主日礼拝 1/27

「揺るがぬ希望」ヘブライ10:19~25

今日は、一月最後の礼拝になりました。今年は、年間聖句でローマ12:12が与えられ、今年は希望の年ですと希望をもって一年をはじめました。そして、今日は、「希望」というテーマでの最後の説教になりますが「揺るがぬ希望」という題でメッセージを取り次がせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は23節です。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」

今日読んでいただいたヘブライ人への手紙は、キリスト教に回心したユダヤ人に対して書かれた書簡です。彼らは、ユダヤ人から迫害を受け、ユダヤ教に戻るように勧められました。そのような中で、律法によるのではなく、イエス・キリストだけが救いであり、真の希望であることがこの書簡に書かれています。
  23節の後半に、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」  とありますが、「揺るがぬ希望」と題して、御言葉を取り次ぎたいと思います。
7:1~10:18には、キリストの贖罪の必要性と、その完全性とが丁寧に書かれています。そして、今朝読んでいただいた10:19以下には、その贖罪によって生かされている、クリスチャンの実践的な教えが記されています。
「揺るがぬ希望」とは、何でしょうか。それは、イエス・キリストに他なりません。
(1)イエス・キリストこそが、揺るがぬ希望

 19~20節をご覧ください。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」  20節に「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」と書かれています。

 聖所と至聖所の間には、垂れ幕が下がっていました。この垂れ幕は、神様と人とを隔てるものでした。そこで、人が神の前に出るために、垂れ幕が引き裂かれなければなりませんでした。 この垂れ幕が裂かれたのは、イエス・キリストが十字架で肉が裂かれた時でした。あの時、全地が真っ暗になり、神殿の幕が引き裂かれたのです。あの時に、神様と私たちとの隔ての幕は取り除かれたのです。そして神様が、「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」そして、イエス・キリストの肉体が十字架上で裂かれた時に、神様の愛の偉大さが明らかにされたのです。 イエス・キリストは、あの十字架で、完全な犠牲をささげることによって、神様の愛を示してくださり、私たちが神様のみもとへ近づく道を開かれたのです。
 また、イエス・キリストは偉大な大祭司です。21~22節「更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」  このヘブライ人への手紙には、繰り返しイエス・キリストが大祭司として表されています。 大祭司の役目は、神様と人との橋渡しをすることです。旧約の時代、大祭司はイスラエルの民のためにとりなしの祈りをささげました。そして、イスラエルの民の罪のために、傷のない子羊が、全焼のいけにえとしてささげられたのです。 しかし、もうその必要はありません。なぜなら、神の子であられるイエス・キリストが、あの十字架で私たちの罪のために命を捨てて犠牲を払ってくださったからです。
 そのイエス・キリストによって私達のすべての罪が完全に清められるのです。 祭司が儀式によってささげるものは、動物の血をふりかけることによって清められなければなりませんでした。そして、祭司は、繰り返し水で体を洗い、清められた水の入った水盤の中で清められなければなりませんでした。  しかし、その清めの儀式が、単なる儀式ではなく、完成される時が来たのです。それが、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストだけが、私たちの罪を赦し、心と体とを完全に清める事ができるお方です。 イエス様が与えてくださる清めは、外面的な清めではありません。イエス様は聖霊によって、人間の心の奥底にある思いと願いとを清めてくださるのです。
 アメリカの第34代大統領はドワイト・D・アイゼンハワーです。彼は、ドイツから移住してきたメノナイト信徒の家庭に生まれました。父は信仰深い人で、彼も大統領として忙しい生活を送る中でも、礼拝を守る誠実なクリスチャンでした。 ところがアイゼンハワーはなくなる前に、心の中に死ぬ事への不安が襲ってきて、眠れない夜が続いたのです。彼のためにビリー・グラハムが、彼を訪問した時に、こう尋ねたそうです。「先生、わたしはどうすれば神様に会えるのか確信がありません。助けてください。これが私の最後の願いです。」 彼の話しを聞いたビリー・グラハムは聖書を開き、こう答えました。「救いは、何か偉大なことをしたり、善をたくさん行ったから与えられるものではありません。私たちの努力では罪を解決できないので、神様がひとり子イエスを送って下さったのです。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として受け入れることによって、あなたは神の子として生まれ変わることができるのです。」 アイゼンハワーは、この時に、幼子のようにイエス・キリストを救い主として受け入れる祈りをささげました。その祈りが終わると、不思議なように、死への不安は取り除かれ、永遠の命の揺るがない希望が与えられたのです。そして、彼はこう言いました「先生、ありがとうございます。私はもう準備ができました。」このようにして、彼は揺るがない平安と希望をいただいて、天国に召されていったのです。
 私たちが、救われるのは、地位や名誉や、良い行いによるのではありません。 神様と私たちとの間をとりなして下さる大祭司であられ、私たちの罪の贖いのために十字架で命を捨ててくださった、イエス様だけが、私たちを救い、永遠の命を与えて下さるのです。そのイエス・キリストにこそ、「揺るがない希望」があるのです。
(2)揺るがぬ希望に生きるために私達が成すべき事

