主日礼拝 10/28

「なぜわたしをお見捨てに」 マタイ27:45~56

MSR+のためにお祈りをありがとうごさいます。 先週の水曜日には、あさどり計画の建物ができあがり、地域の方々をお招きして完成祝賀会が行われました。「三宝会」という和太鼓と芋煮会が行われ、80名以上の方々が集われました。 そして、木曜日には、仮設住宅で行われましたが、100人以上の方々が集われ、良き交わりの時を持つことが出来ました。 あの震災が起きて1年と7ヶ月が過ぎましたが、あの年は、ウェスレアン・ホーリネス教団では、予定通り年会を行うことが出来ずに、3月31日に1日で年会が行われました。 その年会で、本間義信先生が「地震の後で」という題で、3つの聖書の箇所から、地震の後に起きた祝福について語ってくださったのです。 一つは、列王記上19章でエリヤが、バアルと闘って勝利を得ますが、イゼベルに負われて洞穴の中に隠れていた時、激しい風や、地震が起きました、しかし、神様はその中には神様はおられませんでした。そして、その後で神様の静かな細き御声を聞くのです。  二番目は、今年の年間聖句ですが、ペトロが、牢獄に入れられていた時、地震が起こり、獄の戸が開きます。その時、看守は責任を取るために自害しようとしますが、ペトロがそれをとどめ、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」という御言葉によって、看守の家族が救われたのです。神様は、この時も地震を用いて救いの業を成して下さいました。 そして、三番目が、今日の聖書の箇所です。51,52節 「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」  イエス様が十字架にかかられた時も、地震が起きたのです。そして、その地震の後、救いの道が開かれたのです。 神様は、全地を支配しておられるお方です。その神様は、地震をも用いて素晴らしい御業を成して下さるお方です。

今日の中心の御言葉はマタイ27:46です。

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
 今日は、マタイによる福音書27章45~56節を読んでいただきましたが、福音書全体には、イエス・キリストが十字架上で語られた言葉が7つ記されています。そして、この福音書を書いたマタイは、4番目の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言う御言葉だけを記しています。しかも、それを原語のままアラム語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と記していることをみるとこの言葉がマタイにとってどれだけ印象的だったのか、そしてどれだけ重要な意味をもつものかを知ることができます。
 もう一度45~46節を読んでみましょう。

「さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
 ここでまず45節に「さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」とあります。これは、たまたま偶然に暗くなったと言うのではなく神様がなされた業でした。 この時、神の御子であるイエス・キリストが人間によって最大の侮辱を受けて生命を失おうとしているのです。それだけでなく、神の御子が呪われた、十字架につけられて、父なる神様の怒りのさばきを受けているのです。 イエス・キリストは、9時に十字架につけられて3時まで6時間、苦しまれたわけですが、その中でもあとの、3時間の苦しみは最高潮に達したと言えます。 どうして、そのような時に、神様が造られた自然界が何の変化なしにあり続けることができるでしょうか。 イエス・キリストが十字架にかかられた12時から3時までの3時間の間、全地は暗くなり、神様と神の御子の最大の苦しみの時が続きました。そのような苦しみのなかで、主イエスはこう言われるのです。46節 「「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
 この御言葉は、詩編22編2節(P852)の引用です。 

「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」

  このことは、イエス・キリストが十字架にかかられる1000年も前に預言されていたことですが、この御言葉通りに、今まで一度も、いや一瞬たりとも交わりの絶たれなかった豊かな麗しい交わりが、十字架上で絶たれてしまったのです。これは、十字架上での肉体の苦しみよりもはるかに辛い、苦しいものでした。

 この御言葉をわたしが最初に読んだとき、イエス様でも十字架の苦しみを受けられたとき、耐えられなくなって神様に叫び声をあげられたのだと思いました。 多くの人がわたしのようにこの御言葉を読んで、十字架の苦しみに耐えられなくなったイエス・キリスト御自身の叫びのように感じる人が多いようです。けれども、そうではないことを後で知りました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というこの言葉は、実は、神様の御前に罪を犯してしまったわたしたちの叫ばなければならない叫びです。全ての人は罪を犯したため神の栄光を受けられないのです。それどころか罪のために、わたしたちは神様に見捨てられて、永遠の滅びが待っているのです。 ですから、やがて、私たちが神様の御前に立ち裁きを受ける時、私たちは永遠の滅びが宣告されて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなければならなかったのです。。 けれども、そんな神様に見捨てられても当然のような私達を、神様は愛してくださり、わたしたちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。

 そして、ちょうど罪を犯した子供が、父親から叱られ罰を受けようとしているときに、母親が間に入って「私が悪いのです。わたしを赦してください」と必死になってとりなすように、イエス様は、全ての罪をそのみに負ってくださってわたしたちのかわりに「わが神、「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったのです。

 イエス・キリストは私達の身代わりに十字架にかかってくださったのです。ここにイエス・キリストの愛があります。 そして、このイエス・キリストのあがないによって、すばらしい御業がなされたのです。それは、主イエスが息を引き取られた後で起こった出来事に見ることができます。 50~51節をご覧ください。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」 ここに、3つのしるしを見ることができますが、この一つ一つの印を通して私達に与えられた恵みを見ることができます。


(1)神と人とのへだてが取り除かれた 

51節に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、」とあります。 イエス・キリストが十字架上で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。 この神殿の幕というのは、神殿の中の聖所と至聖所をへだてる幕のことです。そして、その聖所というのは祭司だけしか入ることができません。そして、至聖所というのは、大祭司が全国民のあがないのために年にたった一度だけしか入ることができない場所でした。 ですから、その垂れ幕は、イスラエルの民が、そのままでは聖なる神に近づけないことと、大祭司の贖罪が必要なことを象徴的に表していました。 しかし、感謝なことに、イエス・キリストが十字架上であがないの死を遂げられたとき、その隔ての垂れ幕は裂け、神と人とをさえぎる隔てはなくなったのです。 イエス・キリストは自らがあがないの供え物となって下さったおかげで、わたしたちが、真心から神様に近づけるようにして下さったのです 

 ヘブライ人への手紙10章19~22節(P413)「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」

  ここに「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります イエス・キリストのあがないによって開かれた主の恵みの御座に感謝を持って近づいていきましょう。
(2)人と人との間に平和が与えられた

 2番目の印は「地震が起こり、岩が裂け」たということです。 エルサレムの町は岩盤層に建てられた町でしたでしたが、その土台が裂けたということは、選民イスラエルが滅びることを意味しています。 そして、イエス・キリストによる福音が、選民イスラエルだけではなく異邦人にも、全ての国民に与えられるようになったのです。
 エフェソの信徒への手紙2章16~20a「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」 

 19節に「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」とあります。 ここにあるように、イエス・キリストによってイスラエル人だけてはなく全ての人に救いの道が開かれたのです。 それは、十字架を見るとよく分かります。十字架は、縦の棒と横の棒で出来ていますが、イエス・キリストの十字架によって、神様と私たちとの壁が取り除かれ、私たちは神様と交わることが出来るようになりました。それだけでなく、横の棒があるように、人と人との壁も取り除かれるのです。
 18世紀のイギリスに、下院議員ウィリアム・ウィルバーフォースという政治家がいました。当時の彼の日記にこう書いているそうです。「全能の神様は私の生涯で成し遂げる2つの使命を下さった。一つは奴隷制度を廃止することであり、もう一つは、イギリスの悪習を改革することである。」 当時のイギリスはアフリカ人をアメリカの奴隷として連れてくることで国家の3分の1を得ていました。ウィルバーフォースは「イギリスが本当に偉大な国になりたければ、神様の法を守らなければならない。奴隷制度は神様の御心を悲しませることである。」と批判しました。 彼は、150回も国会で論争をし、嘆願書提出運動を通して、奴隷制度廃止運動を進めました。彼は、そのために多くの中傷や非難を受け、二度も暗殺されそうになりましたが、彼を支持する多くのクリスチャンの助けによって、なおその働きを続けました。 そして、ついに、1807年2月23日、イギリスの下院議会で「奴隷貿易廃止法」が可決されたのです。しかし、彼は、これに満足せず、イギリスの悪習慣を打開するために力を注ぎました。そのために彼は「イギリスの良心」と呼ばれるようになったのです。 彼が神様から使命を受けて46年目の1833年7月27日、イギリス議会で、奴隷制度自体を廃止する「奴隷制度廃止法」が可決されました。これによって、80万人に及ぶイギリスの奴隷が自由を得たのです。その時の奴隷たちの喜びはどんなに大きなものだったことでしょう。
 イエス様は、私達の罪のために十字架にかかってくださいました。そのイエス・キリストの十字架によって、神様と人との壁が、そして人と人との壁は取り除かれるのです。
(3)永遠の命の道が開かれた

