主日礼拝 1/20

「栄光への希望」Ⅱコリント3:4~18

今日は、礼拝後、もちつき大会が行われます。そのもちを食べながら楽しく、今年の抱負などを語りあいたいと思っています。 みなさんは、今年どのような希望をもっておられるでしょうか。 そして、その希望をあきらめないで、持ち続けることは大切な事です。希望は、あきらめとしまったらそれで終わりです。けれども、あきらめなければ、それに向かって突き進む力になります。
 石油を採掘するためには、地中深く穴を掘らなければなりません。これをボーリングと言います。しかし、掘っている地下に、本当に油田があるかどうかは、わからないのです。ある青年が、石油王を夢見て、有望な鉱区でボーリングを試みました。ところがどこまで掘っても油田にたどり着きません。ついに彼はあきらめて、転職してしまいました。ところが、後から来た別の人が、同じ場所でボーリングをし、膨大な油田に到達したのです。これを知った青年は、「一度志したビジョンは、実現するまで絶対にあきらめずに努力するぞ」と固く決意しました。彼はその後、政治家を志し、ついに第33代アメリカ大統領となりました。その名はハリー・トルーマンです。

今日の中心の御言葉は18節です。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
 そして、12節をご覧ください。

12節に「このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、」ここに「このような希望を抱いているので、」と書かれています。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく、これこそが私たちに与えられた栄光への希望です。
(1)栄光は神から与えられた希望

  まず、2~3節をご覧ください。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」

    パウロは、イエス・キリストによって救われた人々こそが、「キリストの推薦状」であり、「あなたがたは・・・心の板に、書きつけられた手紙です。」と言っています。 ところが、パウロはそのことについて、もう一度大切なことを確認しています。 それは、パウロに与えられた使徒としての資格は、自分の力や努力によるのではなく、神様から与えられたものなのだということです。

4~5節「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

 パウロに与えられた使徒としての資格は、自分の力や努力によるのではなく、神様から与えられたものなのだということです。
 パウロは、コリントの教会の人々が救われ、今やキリストの手紙として用いられているのは、自分の力によるものではなく、ただ、神様の御業である「神の栄光あれ!」と神様に栄光を帰しているのです。 パウロは、どんな仕事をするのにも、自分がするのではなく、神様がその力を与えてくださるということを信じていました。だから、パウロは自分の力の弱さや不十分さを感じても、主が共にいて働いてくださると言うことを信じて主に用いられていったのです。

  去年、実話を元にした「ソウル・サーファー」という映画が上映されました。 ハワイのクリスチャンホームに生まれた、ベサニー・ハミルトンは、幼い頃からサーフィンを始めました。13歳にしてスポンサーがつき、プロを目指す天才少女として注目されていました。 そんなある日、彼女は4mもあるサメに襲われて、胎内の60%の血液を失ってしまいました。奇跡的に一命を取り留めたものの、彼女は左腕を失ってしまったのです。 事故の日、友人が聖書の御言葉を書いて彼女に送りました。

それは、エレミヤ29:11です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 

神様は、御言葉通りに、彼女に将来と希望を与えられました。彼女はもう一度、サーフィンに対する情熱が与えられました。そして、わずか一ヶ月で海に戻り、夢であったプロへの道を歩み始めました。事故から1年と少しでサーフィンの大会で優勝し、その2年後にはプロサーファーとなったのです。 ベサニーは、自分がどれだけ神様から愛されているのかを世界中で証しています。 日本でも東日本大震災の被災地に行き、多くの人々に、慰めと励ましを与えたそうです。 ベサニーの言葉です。「誰かに希望を見いだすことが出来る手助けが出来るなら、私が腕を失ったことは価値があったと思います。」
6節「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」
  私たちも、自分の力では、神様の御業を行うことは出来ませんが、主がその力を与えてくださって成し遂げてくださるのです。神様こそが、私たちに将来と希望を与えて下さり、その平和の計画を成し遂げて下さるお方です。
(2)希望を覆い隠すもの

6節以下には、古い契約と新しい契約についてのことが書かれています。 契約という言葉を辞書で引いてみると「私法上の効果を目的として、ふたり以上の意志の一致によって成立する法律行為のことである」と書かれていました。 要するに、契約するときに、二人の意志の一致によって成立するものであるというのです。 ところが、聖書のいう契約というのは、この世の契約とは少し違います。 というのは、普通の場合契約というのは、両方の当事者が平等の立場で合意に達するのに対して、聖書のいう契約というのは、神様が主権をにぎっておられ、人間に対して提案をしているのであって、人間はそれを受け入れるか、拒否するかが問われているのです。 その神様が与えてくださった契約について、二つのことが書かれています。一つは古い契約で、それは律法です。続いてもう一つは新しい契約で、福音です。 そして、この律法は、私たちを覆い隠すものです。

