7/22 主日礼拝

「ユダの裏切りと最後の晩餐」 マタイ26:14~29

今日、3年ぶりに、澤田直子姉と、澤田恵利花姉が来られています。澤田さんご一家は、山形南部教会の教会員ですが、今は御主人の転勤で、アメリカのニュージャージーにおられます。久しぶりにお会いできて感謝しています。この礼拝後、「ポットラックパーティーと澤田直子姉のミニコンサートが行われますので、みなさんお残りください。 このように、イエス・キリストを信じる信仰によって、場所が違い、時間が経っても、主にあって共に礼拝をし、共に交わることが出来ることは本当に感謝なことです。
 今日は、イエス・キリストと12弟子とが最後に食事の交わりをした「最後の晩餐」の聖書の箇所です。

この「最後の晩餐」は、いろいろ画家が絵にしています。特に、有名なのはデオナルド・ダ・ヴィンチの作品で、イタリアのミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の壁画として残されています。 ただ、ほとんどの絵が、テーブルにを囲んでいすに座っているいる構図で書かれていますが、ヨハネ13:13を新改訳聖書では、「イエスの御胸のそばて体を横にしていた」と書かれていますから、実際には、当時のユダヤの習慣では、各自が横に座って食事をしていたのではないかと言われています。
今日の中心の御言葉は、26~284節です。

「 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
 そして、この福音書を書いたマタイは、この出エジプトの出来事をあらわしている過越の食事と、イエス・キリストの最後の晩餐を、関係づけています。  この御言葉は、最後の晩餐の時に、イエス様が語られた言葉ですが。この最後の晩餐は、ユダヤ人の過越の食事のときに行われました。 過越の食事というのは、ユダヤ人の先祖が、昔、奴隷として捕らえられていたエジプトの国を脱出した夕方、小羊を屠って食事をしました。そのことを記念して、過越の祭りの時には、同じように小羊を屠って食事をしていたのです。  コリントの信徒への手紙一5章7節には、イエス様のことが「わたしたちの過越の小羊」と書かれています。初代教会の人達は、イエス様のことを「わたしたちの過ぎ越の小羊」と呼ぶことによって、神の子であるイエス・キリストこそが、わたしたちの罪のために小羊のように命を捨ててくださった、救い主であることをあらわしているのです。
  さて、この最後の晩餐の出来事を3つに分けてお話しをしたいと思います。

 

(1)過越の食事の準備 

 徐酵祭の最初の日、この日は、過ぎ越の小羊を屠って、過越の食事の準備をすることになっていました。そこで、弟子たちはイエス様に、17節で「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と聞いています。それに対して答えられたイエス様の答えが、18節にあります。 「イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」

   「都のあの人」というのが誰なのか、書かれていないので、誰かは、分かりませんが、イエス様はすべてをご存じで、過ぎ越しの食事の準備をするように伝えなさいとおっしゃったのです。
  イエス様は、神の子です。そして、すべてのことをご存じで、全てのことがお出来になるお方です。ですがら、わたしたちが弟子たちのように神様に従う時、神様は、必要な物は必ず与えてくださるお方なのです。弟子たちが、この不思議なイエス様の言葉に従って出かけていったように、わたしたちも、信じて従う者とさせていただきましょう。
  先週は、中国の宣教師、鹿子木先生をお迎えしましたが、中国奥地宣教教会の設立者ハドソン・テーラーは、ボーチャムという人と一緒にハンチュウという町に向かって旅路を急いでいました。ところが、その旅の途中で、どうしても食べ物を手に入れることの出来ないような所を通ったのです。彼らは空腹に耐えながら旅をしていました。 ところが、テーラーは「我らのこの食事のために、我らは主に感謝する」と歌い始めたのです。これを聞いたボーチャムは、「その食べ物はどこにあるのですか?」と聞きました。  すると、テーラーは笑いながらこう答えたというのです。「もう遠くないですよ。わたしたちが空腹なのを天の父はご存じですから、まもなく朝食をわたしたちのところにお送り下さるでしょう。朝食が来たら、はしをつけないで、まず感謝をささげなければなりませんよ。わたしはすぐにでも感謝をささげる用意をしています。」  神様は、そのことを本当に実現してくださったのです。向こうの方からすぐにでも食べられるようになっているご飯を売る商人がやって来たというのです。
  わたしたちの神様は、すべてをご存じで、すべてのことがお出来になる方です。そのお方を信頼して、主の言葉に従う者でありたいと思います。


(2)イスカリオテのユダの裏切り

   夕方になり、過越の食事が始まりました。その最中にイエス様が爆弾宣言をなさったのです。そのことが、21節に記されています。「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
  この言葉を聞いた弟子たちは、非常の驚き、心を痛めて「まさかわたしのことでは」  と代わる代わる言い始めたのです。そこで、イエス様は重ねてこう言われました。

