8/12 主日礼拝

「剣をさやに納めなさい」マタイ26:47~56

8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。 村山市と長崎市とは、交流があり村山市で「平和を願う集い」が行われました。その日に約300人の人が集まり、平和を祈って300個の風船が飛ばされました。。 そこで、長崎市市長(田上富久)の「核兵器と人類とは共存できないことを理解して欲しい。」という言葉が紹介され、葉山中学校の生徒が、東日本大震災の体験から「普通に生活できるありがたさを知った。」と平和の尊さが訴えられました。
  特に、先週から今週にかけて、長崎や広島に原爆が投下され、8月15日には日本の敗戦の日を迎えますが、心から世界に平和が訪れますようにと祈りましょう。

今日の中心の御言葉は、52節です。

 「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
 今日の聖書の箇所は、イエス様が十字架にかかられる前の弟子たちの姿が書かれているところですが、イスカリオテのユダと、ペトロと、弟子たちの姿を通して、キリストの平和と愛について学びたいと思います。
(1)イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ

47~50節

 「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」
  イスカリオテのユダは、イエス様を当局者達に引き渡すために、武装した群衆を先導して、暗闇の中を忍び寄ってきました。ゲッセマネの園は、やみに包まれていましたが、彼らの心は、その暗闇よりも更に深い闇に包まれていました。 イスカリオテのユダは、前もって彼らと「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と打ち合わせをしていました。そして、イエス様に近寄ると、接吻をしたのです。 接吻というのは、尊敬と愛をあらわす行為です。ユダは、この大切な行為を利用して、イエス様を売ってしまったのです。 この時、彼は、自分の罪の重大さにほとんど気がついていませんでした。自分が今行っていることがどういうことなのか分からないままに、ずるずると取り返しの着かない罪をおかしてしまったのです・・・。何という人間の罪の、醜さ、恐ろしさでしょうか。
 そして、47節に注目していただきたいと思いますが、ここにユダのことが「十二人の一人であるユダ」と紹介されています。福音書では、イスカリオテのユダのことを繰り返しこう読んでいます。ヨハネによる福音書6章70~71節には「すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と書かれています。  「十二人の一人であるユダ」 、主イエス様が、最も愛し、いつもイエス様の側にいた弟子達の中から、裏切り者が出たことを、福音書は繰り返し繰り返し語っているのです。  イエス様を裏切った者は、第三者でも、イエス様の敵でもなく、イエス様が選ばれ、愛された者の中にいたのです。このことは、どんなにイエス様の御心を悲しませ、傷つけたことでしょうか。  けれども、、イエス様は、そのイスカリオテのユダが自分を裏切ると言うことを知っておられながらも、彼を口汚く批判したり、攻撃したり、見捨てたりはなさいませんでした。それどころか、イスカリオテのユダの接吻を受け、「ほふられる小羊のように」捕らえられ連れて行かれたのです。
 私だったら、危機が近づいていることを少しでも感じると、何よりも先にそこから逃げようとします。しかし、イエス様は、そこにとどまり続けたのです。それは何故でしょうか。 そのカギが、56節にあります。 「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」  イエス様は、ここで、「 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」とおっしゃいました。イザヤ書53章・詩編22編などに、イエス・キリストの苦難の預言が記されています。
イザヤ書53:1~5(P1149) 

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 人類の救いが、苦難の僕によって実現すると言うことが、イエス・キリストがお生まれになる700年も前から預言されていたのです。このイエス・キリスト手の十字架によって、人類の救いは完成するのです。イエス・キリストの十字架の贖いによる以外救いはないのです。だから、イエス・キリストは、イスカリオテのユダに裏切られ、捕らえられ、十字架の死を遂げなければならないことを知っていても、そこに留まりつつけたのです。
(2)剣で耳を切り落としたペトロの姿

 50~54節

「イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
  大祭司の手下が、イエス様に手をかけて、捕らえようとした時、居合わせたある者が、剣を抜いて、大祭司の手下に切りつけ、その片耳を切り落としたのです。 マタイによる福音書には「イエスと一緒にいた者の一人が」と書かれていますが、ヨハネによる福音書18:10には、それがシモン・ペトロであったことが書かれています。ペトロは、おそらくイエス様を救おうと思って、そのような行為に出たのでしょう。しかし、これは、神様の深いみ旨を悟らずに、突然の危機にあわてふためいて自分を見失った行為でした。 これは、あのゲッセマネの園で、目を覚まして祈っていなさいと言われた時に眠りこけ、危機に対して心の備えが出来ていなかった結果ではないでしょうか。イエス様のように、祈りによって備えが出来ていたら、突然襲いかかる危機にも冷静に対処できたことでしょう。けれども、この時もペトロの心は、神様の方向を向かずに、自分の正義感でこのような失敗をしてしまったのです。
 マタイによる福音書26章52~54節には、この時に、イエス様がいさめたことが記されています。(P52) 「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 

  ペトロのしたことは、言ってみれば正当防衛です。それにもかかわらず、イエス様は、ペトロを戒められました。  そして、剣を取る者は、剣で滅びる真理と、イエス様が、神様のみこころに従って十字架の道を歩まれることをお教えになったのです。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」とイエス様はおっしゃいました。
  本当の平和は、決して剣によっては訪れません。ただ、イエス・キリストの十字架によってのみ、真の平和が訪れるのです。
  パウロは、エフェソの信徒への手紙2章14~16節でこう言っています。

