9/30 主日礼拝

「銀貨を返そうとしたユダ」マタイ27:1~10

先週は、イエス・キリストを3度の知らないという大失敗をしてしまったペトロが、「激しく泣いて」悔い改めた姿を学びましたが、今日は、自分の力で罪を解決しようとして取り返しの付かないことになってしまったイスカリオテのユダの姿から「銀貨を消えそうとしたユダ」という題で、メッセージを取り次がせていただきます。  これは、福音書の中でも、マタイによる福音書だけに記されている記事です。

今日の中心の御言葉は、3~4a節です。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。」                                       

  この御言葉を中心に、3つのことを学びたいと思います。
(1)ユダの後悔について

 今日の聖書の箇所を読みながら、ペトロとイスカリオテのユダの姿を比べてみると、ペトロよりもイスカリオテのユダの方が、ずっと誠実な態度をとっているように思います。 それは、イスカリオテのユダの3つの姿を見るとよく分かります。

① 1~3a節をご覧ください。「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、」  と書かれています。 夜明けに、祭司長たちと民の長老たち一同は裁判を再開し、イエス様を死刑の判決を下しました。そして、総督ピラトに渡したことを知ると、イエス様を裏切ったユダは、イエス様に有罪の判決が下ったのを知り「後悔し」たことが書かれています。 ペトロは、イエス様が捕らえられ大祭司の庭に連れて行かれたのを目の辺りに見たにもかかわらず、「イエスを知らない。」と言い続けたことを考えると、ユダの方が、罪の対して敏感で、素直であることが分かります。

②3節後半に「銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、」と書かれています。  彼は、後悔した時、それをちゃんと形に表しています。彼は、心の中で後悔しただけではなく、すぐに「銀貨三十枚を祭司長や長老たちに返」しに行ったのです。 ペトロは、外に出て「激しく泣きました」が、それに比べると、ずっと真面目な姿を見ることができます。

③4節 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。」  イスカリオテのユダは、祭司長や民の長老たち一同の前で、 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言ったのです。これは、明らかに、自分が間違っていた、これからは足を洗いたいという告白です。  ペトロは、女中たちの言葉に、戦々恐々としていたことと比べれば、実に大胆で率直であったかと思わされます。
 それなのに、どうして、彼は滅んでしまったのでしょうか。それのカギが3節にあります。

 3節の前半に「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、」  と書かれています。彼は、自分が罪を犯してしまった時、「後悔」したのです。 「後悔」と「悔い改め」は違います。 「後悔」というのは、自分の罪を見つめて、後で悔いることですが、そこには、何の解決もありません。それに対して「悔い改め」は、ギリシャ語ではメタノイヤーと言う言葉が使われていますが、180度の方向転換です。神様に対して罪を告白し、罪の方向から神様の方向へと180度方向転換することなのです。イスカリオテのユダがしなければならなかったことは、自分で罪を解決することではなく、罪を赦すことのできる、唯一のお方の元に行くことでした。
 実は、私は先週、大失敗をしてしまいました。 私は、MSR+の会計をしているのですが、通帳をなくしてしまったのです。それを知った時、気持ちは重たくなり、毎日のようにそのことばかり考えていました。最初は誰にも知られたくないので、自分で何とかしようと、アパートや教会を必死になって探しました。それでも、見つからないので、MSR+に常駐している義くんに電話をしましたが、見つかりません。そこで、委員の方々に聞いてみましたが、やはり見つかりません。 そこで、最後に銀行に電話をしたのです。「すみません。通帳をなくしてしまいました。再発行をお願いします。」すると、すぐに再発行の手続きをしてくださったのです。 その手続きを終えた時、一件落着。もう、通帳を探さなくて良いんだと思うと、一瞬にして心が軽くなりました。 私が、しなければならなかったことは、勿論探すことも必要でしたが、最終的には、その通帳を作った銀行に持って行くことでした。
 そのように、私たちが失敗をした時、罪を犯してしまった時、私たちがしなければならないことは、私たちを創造され、罪を赦すことのできる神様の所にその問題を持って行くことなのです。
 ペトロは、大変な失敗をしてしまいましたが、最後に「激しく泣いた。」とあるように、それを主の前で悔い改めたのです。 ところが、ユダは、3節に「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、」  とあるように、自分が犯した罪を、自分で何とかしようとして、大きな失敗をしてしまうのです。
(2)「銀貨を返そうとしたユダ」の結末

 彼は、罪を示された時、真っ先に救い主であるイエス様のところへ行きべきでした。ところが、それを自分で何とか解決しようとして、祭司長や民の長老たちの所へ行ったのです。 彼は、イエス・キリストを救い主と信じていなかったようです。その最も良く表されている聖書の箇所が、4節です。4節の前半に 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」  とありますが、この「罪のない人」という言葉は、裁判で使われる言葉で「死刑に値するほど大きな罪を犯したことのない人」という意味があります。ユダは、イエス様に対して、一人の人間として、このことについては、罪のない人だと言ったにしか過ぎませんでした。 しかし、イエス・キリストは、一度も罪を犯したことのない聖いお方です。そして、このお方こそが私たちの救い主なのです。 しかし、イスカリオテのユダは、イエス・キリストを、救い主として受け入れることはできなかったのです。
 彼は、自分の犯した罪を「後悔」しましたが、「悔い改め」ませんでした。そのことがはっきりと現れているのが、5節です。「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」  ここでいう神殿というのは、神殿全体を現しているのではなく、神殿の一番奥にある、祭司しか入ることのできない聖所を表しています。絶望したユダは、異邦人の庭に入り、そこを通って、婦人の庭に入り、さらにイスラエルの庭に進んでいきました。 そして、そこから先は普通の人は入ることができなかったので、祭司に銀貨を受け取るように頼みましたが、彼らが、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言って受け取ろうとしませんでした。そこで、ユダは、律法で禁じられていた聖所に入っていって、銀貨を投げ込んだのです。 もし、ユダが心から神様の前に悔い改めていたとしたら、彼は律法を犯して、聖所にはいるようなことはなかったはずです。ユダは、自分で自分の罪の始末を何とかしようとしましたが、どうしようもなくなって、やけになって聖所に銀貨を投げ込んだのです。 そして、ついにどうすることもできなくなって、「首をつって死んでしまったのです。」 その事が、使徒1:18~19(P214)にこう書かれています。これは、ペトロの説教の一部ですが、主の元を離れた、ユダがどんなに悲惨な最期を遂げたかが語られています。 「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。」  罪を自分の力で解決することはできません。罪を解決する真の救い主は、イエス・キリストだけです。
  明治の有名な作家は、聖書を熱心に読み、聖書の影響を受けています。その作品の中にも聖書の影響を感じる記事が数多くあります。 しかし、残念なことに、数人の作家は自殺をしています。 例えば、「人間失格」を書いた、太宰 治や、芥川龍之介もそうでした。 芥川龍之介は、晩年、聖書に非常に関心を寄せました。そして、キリストを主題とする、「西方の人」を書き、さらに「続西方の人」を執筆しました。そして1927年7月24日の午後1時頃、最後に「我々は、エマオの旅人たちのように、我々の心を燃え上がられるクリストを求めずにいられないのであろう」という文書を書き残しました。 それから、彼は劇薬を飲み、妻と3人の子供が眠っている階下の寝室に行きましたが、薬が効いてくる瞬間まで、なお聖書を読み続けて死を迎えたと言われています。 芥川龍之介は、聖書を通して、自分のあるべき姿を示されたのです。しかし、それを行うことの出来ない自分の罪深い姿に絶望して、ついに自分で命を絶ってしまうという恐ろしい結果になってしまったのです。 彼は、「続西方の人」の中で、「私は四福音書の中で、まざまざと、わたしに呼びかけているクリストの姿を感じている。」と書いていますが、本当に残念なことに、彼はそのイエス様の呼びかけに応えずに、自ら命を絶ってしまったのです。
 どうして、彼らは自殺をしてしまったのでしょうか。それは、聖書の光によって自分の罪深さを知らされた時に、それを自分の力で解決しようとしたからです。  自分の力によっては、すなわち律法によっては、人は救われないのです。 しかし、そのようなどうしようもない罪人を救うために、神様は、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。その神の子であるイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちに福音がもたらされたのです。
 自分の力で、罪を解決しようとしたイスカリオテのユダは、結局自分に滅びを招いてしまいます。しかし、「激しく泣いて」悔い改めたペトロは、罪が赦され、聖霊に満たされて主の証人とされました。そして、使徒4:10~12(P219)で大胆にこう語っています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」  これは、ペトロ自身が経験した救いの体験です。イエス・キリストだけが、私たちの救い主です。
(3)御言葉の実現

9~10節「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」

  この括弧で書かれている聖書の箇所は、エレミヤ32:6~16(P1238)とゼカリヤ11:12,13(P1491)の引用です。ゼカリヤ11:12,13(P1491)「その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」 イスカリオテのユダが、イエス様を裏切る500年以上前に、このことが預言されていたのです。御言葉は、確かで、必ず実現するものです。
 その聖書の御言葉に、イスカリオテのユダに対する、イエス様の愛が書かれています。ヨハネ13:1「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」  この後、最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗われました。その中に、このイスカリオテのユダもいました。この聖書の箇所を読み進めていくと、この時すでにユダが、イエス様を裏切ることが解ります。13:11には、「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。」  と書かれています。  イエス様は、この時に、ユダがイエス様を裏切ることをご存じでした。にもかかわらず、イエス様は、ユダを愛され、その足を洗われたのです。
 そして、最後の晩餐の席でも、ヨハネ13:21以下で、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言われ、ユダに悔い改めの機会を与えておられます。  この時に、イエス様は、どんなにユダに罪を悔い改めて、主の元に立ち返って欲しいと思われたことでしょうか。ところが、イエス様の招きに応えずに、外に出て行ったユダを見られたのです。その姿を見てイエス様はどんなに心を痛められたことでしょう。
 1節の御言葉通り、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」のです。ここにこの上なく、とあります。これは、最高の愛をもってという意味です。最高の愛とは何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。イエス様は、十字架で命を与えて下さるほどに、最後の一息まで、弟子たちを愛し抜かれたのです。 その愛は、イエス様を銀貨三十枚で売ったイスカリオテのユダにも注がれていました。イスカリオテのユダが、首をつって死ぬ瞬間まで、イエス様の愛は注がれていました。そのように、イエス様は、私たちをも、この上ない愛で、人生の最後の一息まで、愛し抜いて下さるお方です。
  ケビン・ハインズという青年の証しです。 彼は、ある日長距離バスに乗って、アメリカのサンフランシスコにあるゴールデンゲートブリッジに到着しました。長年病気に悩まされ、自殺を決意してここまできたのです。 彼は、しばらくためらっていましたが、意を決して橋の上から飛び込みました。海面まで7秒かかりましたが、その短い間に「やっぱり生きたい。」と心から思ったのです。彼は祈りました。「神様、僕を助けてください。もし助かったら、あなたに与えられた命を大切にします。」そして、体を空中で調整して足から海に落ちました。 しかし、70メートルの高さから飛び降りた衝撃で、海面はコンクリートのようでした。体が大きな衝撃を受けて海の中に沈んでいきました。海中に沈んだ彼は、何とか海面に浮上しようとしましたが、痛めた体は動きません。そこは、人食い鮫の生息地だったのです。彼は覚悟しました。ところが、その時に近づいてきたのは、アザラシだつ他のです。そして、そのアザラシが、彼を海面に押し上げて、彼は奇跡的に助かったのです。その後、救助隊に助けられ、大けがは負ったものの、命は助かったのでした。 その後、彼はインタビューに確信を持って答えました。「僕は、神様が生きていて、愛情深い方だということが分かった。これからもつらい事があるでしょうが、決して、死を選ぶことはない。」今、彼は神様にいただいた新しい命を喜んで生きて、証しをしています。
 イスカリオテのユダを最後まで、この上ない愛をもって愛し抜かれたイエス様は、私たち一人一人をも、この上ない愛をもって愛し抜いて下さるお方です。そのイエス・キリストの御言葉を信じ、十字架を見上げましょう。 そして、罪を示されたら、イスカリオテのユダのように、自分の力で解決しようとするのではなく、ペトロのように、主のもとに行き、心から罪を悔い改めましょう。 愛する主は、私たちの罪のために十字架に架かって下さったのです。心から悔い改めるならば、主はその罪を赦し、聖霊に満たして神の器として用いて下さるのです。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase