先週は、宇山福音教会60周年記念礼拝と関西聖会のためにお祈りをありがとうございました。私は、初めて淡路島に行きました。山形から新神戸までは新幹線で行き、新神戸から「かけはし号」という高速バスに乗って淡路島に渡りました。そして、明石海峡大橋を渡る時、本当に大きな感動を覚えました。それは、瀬戸内海や淡路島の美しさもありましたが、今から60年前に、キール宣教師とクライエル宣教師、そして、田口牧師という3人の女性が、福音を伝えるために、この海峡を渡ったのです。今のように大橋があるわけではありませんし、大きなフェリーがあったわけでもなかったでしょう。カナダから来た宣教師が、本州を後にして、淡路島について時、どんなに大きな感動を覚えたことでしよう。 それから、教会が建てあげられ、60年御言葉の種が蒔かれきました。そして、今の宇山福音教会があるということを覚えた時、私も何とも言えない感動を覚えたのです。 宇山福音教会の小倉先生ご夫妻は、いつも12人くらいの礼拝を守っておられるそうですが、60周年なので、60名の方が集うようにと祈って準備をされたそうです。そして、当日、なんと62人の人が集われました。その中にははじめて教会に集われた方や、14年ぶりに教会に来られた方もおられたとお聞きし、主の御名を崇めました。 今日も、その福音を聖書から聞きたいと思います。
今日の中心の御言葉は21節です。「そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。」
今日も、使徒信条を告白しましたが、その中に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と書かれていますが、今日は、そのポンテオ・ピラトによる裁判の箇所です。
ポンテオ・ピラトは、ローマの総督で、普通カイザリヤに駐在していました。ところが、過ぎ越しの祭りの時には、各地から多くのユダヤ人が、エルサレムに集まってくるので、暴動が起こるのを警戒して、エルサレムに来ていたのです。 すると、この時に大変なことが起きました。ユダヤ人の指導者たちが、イエス様を捕らえて、裁判をしてほしいとやってきたのです。 当時、イスラエルはローマの支配下にありましたから、日常の裁判はユダヤ人に委ねられていましたが、死刑に関しては、ローマの裁判で判決が下されなければなりませんでした。そこで、ユダヤ人の指導者たちは、イエス様を連れて、ポンテオ・ピラトのもとに連れてきたのです。
その罪状書きには、3重の告訴が書かれていました。第一の告訴は、イエスが反乱の煽動者であること第二の告訴は、イエスが納税を拒否するように人々に勧めていること第三の告訴は、イエスは、自分自身が王であることを主張していること(ルカ23:2)でした。彼らは、このように3つの政治的な犯罪をあげました。どれも偽りでしたが、政治的な罪でなければピラトが、取り上げないことをユダヤ人の指導者たちは知っていたので、このような告訴をしたのてす。
ピラトは、イエス様に、11節で「お前がユダヤ人の王なのか」 と聞くとイエス様は、「それは、あなたが言っていることです」と答えました。その答えは、地上の王国の王ではなく、霊の王国の王、つまりメシアとして永遠の王座に着くことを意味していた言葉でした。 そして、それからは、イエス様は、イザヤ53:7に「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」と預言されているように、どんな質問に対しても、沈黙して答えようとはされませんでした。 この時、イエス様は全人類の罪の救いために「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」のです。
ピラトは、普通の犯罪者とは違うイエス様の毅然とした態度を「不思議に思」いました。そして、18節に「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」 とあるようにイエス様は無罪であるということを感じていました。
過ぎ越しの祭りの日には、ユダヤ人が望む囚人を一人赦してやるという習慣がありました。そこで、ピラトは、その習慣によって、イエス様を助けてやろうと考えました。ところが、ユダヤ人の指導者たちは群衆を説得して、当時有名な犯罪人であったバラバを釈放して欲しいと言わせたのです。そして、群衆はイエス様を「十字架につけろ」
と激しく叫び続けたのです。 ピラトは、群衆の声を無視すると暴動になりそうだったので、ユダヤ人の習慣に従って、手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
と言って群衆の手にイエス様を委ねてしまったのです。 ついに群衆の声が勝ったのです。そして、群衆は、「その血の責任は、我々と子孫にある。」とまで言ったのです。 このようにして、ピラトは、群衆の求めに従ってバラバを釈放して、イエス様をむち打ってから十字架につけるために引き渡したのです。
この聖書の箇所には、3種類の人々が登場しています。この三種類の人の姿を通して主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)ポンテオ・ピラトの姿
ポンテオ・ピラトは、この裁判の中でイエス様が無罪であることを知っていました。18節には「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とありますし、19節には、ピラトの妻からの伝言がピラトに伝えられたことが書かれています。「一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
けれども、ピラトは、イエス様に対して無罪判決を下すことは出来ませんでした。 ユダヤ人の意見を無視した結果、暴動が起これば自分の責任になってしまい、政治的汚点になると考えたのです。 このようにしてピラトは、自分の地位の安全を守るという打算によって、イエス様が無罪であるということを知りながら、正しい判決を下すことが出来なかったのです。
このピラトの姿は、今の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。 イエス・キリストは正しいお方、また救い主であるということを知りながらも、イエス・キリストを信じて、クリスチャンになると、自分の立身出世の妨げになるのではないかとか、自由が制約されるのではないか、周りの人から特別な目で見られるのではないかと目先のことで打算できになって、イエス・キリストを主と告白できない人がいます。 けれども、ピラトのような優柔不断な態度では、本当の問題の解決は出来ず、後悔を残すだけになってしまいます。
あるところに一匹の飼い犬がいました。この犬は、時間になるとカランカランと鐘の音がなってその家に帰って餌を食べていました。ところが、ある時、リーンリーンと鈴の音がしました。それは、別の家でしたがそこに行くと餌が用意されています。そこで、しめたと思って、そこでも餌を食べるようになったのです。そのようにして、その犬は毎日、二軒の家で餌を食べるようになりましたが、ある日この犬にとって大変なことが起こりました。何と同じ時間に、鐘と鈴の音が鳴り始めたのです。その犬は、2軒の家の間を何度も走り回り、パニック状態になりついに倒れ果ててしまったというのです。
まさに、ピラトは、そのような優柔不断な人でありました。正しいことは知っていながらも、自分の利益や地位を守るために、正しいことを正しいと言うことが出来ずに大変な失敗を犯してしまいました。
彼は、この罪を自分で解決しようとします。24節「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
ここに「群衆の前で手を洗って言った」と書かれています。これは、申命記に書かれている清めの儀式で用いられる行為ですが、そのような行いによっては人は救われないのです、 それが、どんなに大きな罪であるかは、毎週、信仰告白の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と世界中の教会が、使徒信条で告白していることからも解ります。 私たちは、主から示されたならば、たとえ損をするような道で会ったとしても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきり判断し、主に従うでありたいと思います。
(2)ユダヤ人の指導者や群衆の姿
このユダヤ人の群衆は、4日前の棕櫚の聖日には、子ロバに乗って入場したイエス様を「ホサナ、ホサナ」と言って歓迎をした人たちです。しかし、彼らはファリサイ派の人々や律法学者たちのねたみに巻き込まれ、彼らにそそのかされて、イエス様を憎むようになってしまいました。ここに、人間の罪深さがあります。 彼らは、誤った反感から、この大切な裁判に中で、イエス様を「十字架につけよ」と激しく叫びました。 彼らは、イエス様に自分たちの罪を徹底的に指摘され、悔い改めるように迫られたのです。そこで、心から悔い改めて神様に立ち返るべきでした。 ところが、彼らは悔い改めないばかりか、イエス様に対する激しい憎しみと反感を抱くようになりました。そして、ついに、イエス様を裁判にかけて「十字架につけよ」と激しく叫んだのです。
今日でも、多くの人々は、イエス・キリストの言葉を素直に受け入れようとしません。それどころか、最初から偏見や反感を持ってイエス・キリストを見て、どこまでも主に反対しようとするのです。そのような人々には、必ずその裁きを受けなければならない時がやってくるのです。
(3)釈放されたバラバの姿
20~22「しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。」 そして、26節をご覧ください。「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
バラバは、町で騒ぎを起こし、人殺しをしていましたから、バラバこそが十字架につけられなければならなかったはずです。でも、イエス様が十字架刑に定められたおかげで、バラバ釈放されたのです。この時、バラバはどんなに嬉しかったか解りません。そして、この時に、イエス・キリストこそが、救い主であることを知ったのではないでしょうか。
このバラバというのは私たちのことを表しています。勿論、私たちは死刑に合うような罪は犯していないかもしれません。しかし、ローマ6:23には「罪が支払う報酬は死です」とあります。「罪に大小はありません。」私たちが犯してきたどんな小さな罪でも、それは死に値する罪です。 しかし、そのローマ6:23にこう書かれています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」
イエス・キリストは、罪のために死に定められている私たちの罪のために十字架に架かって下さったのです。そして、この世で一番大きな罪を犯したバラバの身代わりになってくださったイエス様は、私たちの罪のためにも十字架に架かって下さったのです。そして、どんな大きな罪でも、どんな多くの罪でも全てを許すことの出来るお方です。たとえ、私たちが誰にも許されないような罪を犯したとしてもイエス様は、十字架の血潮によって全てを赦してくださるお方です。
「ミッション・バラバとその妻」(いのちのことば社 500円)という本があります。 これは、やくざをしていた人が、イエス・キリストを信じて救われて、神様の愛を伝えている人達の証し集です。その中に、井上薫さんの証しがあります。
井上さんは、北海道の札幌で生まれました。 両親の暖かい愛情で育てられ、幸せに暮らしていました。 けれども、勉強が嫌いで、悪い友達と遊ぶようになりました。そして、勉強で頭を使うよりも、万引きなんかの悪いことをするために頭を使う方が楽しくなってしまいました。途中でこんなことをしていては駄目だ、こんなことは止めようと思いましたが、「わかっちゃいるけど、やめられない」これが人間の罪深さです。気が付いたときにはすっかりぐれていました。
中学3年生の時、悪い友達とお店の物を盗んで捕まってしまったので、高校には入ることが出来ず、みんなからは「不良」だと言われて辛い毎日を過ごすようになりました。 そして、18歳で結婚しましたが、奥さんに暴力を奮ってしまって離婚をしてしまい、ますます孤独になってしまいました。
そんな時、札幌の歓楽街の飲み屋で働いていると、やくざにならないかとスカウトされてとうとうやくざになってしまったのです。 町の用心棒として働きながら、通行人にけんかを売っていつもけんかばかりしていたので、「5条通りのけんか屋」と言われるようになりました。
井上さんは、この時は外車に乗り回し、かっこいい女性をいつも連れて肩で風を切って歩いていましたが、心の深いところでは、いつも満たされない気持ちがありました。 でも、そんな気持ちを打ち明けられる友達は、何処にもいませんでした。
心の中で、「助けてくれ。」と叫ぶのですが誰も助けてはくれません。そんな、自分から何とか逃れようと思って、覚醒剤に手を出してしまいました。一回ぐらい良いだろうと思って覚醒剤を使ったのですが、それが2回3回と続いてとうとう覚醒剤の虜になってしまいました。そんな、自分が嫌で嫌でたまらなくて何とかしようと思うのですが、自分ではどうすることもできませんでした。
そんな、ある日のことです。工務店の仕事の手伝いに行きました。その家に、比呂子さんという女性がいました。クリスチャンの彼女はお祈りをしているうちに、神様から、この人に聖書をプレゼントしなさいと語りかけられているように感じて、ある日、井上さんに一冊の聖書を渡したのです。そして、井上さんのために祈り始めたのです。 その頃井上さんは、もらった聖書を「読め読め」と言われているような気がして、手にとって読み始めました。 すると、聖書の中に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」と書いてありました。この御言葉を読んだとき、こんなにたくさんの罪を犯してしまった自分、そして、自分で自分がどうすることも出来ない自分、そんなわたしの苦しみや悲しみを分かってくれて、助け慰めて下さるお方がいらっしゃる。その事を思うと涙が出て仕方がありませんでした。
それから、井上さんは聖書をむさぼるように読みました。そして、比呂子さんの勧めで、教会に行くようになり、遂に、今まで犯して来た罪を全部悔い改めて洗礼を受けたのです。そして、大変な思いをして、やくざから足を洗うことが出来たのです。まさに奇跡でした。イエス・キリストの十字架が彼を全く造り変えてくださったのです。
そして、やがて井上さんと比呂子さんは結婚をし、イエス様の愛をいろいろな場所に行って証ししておられます。井上さんは、集まった人達にこう言うそうです「みなさん、私のようなものでも立ち直ることが出来たのですから、イエス様は信じる者を必ず助けて、どんな問題でも解決して下さるんです」
イエス様は、バラバのためにも十字架に架かって下さいました。このイエス様によって救われない人は誰もいません。バラバのために十字架に架かって下さったイエス様は、全ての人のために十字架に架かって下さったのです。
今日は3種類の人の姿を見てきました。私たちは、どれに属しているでしょうか。ピラトのように打算的で、優柔不断な人物でしょうか。それとも、ユダヤ人の指導者や群衆のように、イエス様に対して徹底的に反感を持つ人でしょうか。それともバラバのように罪人でありながら、イエス・キリストの贖いによって、罪の刑罰から救われた人でしょうか。 イエス・キリストこそ、救い主です。このイエス様を受け入れて、救いの道を歩ませていただきましょう。そして、この救われた喜びを、一人でも多くの人にお伝えさせていただきましょう。 特に、今週の水曜日午後7時から、山形南部教会「ナムグン・ソンオクゴスペルコンサートが行われます。韓国で大変有名なゴスペルシンガーです。案内の葉書を用意していますので、ぜひご利用ください。このチラシには、=希望・癒し・愛をあなたに贈ります=と書かれています。そのような希望と癒しと愛が与えられるように祈りながら、家族や友人や知人をお誘いしましょう。
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