主日礼拝 3/17

「神の正しい裁き」ローマ2:1~16

今日は、川上恵衣姉の証しを感謝しています。あの恥ずかしがりやだった恵衣ちゃんが、こんなに素晴らしい証しを堂々とする姿を見て、本当に神様は素晴らしいと思います。そして、お友だちに福音を恥としないで、伝えている恵衣ちゃんの姿に励まされています。 MEBIGに「テレビ伝道」というのがあるのをご存じでしょうか。テレビのテは、テレホンです。そして、レはレターです。そして、ビは何でしょう。ビジット訪問です。そのようにして、恵衣ちゃんを始め、ホサナの教師、スタッフは、電話や手紙や訪問を毎週しながら、お友だちを誘っています。

今日の中心の御言葉は、16節です。

「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

  ここには、神の裁きのことが書かれていますが、主の裁きの日がやがてやってきます。ですから、その日の前に、愛する人たちに福音を宣べ伝えましょう。
  先週は、1:18~32から異邦人の罪についてお話をしましたが、今日の聖書の箇所には、特にユダヤ人の罪について書かれています。異邦人の世界には、先週1:29~31に21個の冷酷で恐ろしい罪のリストが書かれているとお話しを致しましたが、実は、ユダヤ人にもこの罪のリストは完全に当てはまるものでした。 ところが、ユダヤ人は異邦人はこれらの罪によって裁かれると言っていましたが、自分たちがこのような罪によって裁かれるとは夢にも思っていなかったのです。 ユダヤ人たちは、アブラハムの時代から、自分たちは神様から選ばれた選民である信じていました。そして、他の民族を異邦人と言って、区別し、異邦人を裁いていたのです。 彼らは、こんなことを言っていました。「神は、地上のすべての国々の中で、イスラエルのみを愛された。」「神は一つの壺で異邦人を裁き、ほかの壺でユダヤ人を裁かれる。」 そのように、ユダヤ人は、自分たち以外の異邦人は誰でも裁きを受ける。しかし、自分たちは神から選ばれた選民であるから、その裁きから免れると信じていたのです。そのようなユダヤ人たちに対して、パウロは、2章でユダヤ人たちの罪について語っています。 2:1~16から3つの事をお話ししたいと思います。
(1)神の哀れみを利用していたユダヤ人

 3~4節「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」 

4節の後半で、パウロはユダヤ人たちに「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」と言っています。ユダヤ人たちは、律法が与えられ、それを守ることによって救われると信じていました。ところが、その律法を守ることが出来なかっただけでなく、異邦人の罪と同じ罪を犯していたのです。しかし、彼らは、神様の「慈愛と寛容と忍耐」との故に、自分たちの罪は赦されると信じていたのです。 それだけではなく、ユダヤ人以外の異邦人を軽蔑し、彼らを裁いていたのです。
 ある注解者がこう言っています。「ほとんどすべての人が『罰せられずに無事にすむようにという漠然とした希望』すなわち、これは自分には起こらないといった一種の安易な感情を持っている。」「ユダヤ人は更に進んで、公然と、神の裁きの免除を主張したのである。」 そして、今でも、同じような思いでいる人たちがたくさんいます。 人間が許された時、二通りの態度があります。 たとえば、若者が両親が悲しみ恥じるような罪を犯したとします。しかし、その罪が赦されて何の罰も受けないとします。 ある人は、罪を犯しても、何の罰も受けないのなら、罪を犯しても大丈夫だと考えて、再び同じ罪を犯してしまう人です。そのような人は、何度も罪を繰り返して滅びの道を歩んでしまいます。 それに対して、もう一方の人は、両親を悲しませ恥じるような罪を犯したにもかかわらず、自分の罪が赦されたことを、心から感謝して、喜んで、もう二度とこのような罪は犯すまいと、新しい人生を歩み出す人です。 ユダヤ人は「豊かな慈愛と寛容と忍耐」を受けて、神の選民としての特権を受けていました。にもかかわらず、それを罪を犯し続けることの口実としていたのです。これは、この世で、最も恥ずべき行為です。 これこそ、ユダヤ人が行っていたことであり、ユダヤ人だけでなく、私たちクリスチャンも同じ罪を犯しているのではないでしょうか。罪を犯しても、悔い改めれば、イエス・キリストの十字架によって許されるのだから大丈夫と言って、罪を犯し続けているのであれば、ユダヤ人と同じ罪人です。
 神様の「豊かな慈愛と寛容と忍耐」  は罪を犯してもそのままでいいと感じさせてしまいますが、そうではありません。 イエス・キリストは、その罪のために十字架で命を捨ててくださったのです。私たちが同じ罪を犯し続けるということは、再びイエス・キリストを十字架につけて苦しめ続けることをです。その十字架の苦しみを思う時に、私たちは決して再び罪を犯してはならないという心が起こされるのではないでしょうか。
(2)分け隔てをしない神