  イエス・キリストこそが、わたしたちの希望であることをお話ししてきましたが、その希望が揺るがないようにするために、私たちに対して3つのことを行うことが勧められています。
①神に近づくこと

22節「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」  これは、決して神様との交わりを怠らないようにという勧めです。 私たちは、二つの世界に生きています。一つは空間と時間の世界。もう一つは霊と永遠の世界です。そして、ともすると、この地上のことに奪われて、もう一つの世界を忘れてしまう危険性がいつもあります。 その危険性から守られるように、今年の年間聖句(ローマ12:12)に「たゆまず祈りなさい。」とあるように、いつも「真心から神に近づこうではありませんか。」と勧めているのです。 朝一日の仕事を始める前に、夕方一日の仕事が終わった時、また仕事に携わっている時も、一分でも二分でも神様に心を向け、近づく必要があります。もう、すでにイエス・キリストの十字架によって、神様と私たちとの垂れ幕は取り除かれたのです。そして、神様と私たちには、生きた希望の道が開かれているのです。 それにもかかわらず、多くの人たちが、神様の元に近づくことを忘れてしまっているのです。
マッシュー・アーノイドがこのような詩を書いています。
日ごとに運ばれる塵は些細なものでありながらすぐに魂に積もっていく。無理に忘れようとするのでなく仕事に追われている間に。                       この詩は、私たちの生活を良く表しているのではないでしょうか。この世の生活に忙しくしている間に、神様との交わりを忘れてしまい、気付かないうちに、私たちの魂に塵が積もっているというのです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」  今年の年間聖句ローマ12:12にも「たゆまず祈りなさい。」とありますが、いつも神様を信頼しきって、たゆまず神様に近きながら、揺るがない希望を保ち続けさせていただきましょう。
②信仰をしっかりと持ち続けること

23節「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」        

  「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」とありますが、この希望とは、イエス・キリスト御自身です。そして、その揺るがない希望を保つためには、イエス・キリストを信じる信仰をしっかりと持ち続けることです。 この世では、私たちの信仰を奪い取ろうと、様々な攻撃や誘惑があります。 周りの人々のキリスト教にやクリスチャンに対する批判の言葉が、私たちから信仰を奪い去ろうとすることがあるかも知れません。 また、物質主義の世の中で、この世の物や、快楽の誘惑に合うようなことがあるかも知れません。 そして、人生の悲しみや苦しみ、悩みや試練、病気や愛する者との別れなど、様々な出来事が、信仰を揺さぶるようなことがあるかも知れません。 しかし、「約束して下さったのは真実な方です。」そのような中で、イエス・キリストだけが、変わらない愛をもって愛して下さるお方。そして、イエス・キリストだけが私たちの最善をご存じで、最善に導いて下さるお方です。そのお方を信じる信仰をしっかり保つならば、私たちは揺るがぬ希望を持ち続けることができるのです。23節「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」    この世のどのような力も、私たちから希望を奪うことはできません。イエス・キリストを信じる信仰こそが、私たちの揺るがない希望です。この恵みの中を歩ませていただましょう。
③互いに愛し合い、励まし合うこと

