棕櫚の聖日3/24

「わたしたちの咎のため」イザヤ53:1~12

今日は、棕櫚の聖日です。イエス・キリストがエルサレムに入場された時、イスラエルの民は大歓迎して、「ホサナ、ホサナ」と棕櫚の葉を敷いて、ロバの子に乗ったイエス様をお迎えしました。そのことから、この日を棕櫚の聖日と呼ばれるようになりました。  今日から受難週を迎えますが、今週は特別な週です。ある人たちは、断食をしながら主の苦しみを覚えます。また、私たちの教会では、今週の水曜日は、受難週特別祈祷会が行われます。日頃祈祷会に来られていない方々もぜひ、お越しください。そして、金曜日は十字架礼拝が、午後7時から行われます。私たちの愛の故に十字架で命を捨ててくださった主イエス様を心から礼拝しましょう。この日には、聖餐式や、洗足式も行わわれます。  そして、喜びのイースターを迎えます。イースターには丹羽美代子姉妹がバプテスマを受ける予定です。ぜひ、覚えてお祈りください。

今日の箇所は、「苦難のしもべ」と呼ばれる聖書の箇所ですが、この箇所から十字架の主の御声を聞かせていただきたいと思います。今日の中心の御言葉は、5節です

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 今日読んでいただいた聖書の箇所は「苦難のしもべ」と呼ばれる有名な聖書の箇所です。それでは、これらに書かれている「苦難のしもべ」とは、誰のことでしょうか。このことは、昔から多くの学者によって論じられてきました。 ある学者は、イザヤ以前に活躍した誰かであると言います。 また、ある学者は、イザヤ自身であると言い、またある学者は、選民イスラエルが、個人のように記されているのだと言います。 けれども、「主のしもべ」の聖書の箇所をよく読んでいくと、来るべきメシアであることが良く解ります。そして、このイザヤ書で預言されているメシアというのは、歴史上、存在したイエス・キリスト以外におられません。
 このことは、使徒言行録8章26~40節にはっきり記されています。 エチオピアの宦官がイザヤ書53:7~8を読みながらガザへ下る道を歩いていました。フィリポは聖霊に導かれて、このエチオピアの宦官のところに行くと、宦官はフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」(34)  と聞きますが、その後、35節にはこう書かれています。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」 ここに「イエスについて福音を告げ知らせた。」  と書かれています。ここに、イザヤ書53章に記されている「苦難のしもべ」というのは、イエス・キリスト御自身であるということがはっきりと書かれているのです。 イエス様こそが、「主のしもべ」としてこの地上に来られた救い主です。 イザヤ書53章は、イエス・キリストがお生まれになる700年も前に記された預言書だといわれていますが、イエス様がお生まれになる700年も前に、イエス様が私たちの罪を贖う「苦難のしもべ」として来られるということが預言されていたということは驚くべき事です。しかも、そればかりか、このイザヤ書53章には、イエス・キリストの十字架の苦しみがはっきりと預言されているのです。
(1)イエス・キリストの十字架の預言

 それでは、イエス・キリストの十字架が預言されている箇所を何カ所か読んでみましょう。このイザヤ書に、イエス様が歩まれた4つの道がはっきりと預言されているのです。

①ポンテオ・ピラトの裁判、イザヤ53:7をご覧ください。 

「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」

 イスラエルの民にとって、羊は非常に身近な存在でした。イスラエルの人々は羊を飼い、その羊の毛を刈って、着物を作っていました。 また、イスラエルの人々が罪を犯した時、祭司の所に行き、その罪の贖いのために、傷の内子羊を、全焼のいけにえとしてささげなければなりませんでした。 その毛をきる羊のように、主イエス様は、沈黙して苦しみをその身に受けられました。  イエス様が十字架に架かられる前に、ポンテオ・ピラトのもとで裁判が行われました。その時、祭司長と律法学者たちは、イエス様に対して不利な証言を並び立てました。しかし、イエス様はこれには、何もお答えにならなかったのです。

Ⅰペトロ2:23には、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」  と書かれています。 そして、全焼のいけにえとしてささげられた、傷のない子羊のように、イエス・キリストは、全人類のために十字架で命を捨ててくださったのです
②十字架上にかけられたお方

