今日の聖書の箇所は、「ゲッセマネの祈り」の有名な箇所です。 イエス様は、最後の晩餐を過ごされた後、イエス様は祈るためにオリーブ山に行かれました。オリーブ山の西の斜面のふもと近くに「ゲッセマネ」という名前の園があります。
オリーブ山というのは、エルサレム神殿とケデロンの谷をはさんで、反対側の谷にあり、たくさんのオリーブの木が植えられています。その中には、何千年々も前に植えられた木もあり、私たちが、聖地旅行に行った時、この木は、樹齢三千年前の木ですとガイドの方が説明をしてくだいました。 ということは、この木は、イエス様がおられた時代もここに立っていて、イエス様がゲッセマネで祈った祈りを聞いていてのかも知れないと思って感動したことを思い出しました。今では、イエス様がゲッセマネで祈られた岩の場所に「ゲッセマネの園の教会」が建てられ、多くの巡礼者が訪れています。
「ゲッセマネ」というのは、名前はアラム語で「オリーブの油搾り」という意味があります。実際に、この場所には、オリーブの木がたくさん植わっており、オリーブの油絞りが行われていました。 まず、オリーブの油を作るために、まずオリーブの実を砕きます。 そして、三段階で、オリーブの油は絞られていくそうです。 壺に砕かれたオリーブの実が入れられ、1番目は、軽い石が上に置かれます。すると、オリーブの一番良い油が絞られ、これは、神殿や祭壇で神様のためにささげられます。二番目は、少し思い石が置かれ、油が絞られオリーブ油の高級品として市場で売られます。そして、最後に重たい石が置かれて絞られたオリーブ油は、日常生活のために用いられるのです。 このように、オリーブ油が絞られる「ゲッセマネ」で、イエス様は、まさに、汗が血のしたたりを絞り出すかように、神様との真剣な祈りをささげられたのです。
今日の中心の御言葉は、36節です。
「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
今日の聖書の箇所は、ゲッセマネの園での祈りの箇所です。たった11節の短い箇所ですが、他に例のないほど深く、イエス様の苦闘の祈りが書かれています。
イエス様は、最後の晩餐をすませ、前31~35節では、一番弟子のペトロの裏切りを予告され、イエス様はどうしても祈らずにはいられない、そのような気持ちになったのではないでしょうか。 イエス様は、いつもの祈りの場所ゲッセマネの園に行かれました。そして36節で「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。」 そして、8人の弟子たちはそこに残して、ペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子たちを連れてさらに奥に入って行かれました。そして、ゲッセマネの園で苦闘の祈りをささげられたのです。この時この3人の弟子たちは、イエス様の苦闘の祈りと、神様に完全に服従した証人とされたのです。
このゲッセマネの祈りから3つのことを学びたいと思います。
(1)ゲッセマネの園での苦しみの意味
37~38節
「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
イエス様は、ここで、「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と言っていますが、なぜ、イエス様は、これ程までにもだえ苦しまれたのでしょうか。 なぜなら、イエス様が、この夜に、ゲッセマネの園に来られたということは、死を意味していたからです。 この夜、イエス様がおられる場所は、二階座敷か、ゲッセマネの園でした。そして、裏切り者のイスカリオテのユダもそのことを知っていたことを、勿論イエス様もご存じでした。ですから、そのような危険な場所から避けることも、この場所から逃れることも出来たはずです。それにもかかわらず、他の場所には行かないで、あえて、ゲッセマネの園に来られたのです。
そこで、イエス様は、そのとき、悲しみもだえ始められた。」そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい。」とおっしゃったのです。 イエス様は、なぜこのゲッセマネの園で、「そのとき、悲しみもだえ始められた。」のでしょうか、また「わたしは死ぬばかりに悲しい。」とおっしゃったのでしょうか。
それは、このイエス様の死が、罪人として死ぬことを意味していたからです。 イエス・キリストは、一度も罪を犯したことのない神の子です。その神の子が、十字架につけられ、全人類の罪をその実に負って、神様からの呪いを一身に受け、見捨てられようとしていたのです。 イエス様は、マルコ10:45で「また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」とおっしゃいました。