 3番目のしるしは52節「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と書かれています。 ここに「墓が開いて」とありますが、墓というものは、死人を葬る場所です。そして、イスラエルではその死人を永久に閉じ込められるかのように墓の入口に大きな石が置かれました。  そして、その墓石は、誰も死に打ち勝つことができないことをあらわしているかのようでした。 しかし、その墓石が、イエス・キリストの十字架の死によって取り除かれ、「眠っていた聖なる民に属する者」たちに新しい命が与えられたのです。 このことは、イエス、キリストがあがないの業を成し遂げて下さり、わたしたちに永遠の命を与えて下さることをあらわしています。 ですから私達は、一度は死の門をくぐりますが、イエス・キリストと共に勝利者としてよみがえる事ができるのです。
 第2次世界大戦の時、アウシュビッツでは、多くのユダヤ人たちが次々にガス室に送られ、殺されました。 ある日の朝、ガヨニー・チェックというユダヤ人が呼ばれると、彼はドイツ軍の足にしがみついて「わたしには、若い妻と生まれたばかりの赤ん坊がいるので死ぬわけにはいきません。」と懇願したのです。 その時です。ある神父が進み出ました。彼は、ローマ教皇所属の神父でした。彼は、「わたしがが連れて行かれる日は、いつかは分かりませんが、この青年と順番を変えてください」と申し出たのです。ドイツ兵はその神父の願いを受け入れて、その日、神父はガス室に送られ、帰らぬ人となりました。 ガヨニー・チェックは、解放の日まで行きました。ローマ教皇庁は、1972年10月に彼を招いて短い証しを聞きました。その時、彼はこのように証しをしました。「あの忘れられない朝、神父がわたしに笑顔を見せながら引かれていったとき、わたしはなぜ多くの人がイエス・キリストを信じるのかが分かりました。その時、わたしはゴルゴダの丘に立っているようでした。」 私たちは、イエス・キリストの身代わりによって、神と一つにされました。神様と私たちとの間に立ちはだかっていた壁が崩れました。 このようなことは、人間には出来ないことです。ただ、イエス・キリストの十字架の血潮によってのみ可能なことなのです。イエス・キリストは、罪人である私たちのために十字架で死なれることによって、私たちのすべての罪を赦し、救ってくださいました。このようにして、私たちにイエス・キリストによる永遠の命が、一方的な賜物として与えられたのです。
 イエス・キリストが息を引き取られたときに起こった3つの出来事を通して神様が私達に与えられた恵みを見てきました。 まず、イエス・キリストはあがないの供え物となってくださり、神殿の幕は真っ二つに避け、「真心から、神に近づく」ことができるようにして下さいました。 次に、ユダヤ人と異邦人の隔ての中垣を取り除いて下さり、全ての人が主の恵みに与ることができるようにして下さったのです。 そして、3番目イエス・キリストは、私達イエス・キリストを信じるものにによみがえりの命を約束して下さったのです。
 イエス・キリストの十字架の死によって起きた3つのしるしを見てきましたが、このイエス・キリストの十字架での姿と、しるしを見た「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」は「本当に、この人は神の子だった」と信じました。

 そのことが、54節に書かれています。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」 この「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」に与えられた恵みは私達にも与えられている恵みです。 わたしたちも「本当に、この人は神の子だ」と告白しましょう。そして、わたしたちのために「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んで、あがないの業を成し遂げて下さった主イエスを心から賛美しましょう。

 

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毎週日曜日 16:30〜

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毎週土曜日   8:45〜

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毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Illustration by c-awase