 イザヤ53:12節前半をご覧ください。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。」

 ここに「罪人のひとりに数えられたからだ。」  と書かれています。 イエス様は、「されこうべ」と呼ばれるところで十字架につけられましたが、十字架とは、当時ローマ帝国が定めた死刑の方法です。この地上で一番大きな罪を犯した人が着けられなければならない「歴史上一番残酷な刑でした。」 あの十字架がカルバリの丘に立てられた時に、別の犯罪人も一人は右に、もう一人は左に十字架につけられました。 イエス・キリストは神の子で、罪のないきよいお方です。その清いお方が、罪人のひとりの数えられ、犯罪人と同じ扱いを受けられたのです。
③十字架上でのとりなしの祈り

 12節の後半には、こう書かれています。「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」  イエス様は、ファリサイ派や律法学者たちの策略によって、十字架につけられました。また、十字架につけられたイエス様の前には、自分を十字架に釘付けにした兵隊や、自分をあざける群衆がいました。 イエス様と寝起きを共にした弟子たちは、自分の身を守るために、イエス様を裏切って逃げてしまい、イエス様の見方は誰もいませんでした。 そのような人を前にしてイエス様はこう祈られたのです。ルカ23:34そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 イエス様は、御自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをされたのです。
④葬られた主イエス様

 9節をご覧ください。「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。」  とあります。 十字架上で、9時から3時まで苦しまれたイエス様は、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて、息を引き取られました。 イエス様は、この十字架で、私たち全人類の救いの業を成し遂げてくださったのです。 その後、イエス様の死体は、アリマタヤのヨセフという金持ちの申し出によって引き取られ、自分の用意していた墓に葬られたのです。  イザヤが、この預言をしたのは、イエス様がお生まれになる700年も前のことでした。それなのに、こんなにリアルに、イエス様の十字架について預言がなされ、それがことごとく成就しているということは、驚くべき事です。 この旧約時代から預言され待ち望まれてきたお方こそ、私たちの救い主イエス・キリストです。
(2)わたしたちの罪のため

 では、救い主であるイエス様が、なぜ、このような苦しみを味わわなければならなかったのでしょうか。 イエス・キリストを十字架につけたのは、ファリサイ人や律法学者だちでしたが、実は、私たちの罪のためでした。4~6節を読みましょう。ここには、イエス様が、十字架にかかって死なれたのは、私の罪のためであったことがはっきり書かれています。 

4~6節「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」 

 4節に、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」  と書かれています。 また5節には、「わたしたちの背きのため」「わたしたちの咎のため」と書かれています。また、6節には、「そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」  と書かれています。 ここで、何度も「わたしたちのため」と記されているように、主のしもべの苦しみは、わたしたちのためであるということです。そして、ここで、預言されているように、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架に架かって下さったのです。 そして、5節をご覧ください。「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」  イエス様が、私たちの身代わりに苦しまれることによって、まことの平和といやしが与えられるのです。
 フランスのある孤児院に特別なルールがありました。それは、問題を犯した子どもに処罰を与えるのに、もし代わりに罰を受けるという者がいれば、その代わりの子どもに罰を与えるというものでした。 ある日のことです。ある子どもが他の子どもの腕を刃物で刺すという大きな事件が起こりました。刃物を振り回した子どもは、暗室に閉じ込められてしまいました。院長が子どもたちに尋ねました。「あなたたちの中で暗室に閉じ込められた子の代わりに罰を受けるものはいるかい。」 すると、驚いたことに、刃物で腕を刺された子どもが手をあげたのです。結局、刃物で刺された子どもが代わりに暗室に閉じ込められ、刃物で刺した子どもはその暗室から解放されたのです。 解放された子どもは、大きな感動を受けました。自分のせいで大けがをしていながら、代わりに罰を受ける友達の愛を知った時、彼は大きな声で泣きながら、罪を悔い改めて、全く別人に生まれ変わったというのです。 自分に被害を加えた子どもの代わりに暗室に閉じ込められた子どものように、主イエス様は、私たちの代わりに踏みつけられ、鞭打たれたのです。罪と傷で苦しむ私たちのために、主イエス様が、苦しみの十字架を背負われたのです。 今、苦しみの中におられる方がおられるでしょうか。イエス様の苦しみを考えてみてください。鞭で打たれ、その方の御体に触れてみてください。刺し通された手とわき腹に手を入れてみてください。私たちのために苦難のゴルゴタの丘に上られた主の裂かれた足を洗ってみて下さい。 イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で命を捨ててくださったのです。 私たちの救いのために十字架にかかってくださった、主の大きな愛を深く覚えたいと思います。
(3)苦難のしもべへの応答

10~11節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」

 ここには、僕が苦難を通して勝利を得られたことが記されています。苦難の僕の生涯は、大失敗のように見えました。ところが、彼は全ての苦難を通られて、勝利者となられたのです。10節の後半に「主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」11節の前半には、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。」とありますが、神様の望まれる全人類の救いは、苦難のしもべを通して成し遂げられたのです。そして、神様はそれを知って、満足する。と書かれています。十字架と復活、ここにこそ本当の勝利があり、その苦難を通して豊かな実が結ばれてきたのです。
 ナポレオンは、こう言ったそうです。「アレキサンダー、シーザー、シャーマン、ナポレオンなどは、皆武力でその時代の国々を征服した。しかし、彼らの成功は長くは続かなかった。すべて時の間に消え失せたのである。ところが、かのイエスを見よ。彼が愛を基として建てた王国は、あとになるほどいよいよ栄え、彼のためには命をすてるのをいとわない者が、現に幾百人を数えるほど多くいるのである。我は人を知る、我は汝らに告げる、ナザレのイエスは人にあらずと。」 苦難のしもべと預言された、十字架と復活の主こそが、この世に唯一の最も偉大な勝利者なのです。

 最後に12節をご覧ください。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」12節の最後に「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」  と書かれているように、イエス・キリストは全人類の救い主です。 ここに書かれている、「多くの人の中」に私たちは、含まれているでしょうか。含まれています。それでは、その「多くの人」の中に、私は含まれているでしょうか。勿論含まれています。誰一人として、この恵みから漏れる人はないのです。そのイエス・キリストに対して、私は何が出来るでしょうか。

 1700年代のことです。ドイツのドレスデンでニコラス・フォン・ツィンツェンドルフという青年が、ある美術館に行きました。そこには、多くの世界的に有名な絵が並べられていましたが、ジンゼンドルフ伯は、ある絵の前に立った時、動けなくなってしまいました。(プロジェクター 聖画) その絵は、イエス・キリストが、いばらの冠をかぶらされ、十字架にかかられた絵で、その下にはこうかかれていました。「我は汝のためにかくのごとなせり、汝はわがために何をなすか。」 ツィンツェンドルフは、その言葉の前に釘付けになってしまったのです。ああ、イエス様は、私のような者をも救うために、あの十字架の苦難を忍び、命を捨てて下さった。それなのに、私は、これまでの人生の中で、イエス様のために何かをしたことがあるだろうか。 もちろん、教会には行っていました。聖書も読んでいました。お祈りもしていました。しかし自分の犠牲を払って、なにかをイエス様のためにしたことがあるだろうか。そうしたことを考えたのです。彼はその絵の前で、何時間も考えていました。そしてついに、自分の生涯をイエス様の福音を伝えるために捧げることを決意したのです。ツィンツェンドルフは、その後、宣教団体のモラビア兄弟団というものを組織して、すばらしく霊的な伝道者となっていきました。 

 「我は汝のためにかくのごとなせり、汝はわがために何をなすか。」 この言葉は、今の私たちに語られているのではないでしょうか。主イエス様は「苦難のしもべ」として、わたしのために、あなたのために苦しみを背負われ、十字架で命を捨ててくださいました。そして、その苦しみを通して、私たちを救い、癒やし、神の子として永遠の命を約束してくださっています。 その主イエス様に対して、あなたは何をなすかと問われているのではないでしょうか。黙祷をして、しばらく十字架の主の御声を聞かせていただきましょう。 主イエス様は、私たちにすべてを与えて下さいました。その命までも、私たちの救いのために与えて下さったのです。そのイエス様に対して、私たちは何が出来るでしょうか。私たちもすべてをお献げして、このところから進ませていただきましょう。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase