主日礼拝 2/10

「キリスト・イエスの僕」ローマ1:1~7

今年与えられた御言葉は、ローマ12:12です。そこで今年はローマの信徒への手紙から主の御声を聞かせていただきたいと思います。
 このローマへの信徒への手紙について、ルターは、こう言っています。「この書は新約聖書の中で主要な作で、また最も純粋な福音である。これは、ただクリスチャンが一言一言暗記するだけでなく、その霊魂に必要な糧として、日々の静思の糧とする価値がある。そのため一層多くの時間を用いれば、一層多く貴重で、優秀な書であることを見いだすであろう。」そう言って、このロマ書を何度も読んで、深く理解することを勧めています。 またカルヴァンは「だれでも、真にロマ書を理解した人には、聖書の秘宝を探る門戸が開かれる。」と言っています。このように、このローマの信徒への手紙は、聖書66巻の中でも、特別に大切な書簡だと多くの人たちが言っています。
 このローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会の信徒に向けて書かれた手紙です。紀元57年の過越祭の前に、送られた手紙で、16:1にフィベという姉妹がコリントからこの手紙をローマの教会に届けたことが書かれています。 パウロは、この時まだ一度もローマに行った事はありませんでしたが、ローマは、ローマ帝国の中心地でもありました。ですから、パウロはぜひこのローマに行って福音を伝えたいと願っていました。 ところが、そのローマの教会のクリスチャンの間に、ユダヤ人と異邦人の関係を巡って、救いに関する誤解が生じ、議論が起こっていました。そのことを聞いたパウロは、心を痛め、彼らに福音の真理を伝えるためにこの手紙を書いたのです。 それを一言で言うと、イエス・キリストを信じる信仰です。救いは、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられるということです。

今日の中心の御言葉は、1節です。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――」

 今日読んでいただいた1:1~7は、パウロのローマの信徒へのあいさつの部分です。しかし、この最初のあいさつの中から、大変深い意味が表されているのです。3つに分けて、御言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)キリスト・イエスの僕

1節をご覧ください。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――」 

 パウロは、ここで、自分のことを「キリスト・イエスの僕」と書いています。この「僕」という言葉は、「奴隷」を意味する言葉です。パウロはこの後で「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」  と言っていますが、その前にまず「キリスト・イエスの僕」と自己紹介をしているのです。 パウロは、ローマの市民権を持っていました。そして、皇帝カイザルに上訴したくらい、個人の自由を重んじる人でした。 しかし、キリスト・イエスに対しては、自ら「しもべ」「奴隷」と言っているのです。 「しもべ」「奴隷」とはどのように人でしょうか。 奴隷というのは、賃金で働く雇い人とは異なる立場にありました。雇い人には、働いたり、やめたりする自由がありましたが、奴隷にはその自由がありません。死ぬまで、主人の所有物なのです。 けれども、たった一つだけ、自由になる方法がありました。それは、誰かが彼のために身代金を支払って買い取ることです。 パウロは、かつては、キリスト者を迫害する者でありました。罪の力に支配されて、罪の奴隷としての生活を送っていたのです。けれども、イエス・キリストが彼の身代わりとなって下さったことによって、パウロの罪が赦されたのです。十字架で流された血潮が、パウロを罪から救い出す身代金だったのです。

Ⅰコリント6:18~19「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 ここに「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」とありますが、パウロは「キリスト・イエスの僕」・・・と自分のことを紹介することによって、自分がキリストの十字架という代価を払って買い取られた、キリストの奴隷であって、キリストのものであることを告白しているのです。
 私たちも、パウロと同じように、キリストに出会うまでは、罪の奴隷でした。表面だけは取り繕っていても、心の中は、自己中心や偽善、などで、汚れた者でした。また、人を恐れたり、人間生活の様々な習慣に束縛されたり、あるいは企業の奴隷として、一生を費やすような不自由な生き方をしていました。 しかし、イエス・キリストがそんな私たちのために十字架にかかってくださって、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。そして、イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちは買い取られたのですから、私たちはもはや、罪の奴隷ではなく、キリストの僕なのです。そのことを心から感謝して、主にお仕えしたいと思います。
 レオ・ダーカンジェロという伝道者の証しです。 彼は、わずか11歳の時にハンドバックをひったくり、その後5年間盗みを繰り返して、ついに警察に捕まえられました。執行猶予を受けた彼は、ヘロインを服用し始めました。その後、繰り返し逮捕され、ついに監獄に入れられてしまいました。 ところが、その監獄の壁にこんな言葉がなぐり書きされていたのです。「人生の旅路が行き詰まった時、苦しくて心が痛む時、ただ嘆くほかない時、イエスに頼りなさい。あなたが求めるべき者はイエスです。」 これを読んでレオは考え込みました。「今、おれの人生の旅路は、行き詰まっている。おれには何にもない。ただ汚い過去と、暗い未来があるだけだ。」まさに、自分は罪の奴隷だと思ったのです。 レオは、激しく泣き出しました。そして、こう祈ったのです。「イエス様、助けて下さい。おれは人生を台無しにしてしまいました。行き詰まってしまってどうすることも出来ません。イエス様、おれの人生を変えて下さい。これからは、違う生き方が出来るように助けて下さい。」 その時です。彼は生まれて初めて絶望以外の感情を覚えました。キリストの愛に包まれ、監獄にいるのに自由を感じたのです。 刑期を終えた後、高等学校を卒業し、ウエストチェスター州立大学と改革聖公会神学校を卒業しました。罪の奴隷からキリストの僕と生まれ変わったレオは、監獄伝道の使命を受けて、自分がキリスト・イエスによっていただいた愛と自由を伝えたのです。
  それは、レオやパウロという特別な人だけではありません。私達一人一人のためにも、イエス・キリストは十字架で命を捨ててくださり、よみがえられたのです。その愛によって、救われて、すべての罪が赦され、神の子とされ、それぞれに大切な使命を与えて下さっているのです。そのキリストの愛に駆り立てられて、私たちも「キリスト・イエスの僕」として主に仕える者とさせていただきましょう。
(2)神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。

  ここには、パウロが送った手紙の宛名が記されています。 それは、7節後半に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」と書かれています。そして、

2節以下には、そのローマの信徒が受けた福音がどのようなものであるのかが、説明されています。「――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―― 神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」  この2~6節には、福音について大切なことが3つ書かれています。

①人となられた救い主

2~4節をご覧ください。「――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」

  救い主は、旧約時代の預言者によって、約束されたお方で、「肉によればダビデの子孫から生まれ」ということによって、救い主は「まことの人であった」ことを表しています。そして「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」と書くことによって、救い主は「まことの神である」ことを表しているのです。 ファリサイ派に属していたパウロにとって、神が人となってこの地上に来られるということは、考えられないことでした。ただ、モーセに与えられた律法を守ることによって、救われると信じていたのです。パウロも堅くそのことを信じていたので、神が人となって十字架にかかり、よみがえられたと信じるキリスト者を滅ぼそうとしたのです。 ところが、律法によっては人は、救われませんでした。それが、旧約聖書の歴史です。 そこで、「まことの神である」イエス・キリストが「まことの人」としてこの地上にお生まれになり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死者の中から復活して下さったのです。

②キリスト者に与えられた使命

 そして、そのイエス・キリストによって救われた聖徒には、大切な使命が与えられています。

5~6節「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――」

  キリスト者に与えられている使命は、その御名を広めてすべての異邦人を信仰に導くことです。その使命にパウロが立ったが故に、この手紙を受け取ったローマの信徒たちも、救われてイエス・キリストのものとされたのです。

③聖なる者とされること

 そして、7節には「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」と書かれています。

この宛名書きには、とても重要なことが3つの言葉で書かれています。まず「神に愛され」次ぎに「召されて」そして、最後に「聖なる者となった」という言葉です。この3つのどれをとっても、ローマの教会員が、自分の力や努力によって到達した状態ではありません。「愛」「召し」「聖なる者」このどれをとってみても一方的に神様が与えて下さる恵みです。 ただ、一方的な神の愛が、一人一人を新しく生まれ変わらせて、イエス・キリストのものとしてくださったのです。そして、私たちを愛し、召してくださった神様は、私たちを「聖なる者」と造り変えてくださるのです。
一カ所聖書の箇所を開いてみましょう。

Ⅰペトロ1:15~16「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。」

 神様は、私たちが福音によって救われるだけではなく、救われてイエス・キリストに似た聖い者になることを願っておられるのです。
  ある子どもに「聖なる者ってどんな人」と聞いたそうです。すると、その子は「うちのお母さんのような人です。」と答えたそうです。 家族というのは、一番自分のありのままの姿が現れるところではないでしょうか。その生活の中で、子どもに「聖なる者」は「うちのお母さんのような人です。」と言われるとしたら、どんなに素晴らしい事でしょうか。 私たちは「聖なる者」とされているでしょうか。
 今日から、ケズィック・コンベンションが始まります。このケズィック・コンベンションは、救われた私たちクリスチャンが、イエス・キリストに似た聖なる者となるために、行われる恵みの集会です。今からでも間に合います。部分参加でも大丈夫ですから、ぜひ参加して下さい。その恵みをいただいて、心が聖潔られるだけでなく、普段の生活の中で、聖く生きるものとさせていただきましょう。
「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」  神様は今日も変わらない愛をもって私たちを愛しておられます。その神様が私たちを召してくだったので、私たちはイエス・キリストのものです。その神様の愛と、恵みによって、心においても生活においても、聖なる者として歩ませていただきましょう。
(3)祝福の祈り

7節「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

  パウロは、この祈りの中で、二つのものがあるようにと祈っています。 一つは、恵み(カリス)で、もう一つは、平和(エイレーネー)です。

①「恵み」(カリス)

 「恵み」とは、ギリシャ語で「カリス」と言いますが、この言葉の意味は、喜び、楽しみ、快活とか美しさという意味があります。 神様がくださる恵みはどんなに困難なときにも喜びや、楽しみを与え、生き生きとしたものとして、人生に美しさを与えてくれるすばらしいものなのです。 パウロは、このことを確信し、この手紙を読む人たちにも、この恵みに預かってほしいと心から願って、この「恵みが、あなたがたにあるように」と祈っているのです。
②、「平和」(エイレーネー)

 この平和という言葉は、平安という言葉にも訳せる言葉で、ヘブル語では、シャローム「神様の平安がありますように」と言う意味です。イスラエルでは、このシャロームという言葉が、わたしたちが「こんにちわ」と挨拶をするように挨拶の言葉として使われているそうです。 ですから、イスラエルでは、どこに行っても「シャローム」(神様の平安がありますように)という挨拶が交わされています。そのような、挨拶を私たちもすることが出来たらいいなと思います。
 そして、その人間が本当の平和を持つために一番大切なことは、神様との平和な関係を持つことです。神様との平和を回復することこそが、人間同士の平和の基調です。 ここに十字架が掲げられていますが、どうでしょうか。十字架の縦の木がなければ、横の木は掲げることはできません。 そのように、私たちの人と人との関係も、神様との平和がなければ、本当の平和をいただくことは出来ないのです。 そしてイエス・キリストは神と人との平和を回復されるために、人間の姿をとって地上に来られ、私たちの罪のために十字架にかかって死なれたのです。エフエソの信徒への手紙2章14~16節(P354)「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 わたしたちは、そのイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、本当の平和をいただくことが出来るのです。

  3月1日に、世界祈祷日が山形南部教会で行われようとしています。プロテスタントもカトリックも教団教派を超えて、また世界中の兄弟姉妹と共に世界の平和を祈ろうとしています。この世界祈祷日が祝福されるように祈っていただきたいと思います。
 ある先生が、イスラエルに行かれた旅行記が書かれていました。 エルサレムで、イスラエルの民族舞踊を講演している劇場に行ったそうです。 その講演の途中で「平和」を主題にしているところにくると、まず、聖歌隊がヘブル語でシャロームと歌い始めます。すると続いて、指揮者の指導で、その劇場を訪れている人たちが自分の国の言葉で、「平和」「ピース」「シャローム」と、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、そして勿論日本語でも「平和」と繰り返し歌われたそうです。そして、繰り返し歌いながら、その歌が、祈りに変えられ、世界上の兄弟姉妹と「平和」を祈りがささげられました。その賛美と祈りは、この先生にとって忘れることの出来ない思い出になったと書かれていましたが、神様は、イエス・キリストの十字架によって、世界中の人々にこのような豊かな「平和」を与えてくださるお方なのです。 
 神様は、私たちのことを心から愛しておられます。そして、私たちは、罪の奴隷から解放されて、キリストの僕にされたのです。 そして、神様は私たちにも、この恵みと平和を与えようとしておられるのです。
最後に、7節の御言葉を、私たちの祈りを込めて、御一緒にお読みしましょう。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

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Illustration by c-awase

 

Q1.教会見学に行きたいけど、行ってもいいですか?

A1.どうぞいらしてください。ぜひいらっしゃる前にお電話を下さい。おいしいお茶を用意してお待ちしてますよ。

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Q2.教会でお金は払わなくていいの?献金ていうお金がいるんじゃないの?


A2.献金はわたしたちが神様に対して自由意志で出すものです。南部教会でも、礼拝、祈祷会、いろいろな会で献金の時間があります。でも出したくない時は、献金係りが来ても何も出さなくていいんですよ。

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Q3.教会に行くとクリスチャンになるようにって無理やり勧誘されない?

A3.無理やり勧誘はしません。でも私たちはクリスチャンで、その幸せを十分感じていますから神様のお話をしたり、聖書を一緒に読みたいと思っています。

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Q4一度教会に行ってみたいけど、一番教会に行きやすい時っていつでしょう?

A4.日曜礼拝が一番人も多いし、教会というものをよくわかっていただけるような気がします。ぜひ一度礼拝においで下さい。毎週日曜日10時15分からです。

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Q5.教会って毎日やってるの?

A5.教会によって違いますが、南部教会は月曜日は基本的にお休みです。その他の日は、プレイズタイム、祈祷会などいろいろな会があります。気楽にぜひ一度おいで下さい。

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Q6.前に教会に行ったら「あなたは罪人です」って言われてむかついた。私何も今まで悪いことしてないのに。何でそんなこと言われなくちゃいけないの?

A6.いきなりそんなことを言われて不快に感じられたお気持ちよくわかります。教会で「罪人」というのは「神様から離れてしまった人」「神様を知らない人」のことを言うんですね。
私たちが普通使う、犯罪を犯したとか、そういう意味ではないのです。

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Q7.教会にはどんな人が行ってるの?何才から行っていいの?

A7.イエス様を信じる人、また信じていきたいなと思っている人が教会に来ています。イエス様を信じない人もぜひいらしてください。南部教会には今0才の赤ちゃんから、85才の教会員がいます。もし足の悪いお年寄りの方がいらしたらお迎えに行くことも考えます。狭い玄関ですが車椅子の方も入れますよ!

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Q8.私は仏教徒ですが、教会に行ってもバチがあたりませんか?

A8.イエス様はバチをあてる神様ではありませんから安心しておいで下さい。

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Q9.教会にはどんな格好で行けばいいですか?

A9.どんな格好でも大丈夫ですよ。神様はあなたのありのままを受け入れ愛してくださいます。

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Q10.教会に行ってみて、つまらなかったら途中で帰ることができますか?ドアがロックされていたりしませんか?

A10.大丈夫です。ドアはいつも開いています。