24~25a「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」 

 ジョン・ウェスレーは、「聖書は孤独の宗教などというものを全く知らない。」と言っています。この言葉のように、私たちがクリスチャンであるということは、自分のためばかりでなく、他の人のためでもあることを忘れていけません。24節で「互いに愛し合と善行に励むように心がけ」ることが勧められています。 人は、愛されるだけではなく、愛することによって生かされていくのです。悪をもって悪に報いるのがこの世のやり方です。しかし、私たちは善をもって悪に報いることができるのです。なぜなら、イエス様がそうしてくださったからです。 その「愛と善行に励む」具体的な例として、「集会を怠ったりしない」ことがあげられています。イエス・キリストの名によって行われる集会は、エクレシアと呼ばれ、それは教会を表す言葉です。 この当時、ヘブライ人の中には、集会を守る習慣をやめてしまった人たちがいました。現在のクリスチャンの中にも、イエス・キリストの名によって集まる礼拝をやめてしまっている人たちがいます。 ある人たちは、人目を気にして来れなくなってしまったり、目先の誘惑に負けてしまったり、自己過信の虜になってしまい、「神様なんかいなくても生きていける。」と教会を離れてしまう人がいます。 しかし、それは、自分から神様から与えられた尊い恵みから離れてしまっているのです。 ある人は、教会の人間関係の煩わしさから、教会を離れてしまう人がいます。しかし、それは大きな間違いです。神様は、教会に気の合う人だけでなく、そうでない人も招かれました。それは、「みんな違ってみんないい」からです。神様から造られた一人一人が、かけがえのない大切な存在だからです。 そして、神様は人間関係の煩わしさを通して、隣人を愛すること、敵をも愛する愛を与えて下さるのです。人間は、神様と交わりをし、互いに愛し合い、励まし合ってこそ、揺るがない希望に生きることができるのです。              神様に近づき、信仰をしっかりと持ち続け、互いに愛し合い励まし合って、「揺るがぬ希望」をしっかり保ち続けさせていただきましょう。
(3)再臨の揺るがぬ希望

25節「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」

 ヘブライ人への手紙は、相次ぐ試練に直面していた一世紀のユダヤ人からキリスト教に回心したクリスチャンに送られた勧めの言葉です。 今でも、ユダヤ人がキリスト教に回心した人たちを、メシアニッグジューと言って、大変な迫害を受けていると聞きました。  彼らは、そのような大きな迫害の中にありましたが、彼らには決して揺るがない希望がありました。それは、イエス・キリストの再臨です。 弟子たちは、イエス・キリストが天に帰られた時に、天使の声を聞きました。使徒1:10~11「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」  イエス・キリストは再びこの地上に来られる、その再臨の時は、完全な救いの時です。悪は裁かれ、イエス・キリストを信じる者たちは、神様の元へと帰ることができるのです。 その再臨の時こそが、キリスト者にとって、揺るがない希望です。この手紙を書いたパウロも、またそれを受け取ったヘブライ人たちも、その再臨の主を待ち望んで、苦難に耐え忍び、揺るがない希望に生き続けたのです。私たちもゴールをしっかりと見つめて、恵みの高き峰を目指して、信仰の歩みをさせていただきましょう。  最後にアメリカのダット・ボストンという青年の証しを紹介したいと思います。 彼は、水上スキー選手を夢見ていました。ところが、20歳の時に船のギヤ・プロペラに足が巻き込まれて両足を失い、両足とも義足になってしまいました。しかし、彼はそのような苦しみの中でも、毎日聖書を読んでこう祈りました。「神様、わたしの持っている可能性、そして私が到達すべき人生の姿は何ですか?」 彼は、祈りの中で心理学を学ぶ事へと導かれ、大学で心理学を学んだ後、病院の医学センターの相談員として就職しました。そこで、自分と同じように、手や足を失った人たちに勇気と希望を与えたのです。 ある日のことです。彼が祈っていると、神様は夢の中で「アメリカの各州にある一番高い山に登りなさい。」と語られました。それは一回ではありませんでした。何度も繰り返し同じ夢を見たのです。彼は、神様にこう祈りました。「神様、面白いですね。神様は本当に義足の私に、アメリカの50州にある一番高い山に願っておられるのですね。分かりました。やってみます。私のチャレンジが、私のよう障害をもっている方々の希望となりますように。」  彼はこうして「サーキット・アメリカ」というプロジェクトに挑戦することになったのです。 1994年1月アラスカにあるマッキンレー山から始まった彼の挑戦は、危険なことも何度もありましたが、8月7日、66日間でとうとう50番目の山、ハワイのマウナ・ケア山頂に立つことができたのです。 その山頂で、彼らは「恵みの高き峰」を賛美しました。その賛美としている姿が、アメリカ全土に報道されたのです。そこで彼は、こう祈りました。「全能なる神様、私の可能性を開いてくださったあなたを賛美します。この地のすべての人が、人生の可能性をあきらめることなく、高い希望に向かって登っていくことができますように助けてください。」
23節を最後に読みましょう「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」

 私たちのゴールは天国です。永遠の命は真実な神様によって約束されています。私たちは人生という旅路の道途中にありますが、イエス・キリストを救い主とはっきり告白し、揺るがない希望を持ち続けて、ゴールを目指して高嶺を目指して歩ませていただきましょう。

 

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毎週土曜日   8:45〜

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毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日  10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日  19:30〜

 

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Illustration by c-awase