8/19 主日礼拝

「畑に宝が隠されている。」マタイ13:44~50

今日は、召天者記念礼拝です。 今、写真が前に飾られています。そして、両側にきれいな花が飾られていますが、この花は、飛渡ヒロエさんのお子さん方が、この日のために献げてくださった花です。この花を飾りながら、飛渡ヒロエさんが、「私は、イエス様を信じて天国に行くのだから、死ぬのは全然恐くありません。」と笑顔で語られたこ言葉を思い出しました。 今日は、信仰を全うされて天国に行かれた方々のことを思い出し、私達も天国へ希望と平安に満たしていただきたいと思います。

今日の中心の御言葉は、44節です。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 

 「ここに畑に宝が隠されている。」とありますが、みなさんにとって宝とは、何でしょうか。
 イエス・キリストはそれは、「天の国」だと言い、マタイ13章に「天の国」のたとえが、7つ記されています。今日は、その5番目から7番目のたとえです。5番目は、畑に隠してある宝のたとえ(44節)6番目は、高価な真珠のたとえ(45~46節)7番目は、網のたとえです。(47~50節)
(1)畑に隠してある宝のたとえ

44節

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

  このたとえは、私たち日本人には、あまりぴんと来ないたとえかもしれませんが、このようなことがパレスチナでは良くあることで、今日でも、東洋の人なら誰でもこの情況を思い浮かべることが出来るそうです。 昔、銀行というものがありませんでしたから、土の中が一番安全な場所でした。そこで、人々は、貴重品を土の中に埋めたのです。 タラントンの譬えで、マタイ25:25には、1タラントン与った不忠実なしもべは、与えられたタラントンを失わないように、土の中に埋たことが書かれています。 特に、パレスチナほど戦場として荒らされた土地はありませんから、戦争が起こて、その地が、今にも滅ぼされそうになった時、その住民は、貴重品を地下に隠し、いつの日か、また戻ってきて、その自分の財産を取り戻すことが出来るようにと願いながら、土の中に埋めたのです。
 そのことを考えると、今日の聖書のたとえがよく分かります。 44節 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 

 イエス様の時代の律法によると、もし、ある人が、畑に宝を見つけると、そのまま隠しておいて、その畑をかってしまえば、その宝はまるまるその人の物になったのです。
 なぜ、その宝は、持ち物全てを売り払っても買うほど、価値があるのでしょうか。それは、そこに宝が隠されているからです。 今、竹島や尖閣諸島のことが大きな問題になっています。なぜ、それがそんなに大きな問題になるのでしょうか。竹島や尖閣諸島は、ほとんど誰も住めないほど小さな島です。しかし、その島や海域には、原油をはじめ、莫大な資源が隠されていると言われています。だから、価値があり、大きな問題になっているのです。
 このたとえから教えられることは、この宝は、どんなものを犠牲にしても惜しくないほど、素晴らしいものであると言うことです。 この宝を探し当てた人は、44節の後半で、「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とあります。この人の持ち物が、どれだけあったのかは、分かりませんが、「すっかり」とありますから、それらの物を全部売り払って、この宝の隠されている畑を買ったのです。
 畑は、私達の心です。そして、私達の心には、莫大な宝が隠されているのです。 この宝とは、何でしょうか。天の国です。この天の国ほど素晴らしい宝は他にはありません。どんなこの世の物よりも素晴らしい宝です。 イエス・キリストを信じた時、私たちの罪が赦され永遠の命が約束されました。その約束は素晴らしいものですが、もっと素晴らしいことは、私たちの心の中に、今日もイエス・キリストが共にいてくださるということです。天の国というのは、ひと言で言うなら、神が共におられる場所です。ですから、私たちの心の中に、今、神様が共にいてくださるなら、その場所が「天の国」なのです。それに勝る宝はありません。
 国井ハナさんが、召天されたのは2002年9月14日ですが、その夏に、家族が集まって、ハナさんにどこか行きたい?と聞くと、「高いところに生きたい」と言われ、家族みんなで、蔵王の山に登られて楽しい時を過ごされたと聞きました。 ハナさんは、人生の最後に「高いところに生きたい」と言われましたが、後で「思い出を語る会」で、ハナさんが「高いところ」と言われたのは天国のことを行っていたんだということが分かりましたと語られたことがありました。 最後に、ハナさんはこの世のどんなところに行くことよりも、天国に行くことを願われたのではないでしょうか。 この世の中には、心が引かれる素晴らしいものがたくさんあります。 しかし、この世でどんなに素晴らしい物を手に入れたとしても、それを天国に持って行くことは出来ません。 イエス・キリストを信じる信仰、これは、この世のどんなものよりも、素晴らしい宝です。この隠されている宝を見いだした人のように、この世のものを手放して、永遠の御国を目指して、ただ主を信じ主に従うものとさせていただきましょう。
(2)真珠のたとえ

45~46節

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」 

 昔の人々は、真珠を特別に尊い物と考えていました。それは、真珠がお金の価値が高かったというだけではなく、その美しさに価値があったのです。 特に当時、イスラエルでは、真珠を手に入れるためには、紅海いかなければ、手に入れることが出来ませんでした。ですから、商人は世界中を回って、美しい真珠を探し回っていました。それほど真珠は、希少価値のある物だったのです。 そのような、真珠を手に入れた人のことを考えてください。何よりも素晴らしい真珠を前にして、至福の時を味わったのではないでしょうか。
 その真珠の譬えられるように、天の国は、真珠にたとえるほど、美しい場所です。 昔の人にとって、真珠はすべての持ち物の中で、最も美しい物でした。真珠を見つめながら、その美しさを鑑賞することは大きな喜びでした。そして、イエス様はその真珠をたとえに、天の国が世界中で一番美しい場所であると言われたのです。
46節に「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。高価な真珠を見つけた人は、「出て行って持ち物をすっかり売り払って、それを買う。」と書かれています。 本当に美しいものを見つけた時、どんな犠牲をも惜しまなかったのです。それと同じように「天の国」という美しく輝かしい宝のために犠牲を払っても惜しくはないのです。
 天国がどんなに素晴らしい場所であるかが、12の門に飾られている真珠にたとえられています。ヨハネの黙示録21:21~23(P478)「また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」
  天国の12の門には、12の真珠で出来ていることが書かれています。天国の真珠の門とんなに美しく輝いていることでしょう。 天国の大通りは、透き通ったようなガラスのような純金で出来ていて、もうそこには太陽の光も月の光も必要ありません。なぜなら、神様とイエスの栄光が天国を巡り照らしているからです。 そして、ヨハネの黙示録は、ヨハネがパトモス島で、神様からいたたいた幻を書き記した物です。ですから、絵で言うと抽象画のようなもので、天国は人間の言葉では言い表すことの出来ないほど素晴らしい場所だということが分かります。そのような天国が私達に約束されているとは何と素晴らしいことでしよう。
 歌丸さんご夫妻は、まさに、この天国を目指して生きた人生だったと思います。 歌丸さんご夫妻とを支えた聖書の御言葉があります。ヨハネ14:1~2 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」 この御言葉は、1976年9月、歌丸愛子さんが61歳のとき、心臓の大手術をなさった時に与えられた御言葉です。その手術の時に急に血圧が下がってしまったため、血圧の上げる処置が施されたそうですが、急に血圧が上がったために、脳にクモ膜下出血が起こり、生死をさまようことになってしまいました。 ちようど教会では、当時、会堂建築がされていまして、熱心な祈りがささげられ、愛子さんの葬儀を行うために早く完成させましょうと言われたということをお聞きしたことがあります。          そのような時に、神様が、御言葉をもって、励まし、力づけて下さったのです。そして、2節には、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」と書かれています。  歌丸さんはこの御言葉が与えられた時、イエス様が天国を用意してくださっているから、どんなことがあっても大丈夫だと思ったと証してくださいました。 神様は、その病を癒やして下さり、それから、長年の祈りであった御主人の憲三郎さんが1989年に救われ、二人三脚のように信仰の歩みを全うされました。毎朝、お二人で、榎本保郎先生の聖書を開き「旧約聖書一日一章」を読まて、共に祈られ、毎週お二人で教会に来られました。 その愛子さんがいつも口癖のように祈っておられたのが、「神様、今日も生かして下さってありがとうございます。」という祈りでした。今生かされているのは、当たり前ではなく、神様の恵みによって生かされているのだということです。  そして、私達に天国が備えられているとは何と素晴らしいことでしょうか。人生がよくマラソンにたとえられますが、たとえ今がどんなに苦しくても、辛くても、最後は、スタジアムで多くの人を歓声を受けてゴールをする選手のように、人生のゴールでは、大勢の天使と、すでに天国に行かれた愛する兄弟姉妹が、そして何よりもイエス様御自身が両手を広げて待っていて下さるのです。
46節をご覧ください。「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
 この全てにまさる素晴らしい天国というゴールを目指して、恵みの中を歩ませていただきましょう。
(3)網のたとえ

