今朝は、齋藤 悠兄の証しを感謝します。齋藤 悠くんが、時間やお金も犠牲を払って、お友だちに神様の愛を伝えている姿に、いつも感動していますが、神様が私たちに一番望んでおられることは、私たちが聖潔られ主と同じ姿に変えられていくことだと、教えられ感謝しています。
今日の中心の御言葉は25節です。
「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」
25節の後半に「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。」と書かれていますが、今日は「永遠にほめたたえられるべきお方」という題でメッセージを取り次ぎたいと思います。
まず、20をご覧ください。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」
私たちの神様は、天地万物を創造された全能の主です。その神様の素晴らしさを私たちは、自然を見るとよく分かります。 アッシジのフランチェスコは、太陽を兄弟と呼び、月を姉妹と呼んで、神様の創造の御業を褒め称えました。 今は、夜空のきれいな季節です。一日の働きを終えて、家に帰る時、月が輝いています。そしてオリオン座や、木星などきれいな星を見上げると、神様は何て素晴らしいのだろうと思います。 アフリカ伝道をした、リビングストンは、ある日原始林の中に迷い込んで、食べ物もなく、ほとんど餓死寸前になってしまったことがありました。その時に、足元にある一塊のコケが生えているのに気がつきました。そのコケを見つめながら、神様は、この小さな植物にさえ、光を照らし、露をくだして守り養っておられる、それならば、福音を伝えるためにこのアフリカに導いてくださった神様が私を決して忘れるはずがないと考え、気持ちを取り戻して、立ち上がって歩き出し、ついに人里に着くことが出来たと言うのです。 イエス様は、山上の説教で、空の鳥をたとえにこうおっしゃいました。マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
そして、野の花をたとえにこう言われています。マタイ6:28~30「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」
神様は、私たち人間を愛しておられ、私たちのために天地万物を創造された方です。それほどまでに、神様はあなたのことを私のことを愛しておられるお方です。ですから、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」
それにもかかわらず、私たち人間は、神様の元を離れ、自分が神になろうとしたのです。そこに、人間の最大の罪があります。18節をご覧ください。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」
不義というのは神様を義として、神様中心の生活をせずに自分中心の生活をすることです。そして、この不信心とは、神を神と信じない罪です。 最初に造られた、アダムとエバが、神様から離れてしまったのも、自分たちが神になれるという誘惑に陥ったからでした。 悪魔が、エバを誘惑した時、こう言います。
創世記3:3~4をご覧ください。「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 4節に「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」とヘビは言っています。「神のようになる」神を神とせずに、自分たちが神のようになる・・・。この誘惑にアダムとエバは負けてしまったのです。そして、ついに善悪を知る知識の実を食べてしまったのです。この時から、人は神様の元を離れ、自分を神として、自分中心の歩みを始めるようになってしまいました。 それが、原罪という私たちの一番深いところにある罪です。その罪に対して「神は天から怒りを現されます。」とあるように、怒りを現されるのです。
その罪は、どのような結果を生み出しているのでしょうか。3つの事が書かれています。
(1)神様と人間との関係の乱れ
23~25節「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」
人間は、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や獣や這うものなどの偶像と取り替えてしまったのです。 この神様と人間とのみだれは、心だけの問題ではありません。肉体にも、また、知、情、意というすべての事が乱れてしまったのです。神様に焦点が合わせることが出来なくなるというのは、ちょうど、コンパスで円を描くのに、中心が定まらないのと同じです。中心が定まらないと、円が乱れてしまうのと同じように、私たちの心と生活、すべてのことが乱れてしまうのです。 そして、もっと恐ろしいことは、その乱れてしまっていることにすら気がつかないことです。24節に「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、」とあります。
神様は、人間の罪に対して、彼らの心が欲望によって不潔なことをするにまかせられたのです。 私たちが病気になった時、一番怖いのは、その症状があらわれないことです。 私たちの体には温かさを感じる「温点」、冷たさを感じる「冷点」、圧力を感じる「圧点」、そして、痛みを感じる「痛点」があるそうです。そして、それぞれが「温かさ」や「冷たさ」や「圧力」や「痛さ」の信号を脳に送って、温かさや、冷たさや、圧力や、痛さを感じるのです。 その中で、最も多いのが痛みを感じる「痛点」です。痛みを感じることは、私たちにとって大きな苦しみです。しかし、体に痛みを感じるから、私たちは病院で治療を受けます。私たちが、病気になったり、怪我をした時に一番怖いのは、痛みがないことです。痛みがないと病気はどんどん進行して、体を蝕んでしまいます。ですから、痛みがあるということは、非常に大切なことなのです。 それは、私たちの罪にも同じことが言えます。罪を犯した時、心が痛むうちは、まだ救いようがあります。その人は、罪を悔い改めて、正しい道を歩み出すでしょう。しかし、神様は、その人間の罪の怒りによって「不潔なことをするにまかせられた」とパウロは言っています。「まかせられた」というのは、放っておかれたということです。罪を犯しても、放っておかれ、その罪に気がつかない・・・それほど怖いことはありません。それほどまでに、私たちの罪は深刻な状態にあるのだということを知らされます。25節の後半に「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」 とありますが、神様の元を離れた罪を、心から悔い改めて、永遠にほめたたえられるべき、造り主の元に立ち返らせていただきましょう。
(2)人と人との関係の乱れ
26~27節「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」