イエス様の死、それは、罪を犯した人間が死刑になるのと同じです。罪のために、神様に呪われ、神様に捨てられ、悪魔の手に渡されるというのがこの死です。この死の恐ろしさを知っておられたイエス様は、「悲しみもだえ始められた。」のです。 イエス様は、これほど大きな苦しみをこのゲッセマネの園であじわられたのですが、それは、私たちの罪のためでした。
この苦しみを覚える時、私たちの罪がどれほど深く重たいものであるかを思い知らされます。本当は、私たちが罪を犯したのですから、私たちがその罰を受けるのが当然です。けれども、イエス様は、その私たちの罪の身代わりに、ゲッセマネの園でもだえ苦しまれ、命まで与えてくださったのです。
(2)ゲッセマネの園でささげられた祈り
39節
「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
イエス様は、少し進んで地面にひれ伏して、まず「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。 39節のゲッセマネの祈りを、3つに分けることができます。
①神様への絶対信頼
「この杯」というのは、最後の晩餐で、イエス様が杯をとって、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」とおっしゃったように、十字架の死を意味しています。 十字架の死を前にして、これからどうなるのかわからない、そのような状況の中で、イエス様はどうして神様の御心に従うことが出来たのでしょうか。その秘訣が、39節の前半にあります。
イエス様は、このゲッセマネの祈りの最初に、「父よ、」 と呼びかけられています。 マルコによる福音書では、「アッバ、父よ、」
と祈っています。アッバというのは、赤ちゃんが最初にママとか、パパという言葉を覚えるように、ユダヤで最初にお父さんを呼ぶ本当に親しみのある言葉です。イエス様は、神様のことをそのような父である神様を信じ、そのように祈ったのです。イエス様は、父なる神様の愛を信じ、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。」 と全能の神様を信じたのです。
今年の11月18日午後7時から、「山形市民クリスマス」「ひとあし早いクリスマス」が山形学院高等学校で行われることになりました。
講師は、あの有名な「父の涙」を作られた、岩淵 誠さんです。岩淵誠さんは、愛する娘を、病気で天に送った時、父親として耐えられなれないような苦しみを味わわれました。 その時に、イエス様が十字架にかかられた時、父である神様が、どんなに心を痛められ、涙を流されたことだろうと、あの有名な「父の涙」という曲が出来ました。
父親とは、そのように心からわが子を愛するものではないでしょうか。
天のお父様も同じです。イエス様のことを、かけがえのない大切な存在として愛しておられたのです。そして、人間にはどうすることも出来ないことがあって、そのような時に何とも言えない無力さを感じますが、神には何でもできないことはありません。その神様にアッバ父よ、と祈れるとは何という恵みでしょうか。
これは、私たちの祈りの模範でもあります。 私たちにも「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りたくような苦しみの中を通るようなことがあるかも知れません。 けれども、そのような時に、イエス様のようにまず、「父よ、」
と祈ることです。父なる神様は、私たちを限りなく愛し、最善のことをしてくださるお方であるということを信じることです。 そして、神様は「何でもおできになる」全能のお方です。その愛のお方、全能のお方にすべてをお委ねできるとは、本当に大きな恵みです。
②神様への素直な願い
続いて、イエス様は、39節で「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈っておられます。イエス様は、ここで、自分の正直な願いを神様に申し上げています。 私たちも、父なる神様に祈りをささげる時、一番大切な問題を、避けずに、率直に祈っていいのです。 ただ、自分の願いを押し通すというのではなく、柔らかい心で、御心を受け入れ、服従できるまで祈るということが大切です。 父なる神様は、私たちを愛しておられ、最善以外のことはなさいません。そのことを信じて、神様がお与えになるものは、どんなものでもお受けし、もし、神様の御心では、どんな苦しみにも耐えると神様の御心にすべてをお委ねしましょう。そうするならば、神様は、イエス様を全人類の救いのために用いられたように、私たちを神様の栄光のために用いてくださるのです。
③御心が適うことを願う祈り
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」わたしたちも、ただ、御心に適うことが行われますようにと、主の御心に従うものでありたいと思います。
東大総長で伝道者であられた矢内原忠夫先生が、この「私の願いではなく、御心のままに行われますように」という祈りについてこう言っています。「自分の意志を神の意志に一致させることが、私達の祈りの真の意味であってその反対ではない。 しかし、神のみ心がすぐにわからないことがある。また、神のみ心が、わかっても、それがあまりにもわが意志に反するものである時、我らは神の前に幼子のごとく泣き訴え、駄々をこねる。しかし、父は憐れみをもって我らをつつみ、結局神のみ心に従わざるを得ないようにしむけ給う。そして、われらがついに神のみ心にわが意志を一致させて全く従順な態度になった時、メラのような苦汁に満ちた杯も、甘味となる。」
イエス様は、このようにして大変な戦いの中で、確信と平安が与えられるまで祈られたのです。 私たちも、イエス様のように、確信と平安が与えられるまで祈りましょう。そして、心から「御心のままに行われますように。」と神様の御心を求める祈りをささげるものとさせていただきましょう。
(3)ゲッセマネの園での弟子たちの姿
このゲッセマネの祈りがささげられていた時、ペトロとヨハネとヤコブは、すぐ側で祈りをささげていました。この時、イエス様は、弟子たちに3度も祈ることを勧めています。 36節に「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」とあります。これは、ただ座っていなさいというのではなく、一緒に祈って欲しいということではないでしょうか。 また、一緒に連れてきた3人の弟子には、38節で「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と、目をさまして祈っていなさいと言われています。 それにもかかわらず、弟子たちはイエス様がゲッセマネの園で苦闘の祈りをささげている時、眠ってしまったのです。そのような弟子たちを見られてイエス様は、40節でこう言われました。
「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。」
この時の状況を考えてください。 イエス様を裏切る者が、大勢の人達を引き連れて、近づいているのです。その物音がもう聞こえているのです。その時まで彼らは眠っていたのです。 ペトロは、イエス様に起こされた時、本当に申し訳ない気持ちで、何といっていいのかわからなかったのではないでしょうか。
そのようなペトロに、イエス様はこう言われます。41節「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」この言葉は、弟子たちが自分の弱さに絶望しないようにイエス様がおっしゃった憐れみの言葉です。
「眠る」という言葉には、いろいろな意味があります。けれども、ここでは、明らかに、弟子たちの無力、イエス様に対する無理解、霊的な鈍さをあらわしています。特別に選ばれた3人の弟子たちも、イエス様をお助けすることは出来なかったのです。イエス様は、唯一人で、すべての人の罪のために十字架にかかられたのです。
弟子たちは、ここにあるように何の頼りにもたたないような弱く、頼りない存在でした。
ところが、イエス様は、この弟子たちに最後にこう言われるのです。
45~46節
「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
ついに、イエス様を裏切る者がやって来ました。弟子たちはそれが誰であったかも解らなかったかも知れません。 けれども、イエス様は、十字架に向かって立ち上がったのです。その時に、弟子たちに対して、「立て、行こう。」
さあ、一緒に行こうとおっしゃったのです。主の十字架のもとに来なさいとおっしゃるのです。 お前達は、頼りにならないから、駄目だと言われるのではありません。駄目だから、連れて行かないと言われません。そう言われても当然なのですが、それにもかかわらず、「立て、行こう。」 と御言葉をかけられたのです。
そして、これは、今の私たちに対するイエス様の約束です。私たちに、どんなに力がなくてたよりにならなくても、イエス様の御心が全然解らなくても、いや、イエス様を裏切ってしまうような存在であったとしても、イエス様は私たちに「立て、行こう。」 とお声をかけてくださるのです。
弟子たちは、そのイエス様の御言葉に励まされて、最後まで、主の御足跡に従っていきました。この弟子たちと同じように、私たちも「立て、行こう。」というイエス様のお言葉に従って、立ち上がり、この主の御足跡に従うものとさせていただきましょう。
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