6~11節「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」  とありますが、この「おのおのの行い」というのは、一つひとつの行いを現しているのではなく、人の生涯を表す言葉です。 そして、7~10節にはその具体的なことが書かれています。「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」 

 ここには、悪を行う者と、善を行う者に与えられる報いが書かれています。そして、その報いは、ユダヤ人にもギリシャ人、すなわち異邦人にも同じ報いが与えられるのです。7節「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、」  「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者」それは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、神が支配される栄光の国に属するものです。これらを求める者に与えられる報いは「永遠の命」です。このような態度を、一生涯貫ぬくならば、この世にあっても祝福された人生を歩み、永遠に神様と共にいる祝福に与ることが出来るのです。 しかし、この祝福された人生を目指さない人たちもいました。

8節 「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」  神を神とせず、自己中心で、真理に従わないで、不義に従う者には、神の怒りと憤りがその報いとして与えられるのです。
 ユダヤ人のラビが大病にかかり、死を宣告された時に、彼は大泣きしました。弟子たちが驚いてその理由を聞くと、「わたしがこの世の王者の前に出るのであったら、彼は、今日はあって明日を知らぬ身だから、その怒りも、ほんのつかの間に過ぎない。あるいは、彼のために刑務所に入れられたとしても、永遠にそこにとどまるわけではない。たとい殺されたからといって、ただ肉の命のことである。 しかし、わたしが王の王なる神の御前に出る時、彼の御怒りに触れたならば、誰がこれを解いてくれるであろう。彼がもしわたしを刑務所に入れたならば、わたしはいつまでもそこにとどめられるだろう。そして、彼がもしわたしを殺したならば、わたしは限りなく殺されなければならない。それを思えば、わたしが泣くのは当然のことではないか。」と答えたそうです。 そのように、人による一時的なこの世の裁きではなく、神による最後の審判をくだされる日がやって来るのです。
 そして、11節にをご覧ください。「神は人を分け隔てなさいません。」  神様は、ユダヤ人と異邦人を分け隔てなさるようなお方ではありません。 そのことは、聖書の中に何度も繰り返し書かれています。使徒10:34、ガラテヤ2:6、申命記10:17、Ⅱ歴代19:7などです。一カ所だけ開いてみましょう。使徒10:34~35「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」 神様は、すべての人を分け隔てなさるようなお方ではありません。その正しく裁きを畏れ敬い、正しい道を歩ませていただきましょう。
(3)神の裁きの日

 その裁きは、正しい裁きであり、公平な裁きであります。そのことが、12~15節に書かれています。「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」  ここでは、律法が与えられたユダヤ人と、律法を与えられなかった異邦人とが、光へうに裁かれるのかという課題に対して、パウロが答えている箇所です。 ここで、パウロは、律法を与えられたユダヤ人は、律法によって裁かれること。そして、律法が与えられていない異邦人に対しては、14節に「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」と書かれています。律法を与えられていない異邦人の心の中にも、神様は何が善で何が悪かということを判断する良心を与えられました。律法を持たない異邦人にとっては、その良心が律法であり、裁きは、ユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、分け隔てなく行われるのだというのです。16節 「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」 

人々は、罪を犯してもすぐに神の裁きが行われないので、裁きはないと考えて、神様を侮って罪を繰り返し行っています。 しかし、神様が、今、人々を裁かれないのは、神様の「慈愛と寛容と忍耐」  によるものだとお話しをしました。
 そのことが、Ⅱペトロ3:9に書かれています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」 

