みなさんの家にペットがいますか。日本では犬や猫が多いと思います。先生の家には、亀を飼って15年になります。最初はこんなに小さなかわいい亀でしたが、今では、こんなに大きくなりました。そして、飼っているうちに愛情が大きくなって、家族の一員のようになりますね。先生の家のには、元気と静という2匹がいましたが、今年一匹が死んでしまいました。その時は、好美先生が涙を流してとても悲しくなりました。その時にあの亀も大切な家族だったんだなと思いました。
聖書の時代のイスラエルでも、ユダヤ人にとってなくてはならない動物がいました。それは、何でしょう。①パンダ ②ラクダ ③羊答えは羊です。ユダヤ人は、羊の毛を切って洋服にしたり、大きくなると殺して食べたりします。そして、最も大切な用途は、礼拝で神様にいけにえとしてささげるために飼っていたのです。 羊はおとなしい動物ですが、その反面、弱くて、迷いやすい動物なので、聖書の中では人間に譬えられています。
これは、羊飼いと羊です。 この羊の群れのお世話をするのが、羊飼いの役目です。 飼い主のいない、家畜やペットは大変です。今、福島では、放射能の問題で、人間が入ることができなくて、牛や犬や猫が放し飼いにされて、中には食べ物が無くて死んでしまう動物もいるそうです。 だから、家畜やペットにとって、飼い主はとても大切です。 そして、今日読んでいただいた、詩編23編では、羊飼いは神様、羊は人間に譬えられています。
1節を読みましょう。 【賛歌。ダビデの詩。】「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
この詩を書いたのは、イスラエルの王様のダビデです。ダビデは少年のころは羊飼いをしていました。ダビデは、羊が大好きで、羊に草や水のあるところに連れて行って、食べさせたり飲ませたりしてあげました。また、オオカミやライオンが襲ってくると、命がけで羊を守ったのです。そのダビデが「主は羊飼い」神様は羊飼いと言っているのです。それは、どういうことでしょうか。
(1)迷いやすい羊を守る羊飼い
2~3節 「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」
ダビデが住んでいたベツレヘムやエルサレムの周りは、雨が少なく、緑の草もあまり生えていませんでした。 そのような所で、羊飼いは、どこに行けば牧草があって、どこにいけば水かあるのかをよく知っていました。そして、羊がお腹がすくと青草の原へ、のどが渇くと、水のほとりに連れて行ってあげたのです。 羊飼いのおかげで、羊たちは、おいしい草をたっぷり食べたり、水を飲むことができのです。
神様は、この羊飼いのように、私たちの必要をご存じのお方です。そして、私たちの体に必要な、食べ物や飲み物を毎日与えて下さっています。そればかりではなく、私たちに必要な心にも、聖書の御言葉を通して、栄養を与えて下さいます。神様の御言葉によって私たちは力をいただき、正しい歩みをすることができるのです。
80才くらいの、貧しいおじいさんがいました。ある人がそのおじいさんに「とても、ご不自由でしょう。」と尋ねると、そのおじいさんが答えてこう言ったそうです。「いいえ。私の父が行き届いて世話をしてくれるので、ぜんぜん不自由なことはありません。」びっくりして、その人は「え~。あなたのお父さんはまだ生きておられるのですか。」と聞きました。すると「はい、私の父は、まだ生きているばかりか、彼は死にません。しかも、その父がわたしのなくてならない物を全部知っていて、それを備えてくださるので、わたしは幸福に暮らすことができます。」と答えたそうです。 勿論、その父というのは、神様のことですが、羊飼いが、羊を連れて、青草の原、水野ほとりに導くように、天の父であられる神様は、私たちに豊かな恵みを与えて下さるのです。
②
次に4節をご覧ください。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」
羊はおとなしくて弱い動物です。鋭い牙もありませんし、逃げ足も遅いので、すぐにつかまってしまいます。 ですから、深い谷に隠れている、オオカミなどの獣に襲われることが、よくありました。そんな時、羊飼いは、むちや杖で、獣を追い払いました。 ダビデも、石投げでライオンをやっつけたと言っています。
私たちはどうでしょうか。強そうに見えても、みんな羊のように弱いところを持っています。苦しいことや悲しいことがあると「もう駄目だ」と思ってしまいます。悩みや試練が襲ってくると、打ちのめされて立ち上がれなくなってしまいそうになります。 そんな時、羊飼いが羊を守るように、神様が私たちを守って下さるのです。苦しみや悲しみや悩みの中から、私たちを引き上げて、サタンを追い払って下さるのです。 たとえ、死の陰の谷を行く時も、神様が共にいて下さって、むちと杖で、私たちを守って下さいます。だから、災いを恐れないとダビデは言っているのです。
(2)イエス様こそが、私たちの良い羊飼いである
③
昔、イスラエルでは、罪を犯すと、傷のない小羊が殺されて、祭壇でいけにえとして献げられました。 けれども、イエス様は、私たちの罪のために、ご自分が、贖いの小羊となられて、十字架にかかってくださったのです。十字架で命を捨ててくださるほどに、私たち一人一人のことを愛してくださっておられるのです。。
神の子であるイエス様が御自分のことをこう言われました。ヨハネ福音書10章11節をお開き下さい。(P186)「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