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」  とありますが、イエス・キリストの十字架だけが、この十字架にあらわされている神様の愛だけが、この世界に真の平和をもたらすのです。
 アメリカの原爆投下で、広島で25万人、長崎で15万人という史上かつてない大量殺害を一般市民が受けました。これによって、戦争が終わったのです。 人間が起こした戦争、その終結のために払われた犠牲は、あまりにも大きなものでした。 数年前に、爆心地である浦上天主堂に行ってきました。その浦上では、1万2千人の信者の内、三分の二の信者が犠牲となったそうです。まさに、カトリックは壊滅的な被害を受けたのです。 「長崎の鐘」を書いた、永井 隆は医者でもあり、文学者でもありますが、そのことを「その犠牲によって、戦争は終わった。」と書いています。 もし、広島や長崎の犠牲がなかったら、戦争は終わらずに、もっと大きな被害を日本は受けていたかも知れません。しかし、あの被害があったからこそ、戦争は終わったと言っているのです。
 そして、神様は、私たちに真の平和を与えて下さるために、何よりも大きな犠牲を払ってくださいました。それが、イエス・キリストの十字架に現されています。
 もう一度エフェソの信徒への手紙2章14~16節をご覧ください。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
  私たちは、今こそ、剣による平和ではなく、キリストの十字架による本当の平和が訪れるように心から祈らせていただきましょう。
(3)逃げた弟子たち

56節の最後にこう書かれています。  「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」 

 イエス様が捕らえられると、弟子たちは、みんなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。あれほど、イエス様を捨てないと言っていたペトロも逃げてしまったのです。現実の危機に直面した時に、日ごろ自負していた彼らの勇気はもろくも崩れ去ってしまいました。弟子たちは、この時自分の弱さをさらけ出してしまいました。このことは、後々まで、弟子たちの深い心の痛みとして残ってしまったに違いありません。
 そして、4つの福音書の中で、マルコによる福音書51~52節にだけ、マルコのことが書かれています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」 

  一人の若者が、素肌に亜麻布をまとって  いましたが、捕まえられそうになると、あわてて、亜麻布  を脱ぎ捨てて、裸で逃げていったというのです。これは、この福音書だけに記されていることから、マルコ自身だったのではないかと言われています。 その時のことを彼は生涯忘れることが出来ずに、心からの悔い改めをもってこの出来事を書いたのではないでしょうか。 そして、マルコはその心からの悔い改めによって、イエス・キリストを心から信じ、このマルコによる福音書を書いたに違いありません。
 このように、イエス・キリストの十字架の福音に触れる時に、人は造りかえられ、神様に用いられていくのです。
 石井重治は、日本のジョージ・ミューラーと呼ばれていますが、祈りによって3000人の孤児を育てた人です。  ある日、彼が建てた岡山孤児院にたくさんの子供達が集まって、食べるものに困ってしまいました。お米が余りありませんでしたから、何日もお粥を食べて生活をしていたのです。 するとある子どもが、そんな生活に耐えられなくなって、食べ物を盗むようになりました。何度も注意するのですが、どうしても盗み癖が治りません。石井重治は、その子どもを、奥の間に呼び出すと、木の棒で、何度も何度も、お尻をたたきました。それを見ていた奥さんが、「もう止めてください。許してやってください。」と言って、そのこの上に覆い被さるようにその子をかばうのです。すると、そのたたいていた木の棒が、その妻の頭に当たってしまうのです。その時、石井重治は、我に返ってたたくのを止めて、「俺は、どうも短気でいけない。これからは、もうたたくのを止めよう。」と決心をするのです。 ところが、次の日に、便所を見てみると、また、その子どもが、また隠れてまんじゅうを盗んで食べていたのです。もう堪忍袋の緒が切れたとばかり、石井重治はまた、奥の部屋に行って、木の棒を取りました。するとどうでしょう。その棒に、横にもう一本の棒が結びつけられていて、十字架の形になっていたのです。それは、奥さんがしたことでしたが、その十字架を見た時に、彼は、深い悔い改めに導かれます。そして、決して暴力を使わない、キリストの愛による教育を始めたのです。  そのキリストの十字架の愛が、石井重治を変え、子供達を変え、子供達を素晴らしい人へと育てていったのです。
 キリストの十字架の愛、それは、どんな罪深い人の罪も許すものです。そして、その十字架の愛は、人を主に役立つ者へと変えていくのです。
 今日は、イエス・キリストが逮捕された時の、3人の弟子たちの姿を見てきました。イスカリオテのユダは、イエス・キリストを接吻をもって裏切りました。 また、ペトロはこの時、主の御心を全然理解できず、剣で戦おうとしました。 そして、他の弟子たちは、イエス・キリストが捕らえられた時、みんな逃げてしまいました。 このように、弟子たちは、イエス・キリストが捕らえられた時、醜態をさらせてしまうのですが、それでも、イエス様は、弟子たちを最後まで愛し抜かれました。そして、神様の御心に従い、十字架の道をまっすぐに見つめて歩まれたのです。  残念なことに、イスカリオテのユダは、その主の愛を理解できずに、自殺をしてしまいますが、この十字架の愛によって、全人類の救いの道が開かれ、やがて弟子たちは、悔い改めに導かれ、神に用いられる器となっていくのです。
 イエス様は、あなたが、イエス様を裏切るようなことがあったとしても、あなたを愛しておられます。また、取り返しのつかないような罪を犯したとしても、イエス様を裏切って逃げてしまうようなことがあったとしても、主のあなたに対する愛は決して変わることがありません。その愛が、イエス・キリストの十字架に現されています。 そして、やがてこの弟子たちが、主の前に悔い改め、主の尊い器として用いられていったように、私たちも主の弟子として用いていただきましょう。

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祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Illustration by c-awase