人間が神様の元を離れた結果、神を神とせず、自分を神とする自己中心の罪が心に入り込んだのです。その結果、神様と私たちとの関係だけではなく、人と人との関係も乱れてしまったのです。
パウロは、当時ローマで行われていた、暗闇の世界の醜い姿をあかるみに出しています。神のない生活は、正常な結婚を破壊し、性の乱れをもたらしていました。当時のローマでは、同性愛が行われていました。女性は、男性との自然の関係を捨てて、女性に情欲を燃やし、男性も女性との自然の姿ではなく、男性同士で恥ずべき事を行っていました。 そして、それは、昔のローマという特別な所で行われていた事ではなく、現在の日本でも、さらに驚くべき事が行われているのではないでしょうか。 罪という物は、恐ろしい物です。たとえ、それが小さく見えても、やがて、自分だけではなく、人をも苦しめ死に至らせるものです。
最近、パプアニューギニアのセビック川で、悪性の雑草のために莫大な被害を受けました。その雑草とは、日本ではホテイアオイと呼ばれている紫色の花を咲かせる、ウォーターヒヤシンスです。繁殖力が非常に強く、セビック川をすっぽり覆うほどで、川を生活基盤にしていた村の人々に莫大な被害を及ぼしたのです。主要交通路であった水路が閉ざされ、主要産業であった漁業も出来なくなってしまいました。挙げ句の果てには、川を覆っているウォーターヒヤシンスのために、救急患者を船で運ぶことが出来なくなって、尊い命が奪われたというのです。 一株のウォーターヒヤシンスは、2ヶ月で千倍にも増殖すると言われています。それは、私たちの心の中にある罪に似ているのではないでしょうか。私たちの心の中にある罪は、その時は小さいもののように見えても、すぐに、根を張り、またたくまに繁殖してしまいます。
私たちの心の中に、そのような罪が無いでしょうか。もし、そのような罪が示されるならば、それを神様の前に言い表して、悔い改めましょう。そうするなら、主はその祈りを聞いてくださり、御子イエスの血によって聖潔てくださるのです。
Ⅰヨハネ1:9 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」 イエス・キリストだけが、私たちの罪を聖潔てくださるお方です。 まず、私たちがしなければならないことは、自分の罪を認めて、それを主の前に告白することです。 病院に行った時に、まず大切なことは、お医者さんに、自分の病気の状態を聞いてもらうことです。もし、その時に「私は健康です。どこも悪いところはありません。」と言ったらどうでしょう。お医者さんは、治療のしようがありません。神様は真実で正しい方です。そのお方に、自分の罪を言い表して、その罪を聖潔ていただきましょう。そうするならば、イエス・キリストは、その十字架の血潮によって、その罪を赦し、神様と私たちとの関係だけでなく、人と人との関係をも回復させてくださるのです。
(3)人間の全面的な腐敗
28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」
彼らの、最も大きな罪は、神を神と認めないことです。その結果、人は神様と交わることが出来なくなり、自己中心になりました。 そして、恐ろしいことに、その罪を罪とも思わない神様抜きの生活へと堕落していったのです。 そして、この当時行われていた罪の目録が29~31節に書かれています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」
ここで、パウロは、21個の罪のリストをあげて、これらを戒めていますが、しかし、私たちはこれらを、昔のローマ人の罪悪で、自分とは関係ないと考えることは出来ないのではないでしょうか。
ある宣教師が、インドのある地方で、このロマ書1章からメッセージを取り次がれたそうです。そして、この29~31節を読んだ時に、インド人が非常に驚いて、「今言ったことは、あなたがこの地に来てから、後で付け加えたものではありませんか。」と言ったというのです。ここに書かれていることが、インド人にとって今の自分たちのことを書かれているように感じたというのです。 そして、それは、今の日本の現在の社会を現しているのではないでしょうか。そして、私たちの心の中にもこのような罪がないでしょうか。
そして、ここに記されている21個の罪は、28節に「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」とあるように、神を神と認めないところから始まったのです。 人は、神様の元を離れる時、糸の切れたたこと同じように、風の吹くまま、この世の風に飛ばされて、さまよい歩き、罪のぬかるみに引きずり込まれ、永遠の滅びへと向かっていくのです。最後にパウロは、32節でこう書いています。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
一人の人の罪は、一人の人にとどまりません。その人が死に値する罪だと知っていながら、それを行うならば、その人だけではなく、他の人にもその罪は広がっていくのです。
今日は、私たちの罪について学んできました。人間の心の中に罪が入り込み、神様と人との関係が乱れ、人と人との関係が乱れ、人は罪によって腐敗してしまいました。
しかし、それにもかかわらず、私たちを創造されたお方は、そんな罪に汚れた私たちをも愛してくださっているのです。最後にイザヤ書43:1~4を開きましょう。「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」
この4節は、新改訳では「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」と訳されている有名な聖書の箇所です。神様はこんなに罪深いわたしたちをも愛して下さり、その救いのためにひとり子をも惜しまずにお与え下さったのです。
神様は、私たちがどんな罪を犯したとしても、私たちに対する愛は変わることがありません。どんな罪人でも神様の愛から漏れる人は誰ひとりいないのです。 放蕩息子が、放蕩の限りを尽くして、どん底に落ちた時にも、ずっと愛する息子を待ち続けていたように、私たちの「造り主」であられる神様は、すべての人が帰ってくるのを待っておられるのです。
最後に、25節を読みましょう。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」
「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。」
今、大切な受難節を迎えていますが、イエス・キリストは、今日の聖書の箇所に記されているような自分では、どうすることも出来ない罪のために十字架にかかってくださいました。 そのイエス・キリストを信じて、罪を赦していただき、聖潔ていただきましょう。 そして、心から「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」 と主を賛美しようではありませんか。
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