当時のイスラエルの羊飼いは、実際に獣や強盗が襲ってきた時に、自分の羊のために本当に命を投げ出すということがあったそうです。羊飼いにとって一匹の羊の命は、自分の命と同じくらい大切なものだったのです。 イエス様は、良い羊飼いです。そして、私たちの救いのために十字架で命を捨てて下さったのです。
ダミアン神父のお話をします。ダミアン宣教師は、ベルギーに生まれましたが、23歳の時、イエス様のことを伝える宣教師としてハワイに行きました。 今は、ハワイは観光地として誰もが知っていますが、百以上前の今のように開けていませんでした。ダミアン宣教師は、自分で木を切り倒して教会堂を建てて、険しい山々を越えて、ハワイの人々にイエス様のことを伝えました。 ある時ダミアン宣教師は、重い皮膚病で苦しんで、誰も世話をする人のいない人たちがモロカイ島という島にいることを知りました。
この病気は、今では完全に治る病気です。しかし当時は、体の形が変わって、そのまま死んでいくしかない恐ろしい病気でした。その病気になった人は、ほかの人にうつらないように、家族からも離れた場所に生活しなければならなかったのです。 そのことを知ったダミアン宣教師は、33歳の時に、モロカイ島に行く決心をしました。ダミアン神父は、彼らと一緒に住み、600人の患者のために、包帯を巻き、家を造り、棺を造って、お葬式をしてあげました。 そして、46歳になった時のことです。宣教団の人たちが視察に来られるというので、お湯を沸かして待っていました。そして、お湯をお茶碗の中に入れようとした時に、手を滑らせて、足の上にひっくり返してしまいました。ところが、そのお湯が熱くなかったのです。この時にダミアン神父も重い皮膚病にかかって、熱さを感じなくなっていたのです。 その時にことを、ダミアン神父は、ベルギーのお兄さんにこう書いています。「私は、自分も同じ病気になることによって、この病気で苦しんでいる人たちと同じ立場で、イエス様のことを伝えることができるようになったことを感謝しています。」 ダミアン神父は、それから3年間重い皮膚病の人たちにイエス様のことを伝え、多くの人たちがイエス様を信じました。そして、49歳の時に天国に召されていったのです。
「わたしは、良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ダミアン神父は、愛する重い皮膚病の人たちのために命を捨てたのです。 そして、イエス様は、私たちの罪のために十字架で命を捨ててくださいました。それほどまでに、良い羊飼いであるイエス様は、私たちのことを愛してくださっているのです。このイエス様を信じて、イエス様の足跡に従っていきましょう。
(3)羊飼いに従うならば、恵みと慈しみが追ってくる
④
5~6節「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」
ダビデは王様になるまでも、また王様になってからも、たくさんの苦しい経験をしました。敵に追いかけられて、命がけで逃げるようなこともあったのです。でも、神様がいつも一緒にいて守って下さいました。そのことを振り返りながら、この詩を書きました。6節には 「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」
と書かれています。そして、最後に「主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」
と決心を書いているのです。 私たちも、神様の羊です。私たちを愛し、私たちを守って下さる、神様に命の限り従っていきましょう。 羊が羊飼いの後に従うように、私たちが神様の御足跡を従うならば、恵みと慈しみが追ってくるのです。そして、最後は、主の家に帰り、生涯、そこにとどまることができるのです。何という恵みでしょうか。
イギリスであるパーティが開かれました。そこに当時有名だった俳優が出席していました。すると、そこに集まっていた人たちが「私たちのために何か朗読して下さい。」とお願いしました。 その俳優は、それに答えて、詩編23編を朗々と朗読しました。パーティーに集っていた人たちは拍手喝采をしました。 ところが、その俳優は老牧師の所につかつかと歩いて行って、こう言いました。「先生、先生の詩編23編、長いことお聞きしていませんね。どうかお聞かせ下さい。」しわだらけの老牧師は、しわがれた細い声で暗唱し始めました。人々はだんだんシーンとしてきて、一人一人が心を強く撃たれたのです。「みなさん」その俳優が言いました。「私は、ただ上手に朗読しましたが、この先生は、ご自分の体験をご自分の歌として歌われたのです。」一同は心から、手をたたいたというのです。
1節「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
神様は、私たちの羊飼いです。そして、たとえ私たちが弱く足りない者であったとしても、羊飼いである神様についていけば大丈夫です。神様は、私たちの必要をご存じで、青草の原、水のほとりに導いてくださいます。たとえ死の陰の谷を歩くようなことがあっても、神様が共にいて下さるので恐れることはないのです。そして、神様に従っていくならば、恵みといつくしみがいつも追ってくるのです。
羊が、羊飼いの後に従っていくように、私たちも神様の御足跡に従って行きましょう。
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