主日礼拝 2/24

「福音を恥としない」ローマ1:8~17

今日は、岡 恵姉妹の証しを感謝します。ある青年に、証しをお願いしますと電話をしました。すると「はい、証しをさせていただきます。」と迷わずに返事が返ってきました。その返事を聞いて本当に嬉しくなりました。  今日は、「福音を恥としない。」という題で御言葉を取り次がせていただきたいと思います。

今日の中心の御言葉は、16節です。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
 パウロは、神様によって異邦人伝道の使命が与えられました。そして、世界中に福音が伝えられるようにと心をおどらせていました。 パウロの第三回伝道旅行も終わりに近づき、コリントでの三ヶ月の伝道も一応終わりに近づこうとしていた時、パウロの目は、当時の世界の都ローマに向けられていました。パウロは、ローマに一度も行った事はありませんでしたが、すでにキリスト者がローマに移り住み、伝道が行われ、ローマの信徒達が群れを形成していました。 そのローマの信徒達の信仰は、世界にちらばっていた兄弟たちの間に知られていました。そこで、パウロはぜひ、このローマに行きたいと願っていたのです。そのことが、8節に記されています。
 その熱い思いが、8~10節に記されています。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」
  これは、パウロが千九百年も前に書いた手紙ですが、ローマの信徒に何としても会いたいという熱い愛が今でも伝わってくるようです。
(1)パウロのローマの信徒に対する思い

①ローマの信徒への感謝と愛

8節「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

  まず、パウロはローマの信徒に対して、深い愛情を込めて「あなたがたの信仰が、全世界に伝えられていること」への感謝を記しています。  私達は、賛美をするために舌を用いることも出来ますが、同じ舌で批判をすることもできます。また、私達の目は、人の美しいところを探すことも出来ますが、人の欠点を探すことも出来ます。けれども、人を批判することよりも、人の美しいところや良いところを称賛することの方が、はるかに大きな実を結ぶことが出来るのです。
 紀元630年に、サクソン王が自分の国イギリスに宣教師を遣わすように依頼しました。 すぐに、一人の宣教師が派遣され、彼は帰国してこう報告しました。「イギリス人は強情で作法を知らないし、野蛮人のように振る舞います。彼らに福音を伝えても希望がありません。」 その報告を静かに聞いていた、エーダンという宣教師は、口を開いてこう言いました。「兄弟よ。わたしが思うに、あなたはそのように無知な群衆に対して、余りにも厳しすぎたのではないでしょうか。また、彼らを優しく導き、御言葉の肉を与える前に、最初にミルクを与えるべきではなかったのではないでしょうか。」 そして、このエーダンがイギリスのノーサンブリヤに遣わされたのです。エーダンは、優しく愛情を込めて、福音を伝えました。そして、同僚の宣教師が批判的な厳格さではねつけたその同じ人たちを、キリストに導いたのです。
 パウロが手紙を書いたローマの教会にも、様々な問題がありました。また、福音を伝えてもなかなか心を開かないかたくなな人たちもいたのです。けれども、パウロは、まず、そのような批判をせずに、そのローマの信徒に感謝と愛を現しています。そして、その感謝と愛が、彼らの心を開かせたのです。
②ローマの信徒への謙遜な態度

11~12節「あなたがたにぜひ会いたいのは、"霊"の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」  11節でパウロは、「あなたがたにぜひ会いたいのは、"霊"の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」と、ローマに行きたい理由を書いています。 ところが、12節でパウロは、その言葉をこう言い換えています。「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」  ここで、パウロは、自分とローマの信徒たちが、互いに慰め、励まし合うために、そして、共に互いに信仰の中にある尊いものを見いだすために、ローマに行きたいと言っているのです。 教師には、大きく分けて2種類の教師がいると思います。 一つは、生徒の上に立って、上から目線で教える教師です。もう一つの教師は、実際に生徒の目線にまで降りて「さぁ、これについて一緒に学ぼう。」という態度の教師です。 良く「教えることは、学ぶことです。」と言われますが、パウロはまさにそのような心を持った教師でした。 パウロは、初代教会が生み出した最大の思想家で、彼の右に出る者は誰もいませんでした。しかし、パウロは「"霊"の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」  と自分の知恵や知識ではなく、神様から与えられた、「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい。」と言っているのです。 そればかりか、自分が宣べ伝えて与えるだけではなく、彼らの持っている信仰によって、自分も学び、励まされたいと言っているのです。 ここに、パウロの教える者としての謙遜と、共に信仰によって、学び合い、励まし合おうとする謙遜な姿が現されているのです。
 今年は、みなさんに証しをしていただいて、本当に恵みをいただいていますが、私達の証しは、すべて神様から与えられた恵みです。もし、自分を誇ったり、自分の功績を発表しているなら、それは、証しではありません。ただ、神様は素晴らしいと神様の栄光が現されるのが証しです。 そして、その証しを分かち合う時、聞く人だけではなく、語る本人も豊かな恵みいただくことができるのです。パウロが、謙遜に伝道をし、どこまでも謙遜に互いにその信仰を分かち合ったように、「栄光は主に帰す」お互いでありたいと思います。
③ローマの信徒に対する責任

