8/26 主日礼拝

「神の子メシア(救い主)」 マタイ26:57~68

今日は、Y君の証しを聞くことが出来て、感謝です。Y君と、2ヶ月半ほど学びをさせいていただきましたが、スポンジが水を吸収するように、福音を受け入れいれる姿に感動しました。

 放射能のことは、本当に大変な大きな問題ですが、そのことを通して、山形南部教会にMさんご一家が導かれたことは感謝です。そして、何よりもY君が、イエス様を信じて、母教会の兄弟団 福島教会で洗礼を受けたことは大きな喜びです。
 すべてが神様の御手の中にあります。そして、イエス様は私達に最善をなして下さるお方です。イエス・キリストは、どんな暗闇の中、とんな嵐の中にも、来てくださって、私たちを救ってくださるお方であるということです。そのために、イエス様は、十字架の道を歩んでくださったのです。

今日の中心の御言葉は、63~64節です

「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
 今日読んでいただいた、聖書の箇所は、イエス様が、最高法院で裁判を受けられたことが書かれている箇所です。 イエス様がどのような行程で、裁判を受けられたのかはっきりしたことは分かりませんが、2つの裁判を受けなければなりませんでした。 当時イスラエルは、ローマの支配下の中にありましたので、裁判もイスラエルの大祭司による裁判と、ローマの皇帝による裁判を受けなければならなかったのです。 1番目は、今日の聖書の箇所で、ゲッセマネで逮捕された後、夜に大祭司カイアファによって行われた裁判です。 そして、2番目は、ローマの総督ポンテオ・ピラトのもとで行われた裁判で、マタイ27章書かれています。
 この裁判が行われた時、弟子たちはみんな、イエス様を見捨てて逃げていましたが、58節には、その中で、ペトロだけは、ただ一人、イエス様の後を付いていったことが書かれています。「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。」
  この57節以下の聖書の箇所を読むと、イエス様とペトロの姿が並行して書かれていることによって、一歩一歩、十字架を目指して歩んでおられるイエス様と、それに反比例するかのようにイエス様から一歩一歩遠のいていくペトロの姿が映し出されているのに気づかされました。そして、来週学びたいと思っていますが、69節以下のペトロが3度もイエス様のことを知らないと言うところに行くと、その事が決定的に明らかになります。

 ペトロは、マタイ16:21~28で、イエス様が御自分の受難を予告された時に、それを理解できず、イエス様をわきに引き寄せて、いさめ始めたことがありました。この時ペトロは、イエス様から「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23節)  と激しい叱責を受けたのですが、今、その人間的な考え方が、イエス様の十字架への道がいよいよ確実になる中で、彼の具体的な言葉や行いにはっきりとあらわれてきたのです。
  けれども、私たちは、これはペトロの問題だと平然としておられないと思います。この弱いペトロは、弱い私たちの代表です。このことを私たちも謙遜に認めて、悔い改めて、いつもイエス・キリストを信じて従っていくことが出来るように、心から祈り続けていかなければならないのではないでしょうか。
(1)不当な裁判 

  イエス様は、捕らえられると、深夜であるにもかかわらず、ただちに「祭司長、長老、律法学者たちが皆、」  集まっり、さっそく裁判が始まりました。  この裁判は、ユダヤの議会サンヘドリンにおける裁判でした。当時ユダヤでは過ぎ越しの祭りの最中に裁判を行ってはいけないこと、それも議会を招集して裁判を行うは昼間に行わなければならないことが決まっていました。 ですから、この裁判は律法違反だったのです。 しかし、それにもかかわらず彼らは、イエス・キリストを殺すために、手段を選びませんでした。また手間もいとわずに真夜中に集まってきたのです。
  この裁判は、また他の点でも異法なものでした。 裁判に必要なのは、その人が訴えられる理由と、この証拠です。ところが59~60節には「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。」と書かれています。このことからも分かるように、このイエス様の裁判は、イエス様が訴えられる理由の証拠もないまま裁判が行われたのです。そして、裁判が始まってから、その理由と証拠集めが行われているのです。このことからだけでも、この裁判がどんなに不当で闇に包まれたものであったのかが良く分かります。
  そして、この裁判の中で、イエス・キリストが訴えられた理由が二つに絞られていきました。
60~61節「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。」

  イエス様は、このようにおっしゃったのですが、それは、イエス様御自身の十字架と復活の預言として語られたのです。
 なぜ、それが、訴えられた理由となったのでしょうか。 それは、サムエル記下7章5節以下の「ナタンのダビデに対する祝福の預言」にあります。(P490) この預言には、二つの大切な内容が書かれています。一つは、12節です。 「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」  ここには、神様が、ダビデの子孫からその国を揺るぎないものとする事が預言されています。もう一つは。13節です。「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」  ここには、この者は、神のために家を建てて、その王国を堅く据えることが書かれています。  このナタンの預言は、神の国を建て挙げるものがダビデの子孫から現れるという、メシア預言です。  ですから、このナタンの預言と照らし合わせてみると、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」  とおっしゃったのは、間接的に自分こそが、神の子、メシアであると主張したのと同じ事になると考えられたのです。 そして、イエス様のこの神殿に対する言葉は、神に対する冒涜だと訴えられたのです。
(2)イエスの沈黙

62~63a節「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
  審問は、神殿の問題から、「メシア」の問題へと進んでいきます。しかし、その間、63節には「イエスは黙り続けておられた。」と書かれています。 なぜ、イエス様は、ここで沈黙をなさったのでしょうか。自分に不利にならないように黙秘権を用いられたのでしょうか。 そうではありません。ある聖書学者は、この時のイエス様の沈黙について、「この沈黙は、神の沈黙であり、神の御意志の堅さを示す。」と解釈していました。キリストの沈黙は、岩のように決して揺らぐことのない神の御心をあらわしているというのです。  それでは、なぜ、神の御子である、イエス・キリストが苦難と死に向かわれていることが、神の御心だったのでしょうか。  それは、イザヤ書53章の「苦難の僕」と呼ばれる聖書の預言にあります。

イザヤ書53章7節をご覧ください。(P1150)「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」  とあります。ここに「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」   とあります。 そして、65節には、「それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。」  と書かれている聖書の箇所を見てみると、まさに、あの「屠り場に引かれる小羊」をあらわしていることが良く伝わってきます。  神様が、神の子であるイエス・キリストの受難を決意されたのは、それによって私たちの罪を贖うためでありました。  旧約の時代、人が罪を犯すと、その度に神殿で全焼のいけにえを捧げなければなりませんでした。けれども、イエス・キリストは、私たちの罪の贖いとして、私たちの身代わりに「屠り場に引かれる小羊」  のように苦難の道を歩まれ、十字架にかかってくださったのです。その十字架の死によって、全人類に救の業が成し遂げられたのです。
  フランスのコマール市の美術館に、「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれる十字架にかけられたキリストの絵があります。(プロジェクター) これは、今から500年程前に、イエス・キリストの十字架をリアルに描いた、マチアス・グリューネヴァルトというドイツ人の画家です。  この彼の書いた絵は、当時の聖画ではこれほどキリストの死に様を痛ましくむごく描いたものはなかったと言われています。よく見てください。死体の重みで十字架は曲がっています。そして、その横木に釘付けられた両手の指がこわばっています。筋肉はよじれ土色をした全身には、いたるところに鞭打たれた傷跡から血がにじみ出ています。そして、大きな茨の冠をかぶらせられた頭は、がっくりと傾いています。そして、血の気の失せた口は、最後のうめき声をはき出したままの形で開かれています。 これこそ、イザヤ書53章7節にあるイザヤの預言の成就をリアルに描いたものです。
 そして、この絵は、どこに描かれた絵だと思いますか。教会の壁画でしょうか。美術館に飾られるために描かれたのでしょうか。そうではありませんでした。当時、最も恐れられていた、イーゼンハイムのハンセン病患者を収容する病院の聖堂のために描かれたものでした。 当時、ハンセン氏病というのは、不治の病と言われ、家族から引き離され、社会と隔離されていたのです。しかも、病気に体が犯されて時間と共に形が変わっていきます。そのような孤独と絶望にさいなまれている人々にとって、この十字架のキリストこそが、大きな慰めと力と望みの源となったのです。
 イエス様は、「屠り場に引かれる小羊」のように苦難の道を歩まれ、十字架にかかってくださったのです。すべての人を救うために、十字架という一番低いところまで、降りてくださったのです。そのイエス・キリストの十字架よって、全人類に救の業が成し遂げられたのです。ですから、誰一人この十字架によって救われない人はいないのです。
(3)イエス様こそ神の子、メシア

63~66節「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」

 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。」
  この時、大祭司は「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」と聞ました。 これは、裁判の決定的な瞬間でした。そこにいたみんなが、かたずをのんでイエス様の答えに傾けていたに違いありません。もし、ここでイエス様が「ちがう」と言えば、裁判は終わりです。何もイエス様を訴える理由がなくなってしまうからです。 イエス様は、この時にただ一言「ちがう」と言えば、その場から解放されて、のがれることができたのです。 けれども、もし、ここで、「そうだ」と言えば、十字架の死は決定的なものになってしまうのです。 その大変な質問に対して、イエス様は、はっきりと、「それは、あなたが言ったことです。」と答えたのです。  イエス様は、この時に御自分のことを、神の子であること、メシアというのは、救い主という意味ですが、御自分こそが、旧約の時代からずっと待ち望まれてきた救い主であることを、はっきりと答えられたのです。 モーセの十戒の1戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:2)とあります。ですから、大祭司達は、イエス様が、神の子であると言ったのは、神への冒涜だと言ったのです。そして、それに対して、最高法院に集まっていた一同が、死刑にすべきだと決議したのです 大祭司たちは、この告白のゆえに、イエス・キリストを十字架につけたのです。 ところが、イエス様は、64節後半で、こう言われるのです。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」この御言葉は ダニエル7:13の引用です。 この言葉は、イエス・キリストは、この世の政治的なメシアではなく、やがて神の国から、最終的に到来するときに、神の右に座り、全世界に神の力をあらわすメシアであることを述べた言葉です。  イエス様こそが、「全能の神の右に座」られ「天の雲に乗って」  再び来られる王の王主の主なのです。
 アメリカの南北戦争の時、ファリサイ派の人々や、律法学者のように、キリストを滅ぼそうしていた人がいました。それは有名な将軍で小説家でもあった、リュー・ウォレスという人です。彼は、キリスト教に反感を持って、キリスト教がが人類を鎖のようにしばって不自由にしているだと考えていました。そこで、ある日キリスト教の神話を永遠になくす本を書こうではないかと、もう一人の友人と固く約束をしたのです。 彼は、中東、ヨーロッパの各地の図書館や博物館を回りながら、多くの資料を集め、深く研究をし、イエス・キリストの物語や聖書の話が嘘であることを証明する本を書き始めました。やっと、そのほんの一章を書きましたが、第二章の1ページを書き始めたところで、否定できない事実の前で、彼はひざまづきました。そして、涙を流しながらイエス・キリストに「あなたはわたしの主、わが神です。」と叫びました。 彼は、その時から今までの自らの罪を悔い改めて、あの有名な、映画にもなり多くの人を感動させた、イエス・キリストの生涯「ベンハー」を書いて、イエス・キリストこそが救い主であることを多くの人に伝えたのです。
「大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。」
 イエス様こそが、「神の子メシア(救い主です)」 イエス・キリストというお方は、あの苦難の僕の苦難を最終的に実現された、この世の一番低いところまで降りて、全人類の救いを成し遂げてくださった「低きお方」です。 そして、十字架にかかられ、三日の後によみがえられたメシアは、神国の到来の時には、神の右の座に座したもう「高きお方」なのです。
 その聖書の奥義を深く 覚えながら、この主に感謝とおののきをもって従うお互いとさせていただきましょう。

 

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コメント: 1
  • #1

    Kendal Cuthbert (木曜日, 02 2月 2017 20:55)


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