 ここに、今すぐに、神の裁きが行われないのは、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と書かれています。神様は、私たちが一人も滅びないで皆が悔い改めるように、忍耐して、主の元に帰ち続けておられるのです しかし、やがて恵みの日が終わり、救いが過ぎ去ると、恐るべき裁きの日がやって来るのです。その時は、滅び行く者にとっては、患難の時、刑罰の日です。その時には、人に知られずに犯した罪も、心の奥に潜んでいる罪も、すべて隠れている事柄が、神様の光に照らされて明らかになるのです。
 羽鳥 明先生が、自分が見た夢の話しをされたことがありました。羽鳥 明先生が亡くなられた夢でした。先生の顔の上には白い布がかぶせられ、その魂は天国の門の所に行きました。すると、イエス様が「天に名前の記されている人」の名前が呼ばれていました。その時、次々にイエス・キリストを信じる人たちの名前が呼ばれました。その中には、生前お世話になった先生や、仲の良いクリスチャン、教会員の名前もありました。 ところが、いくら待っても、自分の名前が呼ばれないのです。そこで、イエス様に聞いてみました。「わたしは羽鳥明と言いますが、わたしの名前はないのでしょうか。」「はい、ここにはあなたの名前はありません。」先生は慌てて「わたしは、長年牧師をしてきました。巡回伝道者として全国に福音を伝えましたし、ラジオ放送でも「世の光」を何年も続けてきました。」と今まで奉仕をしたことを訴えましたが、「いいえ、あなたの名前はありません。」と言われたのです。 羽鳥 明先生は、汗びっしょりになって、目が覚めました。「それが、夢で良かった」と心からそう思ったそうです。 それから、神様に祈りました。その祈りの中で、わたしはイエス・キリストを信じて恵みによって、天国の書に名前が記され、天国の門で名前が呼ばれる。けれども、まだイエス・キリストを信じていない人が大勢いる。その人たちが、神様の御前に立つ時、わたしがあの晩あんなに恐い思いをしたように、いやそれ以上の苦しみを味わなければければならないのか?と思った時に、もっと真剣に、命がけで福音を宣べ伝えなければならないと思わされたというのです。
 私たちは、どうでしょうか。ここにおられる方は、イエス・キリストを信じて永遠の命が約束されています。ですから、命の書には名前が記されていて、天国の門で名前が呼ばれるでしょう。しかし、私たちの愛する家族はどうでしょうか。友人や知人はどうでしょうか。もし、私たちが天国の門で、名前が呼ばれずに苦しんでいる家族や友人や知人が震えている姿を目撃したとしたら、耐えられないような苦しみを味わうのではないでしょうか。今なら、まだ間に合います。私たちを愛しておられる神様は、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
  先週のホサナの祈祷会で、加藤 綾さんの子どもたち、よしあきくん、よしみずくん、よしなおくんと受難週の紙芝居を見ました。その後で、天国行きの飛行機を作ったのです。天国行きの飛行機を二つに切ると、一つはHELLという(地獄)という意味の字が出てきます。そして、「残りの紙が天国行きのカギです。」と言って3人の子どもたちに渡しました。そして、それを開くと、十字架の形をした紙になります。 その天国行きのカギを見た、よしみずくんが、これを「ガレジー」にあげれば良かったねと言ったのです。実は、2週間ほど前に、よしみずくんたちのおじさんが、ガンのために亡くなったのです。加藤 綾さんに「いつか、叔父の所に訪問してください。」言われ、私は、チャンスが与えられたら必ず行こうと思っていたのですが、急に危篤状態になってしまったので、結局行くことが出来なかったのです。 後は、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の御手にお委ねする敷かないのですが、あの声をかけられた時にすぐに行けば良かったと今でも、心が痛みます。
 最後に、今日招詞で読まれた聖書の言葉を読みたいと思います。Ⅱテモテ4:1~2「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」

  2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」  と有名な言葉がありますが、それはどうしてでしょうか。その理由が1節に書かれています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。」  主の再臨の日が近いことを、パウロは覚えて、厳かに命じているのです。神の正しい裁きの時がやってきます。その日その時は、私たちには分かりません。盗人がやってくるように突然にやってくると聖書には書かれています。その日がやってきて、手遅れにならない前に、「御言葉を宣べ伝え」させていただきましょう。

 


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Illustration by c-awase