23,24節をご覧下さい。「イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」  疑う余地もない決定的な宣言でした。
  この時、イスカリオテのユダは、イエス様のことを裏切る決心をしていました。 彼は、イエス様が、当時のユダヤ人達が考えていたように、自分たちを支配しているローマから救い出してくれる指導者として期待していました。ところが、ユダヤの王になるどころが、十字架につけられ死刑に処せられようとしていることを知った時、彼はイエス様に絶望したようです。そこで、イスカリオテのユダは、イエス・キリストを祭司長の所に行って、お金(マタイによると銀貨30枚)で売ってしまったのです。弟子たちによる裏切り、それは、イエス様にとって何よりも心の痛むことでした。 約3年間同じ釜の飯を食べ、言葉だけではなく、一緒に神様の行われた奇跡としるしを見て、すべてを懸けて弟子たちに愛を示し、訓練してきたのです。その弟子たちに裏切られるとは本当に大きな苦しみだったのではないでしょうか。
  けれども、そのような決定的な罪を犯したのにもかかわらず、イスカリオテのユダのことを愛しておられたのです。そして、この過越の食事の時に、このイスカリオテのユダに悔い改めの機会を与えられたのです。
  イスカリオテのユダは、そのようにイエス様から自らの犯した大変に罪を、過越の食事の席で示されました。この時に、彼は自分の罪を認めて悔い改めれば良かったのです。けれども、それをしようとしなかったので、とうとう滅びの道を歩んでしまったのです。
  彼の最後の様子が、マタイによる福音書27章3~8節に書かれています。
「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」
イスカリオテのユダは、イエス様を売って得た銀貨を神殿に投げ込み、外に出て首をつって死んでしまいました。彼は悲劇的でみじめな最後を遂げることになってしまうのです。招詞で、ローマ6:23を読んでいただきましたが、「罪が支払う報酬は死です。」とあるように、自我と欲望に生きた人生の結末は悲劇的な破滅です。ユダは、そのことを最も端的に実証した人だったのではないでしょうか。
  ドイツの哲学者で詩人のニーチェは、牧師の家に生まれ育ちました。ところが、成人してからの彼は、徹底的にキリスト教を否定するようになり「神は死んだ」と宣言したのです。  なぜ、彼が、「神は死んだ」と言い続けたのかということについて、ニーチェはこう言っています。「わたしはこの世に神を存在させることができない。なぜなら、もし、一人でも神がいるとしたら、わたしは自分が神でないことを、とてもがまんできないから・・。」  そのような、神を畏れずに、自分を神とする自己中心な生き方をした彼は、大変不幸な人生を過ごしました。 ニーチェは、25歳でスイスのバーゼル大学の教授になりましたが、プロイセン=フランス戦争に従事して病に倒れていまいました。後半生は、病気に苦しみながら、執筆活動を続けますが、最後は苦しみながらワイマールで亡くなったのです。
  神様は、この牧師家庭に生まれたニーチェをどれだけ愛しておられたことでしょうか。けれども、その神様から離れて自分を神として、自己中心な生活をしたためにその生涯が台無しになってしまいました。
 それは、イスカリオテのユダも同じです。弟子として選ばれ、弟子の中でも会計役を任せられるほどにイエス様に愛され信頼されていたのです。そして、罪を犯した後も、悔い改めの機会があったにもかかわらず、それに応じなかったユダ、その結末は、永遠の滅びでありました。
  神様は、あなたのことを愛しておられます。どんな状況の中にあっても、また、どんな大きな取り返しのつかない罪を犯してしまっても、神様は、あなたを愛しておられ、罪を悔い改めて、神様のもとに立ち帰ることを願っておられるのです。