47~50節

 パレスチナには、魚をとる方法が、二種類ありました。 一つは、投げ網、これは、網を手に持って、岸から投げる方法です。 もう一つは、曳き網です。この網は、4角の大きな網で、四隅に綱が付いています。これは、重りがついているので、水中では、垂直に立っています。そして、船が動き始めると、網が傘のようになって、その中に魚が集められるのです。 漁師は、この網を陸に引き上げて、中に入ったものを選り分け、役に立たない物は捨てて、良い物は容器の中に入れました。
このたとえから、教えられることが、二つあります。

o一つは、曳き網は、すべての魚を集めるということです。

47節「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」 曳き網は、湖の中で引っ張られていきますから、その中には、どんな魚も入ってきます。良い物だけをより分けて、選ぶことは出来ないのです。 そのように、神様は、すべての人を招いておられるのです。
  ここに「いろいろな魚を集める。」とあります。恐らく、この中には、生まれたばかりの小さな魚もいたでしょうし、大きな魚、年老いた魚もいたに違いありません。また、元気な強い魚もいたでしょうし、静かな弱い魚もいたに違いありません。そして、その中にはすべての種類の魚が入っていたのです。そして、イエス様は、それらのどんな魚も入ってきたのです。                                              

  私たちにもいろいろな個性があります。子供もいれば、大人もいる。頭のいい人もいれば、体力なら自身があるという人もいます。世界を見ると白人、黒人、黄色人種と様々です。そして、神様はすべての人を今日も招いておられるのです。 イエス様は、すべての人の罪のために十字架にかかられてよみがえらました。そして、今もすべての人を招いておられるのです。 そして、今日召天者名簿を読んでいただきました。ここに書かれているお一人お一人が大切な方々で紹介できないのが残念ですが、この一人一人がイエス・キリストの十字架の恵みによって、イエス様の招きによって天国に行かれたです。
oそして、もう一つは、引き上げられた魚は、最期はより分けられるということです。

48~50節「網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」  これは、世の終わりの時を表しています。私たちは、いつか必ず、主の前に立たなければならない時がやって来ます。その時、イエス・キリストを信じる物は天国に、しかし、信じない物は地獄に投げ込まれるのです。 それは、正しい裁きをなさる神様が成されるのです。それは、本当に厳粛な時です。その時には、私たちがどんなに良いわけをしても、通用しないのです。ただ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じる信仰を持っているか、いないかで、天国と地獄に分けられるのです。 そこで、悪い者は、燃えさかる炉の中に投げ込まれ、そこで、泣きわめいて歯ぎしりをするというのです。 そして、その日その時は、誰も知らないのです。
 私達は、今年の2月に突然の別れを経験しました。 山口 堯さん名前が一番下にあります。山口さんが、山形南部教会に来られたのは、5年くらい前だったと思います。一度、改革派山形教会の先生の紹介で来てくださいました。しばらく、教会に来られませんでしたが、亡くなる2年くらい前から礼拝や、川上家で行われている「まきば」にも通われるようになりました。そこで、一緒に神様を賛美し、祈り、礼拝を献げたのです。 ところが、今年の2月に、悲しい別れを経験をすることになってしまいました。 今年の2月12日国井 博さんが、山口さんを教会に誘うために、アパートに行ってくださった時のことです。アパートのカギがかかっていたので、後ろの窓を開けると、冷たくなっておられた山口さんがおられたのです。 それは、本当に大きなショックで、しばらく言葉を失ってしまいました。しかし、礼拝を献げている内に、山口さんが人生の最後に教会に来られて、天国に行かれたのだという、何とも言えない平安が与えられました。 本人が教会に来られていたことと、ご遺族のご意向で葬儀は教会で行われることになりました。 その葬儀の時に与えられた御言葉は、マタイによる福音書11章28節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 この御言葉を思い巡らしながら、神様が、人生の最後の一番大切な時に、山口さんを教会に招いてくださり、そして最後は、神様が「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」天国に招いてくださったのだと確信しました。
 人生の終わりはいつ来るか私達には、分かりません。 しかし、イエス様は、今も変わらず、十字架の傷跡のある御手を広げて、すべての人を招いておられます。そして、その招きにお応えして、イエス様のもとに行くならば、その畑に、この世のすべてのものをすっかり売り払っても惜しくない最高の宝を見つけることが出来るのです。 また、この世のどんな美しい真珠も比べ物にならないほど、美しい世界があるのです。
44節 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
 この最高の宝「天国」を目指して、希望を持って私達の人生という旅路を歩ませていただきましょう。


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Illustration by c-awase