7節「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。」
  これは、出エジプト記34:33~35に書かれている出来事ですが、モーセが十戒を神様から与えられて、シナイ山から降りてきた時、モーセは神様と語り合っていた時には、顔おおいをはずしていましたが、イスラエルの人と話す時には顔おおいを掛けていました。 なぜ、モーセは、シナイ山を降りてくる時に、顔おおいを掛けて降りてきたのでしょうか。その答えが、7節に書かれています。「モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために」とあります。 モーセの顔の輝きは、永遠に続くものではありませんでした。つかのまの光だったので、モーセは顔おおいを掛けてイスラエルの人々の前に降りてきたのです。 そのように、モーセの十戒にあらわされている律法は、永遠に続くものではなくつかの間のものでした。イスラエルの民は、律法によって救われると信じてそれを事細かに守ろうとしましたが、それを守ることが出来ませんでした。そこで、彼らは救い主を待ち望んだのです。 私たちも、律法を自分の力で行うことは出来ません。もし、自分の力でそれを行おうとしているなら、それは、神様の栄光を覆い隠してしまうのです。
  韓国のあるクリスチャン作家が、ある時、こんな質問を受けたそうです。「あなたが一番罪深かった時はいつでしたか?」彼女はこう答えました。「それは、わたしが一番きよくて、献身的で、忍耐し、苦労していた時ですよ。」 それを聞いた人は、その言葉の意味が良く分かりませんでした。不思議な顔をしている相手に対して、チャさんは、さらにこう続けました。「その理由は、自分で自分のことが正しいと思っていたからです。そして、他人は自分とくらべて正しくないとさばいていたからです。」
 ユダヤ人は、旧約聖書を尊重し、よく読むことについては世界一の民族です。 しかし、パウロは、モーセの書が朗読されるところでは、いつでも、彼らの心にはおおいがかかっているというのです。 ユダヤ教が救いの宗教とならず、福音とならなかったのは、自分たちの正しさを主張して、罪を認めず、救い主であるイエス・キリストを受け入れずに、拒否ししてしまったからです。
  それを現在の私たちに当てはめるなら、聖書の教えを自分の力で守ろうとすることです。信仰を自分の力や努力によって守ろうとするなら、それほど辛いことはありません。私たちには、それを守る力がありません。わたしたちは、自分の力で救われることはないのです。そこには希望がないのです。 しかし、神様は、私たちが聖書の教えを守ることが出来ない罪深い、くらい存在であることを知っておられるのです。そして、そのままの私たちを救ってくださるために、ひとり子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さり、私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨てて下さったのです。 そのイエス様を信じるだけで、わたしたちと神様との間にある顔おおいが取り除かれ、クリスチャンとして輝くことが出来るのです。

14~16節「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」
  16節には「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」とありますが、ちょうど、あの放蕩息子が、本当に落ちぶれてしまってどうすることも出来なくなった時に、本心ら立ち返って、お父さんの所に帰ったように、ありのままで、主の方に向き直って神様のもとに立ち返ればいいのです。
 キリストの方を向き直し、キリストによって顔おおいを取り除いていただきましょう。そこに、主の希望があり、輝きがあるのです。
(3)栄光から栄光への希望

18節「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」 

  ここに「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」  とありますが、ここで注意しておきたいことが一つあります。それは、「主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言っても、クリスチャンが神になるということではないということです。人間は被造物、造られたものであり、神様こそが創造者です。両者には決して越えられない一線があります。 ですから、「主と同じ姿に造りかえられ」るといっても決して人間が神になるわけではないのです。 しかし、私たちがイエス・キリストを信じた時、私たちの心の中に聖霊をお迎えしました。そして、その聖霊に満たされる時、私たちは、「栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられてい」くのです。
 元旦礼拝で、苦難について、純金が造り上げられていくために、金山から掘り出されてきた金鉱が、炉の中で高熱で溶かされなければならないことをお話ししました。そして、それが純金になるためには鋳物職人の顔が映し出されるまで、火を通されるという話しをしました。そのように神様は、時には私たちを苦難という炉を通して、不純物が取り除いて、キリストの顔を映し出す者へと造り変えて下さるのです。
ロン・ディール牧師の証しを読みました。ロー・ディール牧師には、12歳になる息子が白血病と診断されました。白血病を患っても回復した人たちはたくさんいるので、いつか元気になると信じていました。しかし、治療をしても症状は良くなりませんでした。そして、とうとう12歳で息子は亡くなってしまったのです。 今まで、ディール牧師は、多くの人のカウンセリングをし、悲しみの中にいる人たちを励ましてきましたが、愛する息子を失ってはじめて、本当の悲しみを知ったのです。 そのような悲しみの中で、今まで神様を信頼し、神のしもべとして歩んできたにもかかわらず、なぜ、こんな苦しみが襲ってきたのか、なかなか受け入れることが出来ませんでした。 ある日、自分のように苦しみを経験したヨブ記を読んでみようと、読み始めました。その時に一つの御言葉が心に響いてきました。

ヨブ記42:5「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」 

  このヨブの言葉を読んで、ヨブは、多くの苦難を経験した後で何を「見た」のかを知りたいと心から知りたいと思いました。 そして、悲しみと絶望の中で、神様の絶対的な正しさを認めて、神様を心から信頼することを選択しました。苦しみと悲しみはなかなか消えませんでしたが、その中で、神様を信頼して聖書を読むと、どんなときにも変わらない神様の愛と恵みがあることを知ったのです。 そして、神様を信頼すると決めた時、ヨブが苦しみや悲しみを通して「この目であなたを仰ぎ見ます。」と告白したように、ディール牧師も真実な神様を「その目で仰ぎ見た」のでした。
 ディール牧師は、愛する息子の死という経験を通して、神様の愛と恵みを知り、それまでは、神様のことを、耳でしか聞いていなかった彼が、「この目であなたを仰ぎ見ます。」と告白する者へと造り変えられたのです。
18節「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
 私たちを救ってくださった神様は、私たちが、神様だけを信頼する者と変えてくださり、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えて下さるお方です。これは自分の頑張りによるのではなく霊なる神の御業です。主の霊が、私の身に神の約束を実現してくださるのです。 そのお方に希望を抱きながら、主と共に歩ませていただきましょう。

 


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Illustration by c-awase