(3)最後の晩餐

 26~28節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。」これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
 一同が、過越の食事をしている時、イエス様は、パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお与えになりました。彼らがそれを飲むと、イエス様は「皆、この杯から飲みなさい。」これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」とおっしゃいました。 この時の過越の食事のときに配られたパンとぶどう酒。それは、やがて、十字架にかけられて、裂かれてしまうイエス様の体とその時に流される血をあらわすものです。イエス様は、弟子たちを含むすべての人の罪の身代わりに十字架にかかろうとしておられました。 そして、その十字架上で裂かれる体と、流される血によって、イエス・キリストを信じる者の罪がすべて赦され、神の子とされる。これがキリストによる新しい契約です。
 そして、この時に12弟子すべてが、この聖餐に預かったという恵みを覚えたいと思います。この時に聖餐を受けた弟子たちの中には、すでに、イエス・キリストを裏切って銀貨30枚で売ってしまった裏切り者のユダもいたのです。また、この後、イエス様のことを3度も知らないと言ってしまったペトロもその中にいました。また、他の弟子たちもイエス様が十字架につけられた時に、蜘蛛の巣を散らしたように逃げていくのですが、その弟子たちすべてが、この聖餐にあずかっているのです。ということは、イエス様は、イエス様を信じるわたしたちが、どのような罪人であったとしてもすべての人を聖餐に招いておられるということが言えるのではないでしょうか。 わたしたちが、罪を犯してしまった時、こんなわたしは聖餐に預かるような資格はないと考えてしまいます。 また、自分のような信仰の弱い者が聖餐に預かって良いのだろうかと悩んでしまいます。 そして、ある方は、あの人と同じ聖餐にあずかるのは嫌だと言って聖餐を拒否する人がいます。 けれども、そうでしょうか。イエス様は、あなたの罪のために十字架で肉を裂かれ、血を流されたのです。あなたの罪のために、十字架にかかり、その弱い信仰を強めてくださるのです。また、愛のないわたしたちに十字架の愛を注いでくださって、互いに愛する者へと変えてくださるのです。だから、罪深ければ罪深いほど、信仰が弱ければ弱いほど、愛がなければ愛がないほど、十字架の恵みのあらわされた聖餐にあずかると言うことは大切なことなのです。
 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが教会を弾圧したことがあります。 そして、その侵攻が曲げられようとした時、リンデンコップという小さな村の教会は、その信仰を守るために命がけで立ち上がったのです。政府は、教会に罰金を支払うことや、追放を命じたり、財産を没収されるようなこともありましたが、村の人達は、揺らぐことなく信仰告白を守り通したのです。その時に、人々の支えになったのが、聖餐式にあずかる恵みだったのです。 最後の晩餐に制定された聖餐式は、だれのために、何をしてくださったのかが目に見える形で、また、味わうということではっきりとしているからです。 誰のためでしょうか。 それは、罪人であるすべての人のためです。  すべての人のためです。その中には、イエス・キリストを銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダのことも含まれています。また、十字架を前に3度イエス・キリストを知らないと裏切ってしまったペトロも、すべての弟子が含まれています。それだけでは、ありません。あの十字架につけられた時、イエス様は、御自分を十字架につけた人達のためにも「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。  あのイエス・キリストの十字架は、すべての人のため、勿論あなたのためのものでもあり、わたしのためのものでもあります。誰一人として、この恵みから漏れる人はないのです。 それでは、何をしてくださったのでしょうか。 あの聖餐式のために配られるパンのように、神の子である、イエス・キリストが、十字架で肉を裂かれたのです。そして、わたしたちの罪の赦しのために尊い血潮を流してくださったのです。わたしたちの救いのために命まで投げ出して、救いの業を成し遂げてくださったのです。 聖餐式は、そのことを確認し、罪の赦しを約束して信仰者を支えるものです。 リンデンコップの教会の人たちは、聖餐にあずかる度に、そのことを確認したのです。
 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。あの十字架上で、私たちが受けなければならない、すべての罰を十字架で受けてくださったのです。そして、私たちの罪のために十字架で清い血潮を流してくださり、私たちの罪を赦し、神の子としてくださり、永遠の命を与えて下さったのです。 それほどまでに、私たちのことを、今日も愛し続けて下さっているのです。そして、このイエス様の、十字架の愛を覚えて、心からの賛美をささげましょう。


  今日は、午後からミニコンサートが行われます。今からでも遅くありません。家族や友人をお誘い下さい。昼からの教会で行われるコンサートに、みなさんの家族や友人が来られたら、神様がどんなに喜んで下さることでしょうか。 また、8月4日~オンヌリ教会が20名の方々が、大切な時間とお金を献げて山形に福音を伝えるために着てくださいます。そして、8月5日~7日まで、ホサナファミリーキャンプが行われます。また、6日~9日まで、プレイ2キャンプがMSR+のボランティアセンターで行われ、被災地の方々のためにキリストの愛の奉仕が行われます。 今年の夏も盛りたくさんの恵みが用意されています。 ですから、「最後の晩餐に現されているキリストの愛」 私たちの罪のために十字架で肉を裂かれ、血を流して愛を現して下さった、キリストの愛を一人でも多くの方々にお伝えしましょう。

 

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コメント: 1
  • #1

    シズコ (日曜日, 22 7月 2012 22:38)

    こんばんは。
    ホサナアップ画像を見ようと思い来たら、今日の礼拝メッセージがアップされていたので、嬉しくて急いでこちらにやってきました。
    今日のメッセージは非常に印象的でした。特に「ニーチェの『神は死んだ』の意味」を初めて教えていただき、深く考えさせられました。
    また、ハドソン・テーラーさんの証は、本当にいつも慎ましく、慰められますね。伺っていて心がほかっとしました。
    今日のメッセージもいつものように、リビングライフの礼拝メッセージを書くページに一生懸命書き取ったのですが、なかなか難しかったので、メッセージをアップしてくださってとてもありがたいです。早速印刷して、ゆっくり寝る前に読ませて頂きます。メッセージのアップは、礼拝に行けなかった時や、また、どうしても病気や仕事などで、礼拝に来ることの叶わない兄弟姉妹にとっては、とても助かると思います。

    大変なお仕事だと思いますが、是非この礼拝メッセージのアップも、続けてお願いできればありがたいです。
    どうぞよろしくお願いいたします。
    HP担当の兄弟姉妹方に、主の祝福と恵みがありますように。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase