の実を豊かに結ばせていただきましょう。
また、私たちも、イエス様ののことを伝えたいのに、勇気がないと思っているかも知れません。私たちは自分の力や意思では、イエス様を伝えることが出来ません。 ですから、神様に「わたしを聖霊に満たしてください。」と祈って、聖霊に満たしていただきましょう。そして、ペトロが聖霊に満たされて、大胆に福音を宣べ伝えたように、私たちも何をも恐れずに、「世の光、地の塩」として輝かせていただきましょう。
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