14~15節「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」

 14節でパウロは、「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」と言っています。ギリシャ人とは、アレクサンダー大帝の時代、ギリシャ語とギリシャ思想が全世界にもたらしました。生まれながらのギリシャ人という言葉は、ギリシャの文化とギリシャの精神を兼ね備えている立派な人を表していました。

 パウロには、そのようなギリシャ人にも福音を伝える使命がありましたが、それだけではなく、未開の人、ギリシャ人と対照的な知恵も知識もなく貧しい未開の人にも福音を伝えるという果たすべき責任があったのです。 パウロの果たすべき使命は、賢い人だけではなく無知な人にも、教養のある人だけではなく教養のない人にも、すべての人に対して福音を伝えることでした。 そして、その使命をいつかは、ローマにももたらしたいというのが、パウロの大きな願だったのです。
(2)福音を恥としない

16~17節は、太い字で「福音の力」と書かれています。 この2節の中に、ローマの信徒への手紙のテーマが書かれています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」  この2節の中に、「福音」「信仰」「神の力」「神の義」というこのローマの信徒への手紙の中心的な言葉が並べられています。

 この部分を建物にたとえるなら、この2節は、建物の入り口です。その入り口に世にもまれな宝が飾られているのです。この2節を読むだけでも、ローマの信徒への手紙の性格が分かります。入り口だけでも、このように素晴らしいのですから、中に入れば入るほど、素晴らしい建物を見ることが出来ることが想像できます。 日光東照宮に行くとの陽明門という立派な門があります。その門は彫刻と漆塗りの上に立派な金の飾り付けがされた、別名日暮しの門と呼ばれる有名な門です。しかし、残念なことに、この門は、徳川家康という死者を納めた場所への入り口です。 それに対して、このローマの信徒への手紙のこの入り口は、墓場の入り口ではなく、生命への入り口です。これから、先を読み進めれば、死人の悪臭も漂い、罪人の醜い姿も見えますが、その先には、イエス・キリストの十字架と復活によって、罪に打ち勝ち、死に打ち勝った永遠の生命が現されているのです。16~17節の御言葉は、その素晴らしい福音の看板です。この看板には、二つの大きな真理が現されています。
①わたしは福音を恥としない。

16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」  パウロは、ここで消極的な言い方で「わたしは福音を恥としない。」と言っています。これを最初に読むと、弱い言い方のように感じます。むしろ、「わたしは福音を誇りとします。」と言った方が、よさそうに感じます。 しかし、この「福音を恥としない。」という言い方こそが、ローマの信徒に送られた手紙にはふさわしい言い方でした。 なぜなら、当時、ローマ人にとって「誇り」と言えば「ローマの皇帝」を現していたからです。皇帝こそが「力」を現しており、皇帝こそが「正義」のシンボルでした。ところが、皇帝礼拝を土台にするローマは、いわゆるからいばりで、今は栄えていても、いつどうなるか分からない、不安定で、非常にむなしいものであるということをパウロは知っていたのです。 そこで、パウロは、そのような不安定でむなしいものを「誇り」として生きる生き方ではなく、弱く、愚かに見えても、決して変わることのない、永遠のいのちを私達に与える「福音恥としない。」と言っているのです。

 なぜなら、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」  イエス・キリストは、ユダヤ人のためだけではなく異邦人のためにも、全人類の罪のために十字架にかかって、救いの業を成し遂げて下さいました。そればかりか、死に打ち勝ち、罪に打ち勝って、イエス・キリストを信じるものすべてに永遠のいのちを約束して下さったのです。その福音こそが神の力です。 私たちも、パウロのように「福音を恥としない。」生き方をさせていただきましょう。
 アメリカのインド宣教師、サタンレージョーンズがインドに行く途中、証しの時を持ったそうです。 その時、スタンレージョーンズは、こう証しをしました。「外国伝道のロマンスは私にはなくなりました。むしろ、いろいろな障害がわかります。みなさんは、私にインドに戻っても、ただ、失敗や失望があるだけで、何の成果も見ることが出来ないというかも知れません。しかし、それはほんの途中の出来事で、わたしにはどうでも良いことなのです。 わたしは、インドに行けと召命を受けています。その召命に忠誠を尽くすことが、わたしのやるべき唯一のことです。成功するか、失敗するか、その結果はわたしの関知することではありません。ただ、わたしは神に忠実であるか否かが、あるだけなのです。」 その証しの時が終わって帰ろうとした時、一人の牧師がジョーンズに喜びに溢れた顔で近づいてきました。「私は、今まで成功ということに捕らわれていました。私は、何でも成功を基準にして見てきました。だか、あなたはわたしの心を最大の緊張から解放してくれました。わたしがしなければならないことは、成功するかどうか、その結果ではなく、ただ「忠実」であることだけです。」と考え方を変えて、「福音を恥とせずに」ただ神様が行けと言われるところに行き、語れと言われることを語る牧師として用いられていったというのです。  この話しを聞きながら、わたしが神学校の時に、舎監の先生が、早天でいつも「恥は我がもの、栄えは主のもの」と教えられたことを思い出しました。私たちが何をしたか、成功したか失敗したかという結果は、主の御手にお委ねすれば良いのです。ただ、私たちは、主に忠実であることです。「わたしは福音を恥としない。」福音を恥とせずに、ただ忠実な主の証し人として用いていただきましょう。
②正しい者は、信仰によって生きる。

17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

  この御言葉は、ハバクク書2:4の御言葉の引用です。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」  そして、パウロは、この御言葉を3度も引用して、信仰による救いの大切さを伝えています。(ガラテヤ3:11、ヘブライ10:38)  人が救われるのは、行いによるのではなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。
  昔、一人の宣教師がアフリカに、伝道に行きました。 その宣教師によって多くの人たちがイエス様を信じて救われたのですが、一人だけどうしてもイエス・キリストの十字架の救いを信じられない人がいました。 その人の名前は、ランパウです。ランパウは、イエス・キリストを信じるだけで罪が許されるなんて調子が良すぎる。罪が許されるためにはそれだけの犠牲を捧げることが必要なはずだといってどうしても福音を受け入れようとはしませんでした。 やがて、時が過ぎてとうとうその宣教師がアメリカに帰るときがやって来ました。ランパウは、宣教師が帰ることを知って本当に悲しんで、自分の持っている大切なプレゼントを宣教師に送ることにしました。それは、大きな真珠でした。 その真珠を見た宣教師は、「それをお金で買い取らせてくださいと頼みました。」ランパウがそれを断ると、宣教師は「いやいや、私の持っている者全部を売り払ってでもお金を払いたいから値段をつけて下さい」とお願いをしました。 すると、ランパウは非常に怒ってこの真珠のことについて話し始めました。「実はこの真珠は、ランパウが愛する息子と一緒に取ったもので、深い海の底に潜って、命懸けでその真珠を取って来たのです。そして、残念なことにその時にこのランパウの息子は命を失ってしまいました。ですから、この真珠はランパウに取って息子の命のようなものです。それなのにあなたは、息子の命に値段をつけようとするのですか。」 それを聞いた宣教師は、やさしく宣教師を見つめてこう言いました。「ランパウ、良く聞いて下さい。この真珠に値段がつけられないことは良く分かりました。それと同じようにイエス様は、あなたのために命を捨てて下さったのです。そして、その命には値段をつけることは出来ません。ただ、イエス・キリストを信じるだけで、救われるのです。」 それを聞いたランパウは始めて、イエス・キリストの贖いの意味が分かって、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、バプテスマを受け、福音を恥じることなく伝え続けたのです。
16~17節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」
「わたしは福音を恥としない。」 神様は、私たちをただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救って下さいました。その一方的な恵みと愛にお応えして、福音を恥とせずに、忠実な証し人として用いていただきましょう。

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Illustration by c-awase