今日、丹羽美代子姉のバプテスマ式を行うことが出来ることを感謝しています。先程、お証しにあったように、丹羽さんが最初に山形南部教会に来られたのは40年前です。そこで、御言葉を学び、イエス様を信じたのです。 それから、教会を離れて、いろいろな苦しみを味わい、新興宗教に救いを求めましたが、そこには救いはありませんでした。 そして、去年の10月にもう一度、山形南部教会に帰ってきて、聖書を読み、礼拝をささげた時に、丹羽さんの心の中にくすぶっていた信仰の火種が燃え上がったのです。そして、今日は、喜びに満たされて証しをされる姿を拝見して、本当に神様は素晴らしいと思いました。
今日の中心の御言葉は、32節です。
「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」
イースターおめでとうございます。 今日は、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様が、罪と死に打ち勝って、よみがえられた日です。心からの感謝の礼拝をお献げしましょう。
今日の聖書の箇所は「エマオの途上」と呼ばれる有名な箇所です。 3年前に、聖地旅行に行った時、この道を歩きました。この道を、クレオパともう独りの弟子と一緒に、よみがえりのイエス様が一緒に歩かれたのかと、本当に深い感動をしたことを思い出しました。、
イエス様がよみがえられた日曜日の午後のことです。二人の弟子が、エルサレムから11キロくらい離れたエマオという村に向かっていました。 二人は、その日の朝、女たちが、から聞いた驚くべき知らせについて、熱心に話しながら歩いていました。 その話とは、こんな話しです。「私達は、今日イエス様のお墓に行きました。すると、お墓の入り口が開いていて、その中にイエス様はおられませんでした。すると、御使いが現れて、「あの方はここにはおられない復活なさったのだ。」と告げたのです。」
それを聞いた、二人の弟子は、信じることができずに、とぼとぼと歩いていたのです。 すると、そこに一人の男の人が近づいてきて、二人と一緒に歩き始めました。「歩きながら、やりとりしているその話は何のことですか?」とその人が尋ねました。すると、二人の内のクレオパが、暗い顔をして、答えました。
19~24「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
それを聞いたイエス様は、25~26節でこう言われます。 「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
男の人は、そう言って、救い主について聖書が預言していることとを丁寧に教えてくれました。二人は、その話しにすっかり引き込まれてしまいました。 クレオパともう一人の弟子と、道々話し合った男の人は、よみがえりのイエス様でした。イエス様がすぐ側にいて、話しかれてくださったにもかかわらず、どうしてイエス様だということが解らなかったのでしょうか。
その理由が、16節にあります。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」 ここに、「二人の目は遮られていて」とあります。
クレオパともう一人の弟子とが、イエス様だと分からなかったのは、イエス様が十字架に架かって死んでしまったので、絶望をしていたからです。そして、二人にとってそのイエス様が死があまりにも大きすぎて、イエス様の復活は信じられなかったのです。
このような、絶望や不信仰によって、彼らの霊的な視力が低下してしまって、目の前にいらっしゃるイエス様の姿を見ることが出来なかったのです。
私たちも同じ経験をすることがないでしょうか。私たちは、大きな悲しみや苦しみにぶっつかる時、失望し、また絶望して神様を見上げることが出来なくなってしまうことがあります。 私たちも、この二人のように、信仰生活の中で、絶望や不信仰によって、霊的に盲目になり、目の前にイエス様がおられるのに、それが分からないということがあるのではないでしょうか。
そのように、「わたしたちの心の目が遮られてしまった時、どのようにすれば良いのでしょうか。この聖書の箇所から、3つのことを学んでみたいと思います。
(1)私たちの心と生活の中にイエス様をお迎えすること
28~29節 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」
この二人は、29節で「一緒にお泊まりください。」とイエス様を自分たちの家にお招きしています。そして、一緒に食卓で交わりをしたのです。二人は、自分の家にイエス様をお招きして、食卓を囲んだのです。 その時です。その時に31節を見ると「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」と言うのです。
2人が、目を開かれたのはどこだったでしょうか。それは夕食の食卓です。何か特別な場所ではなく、家庭の日常生活の中で、2人は霊的な目が開かれ、復活の主を見いだし、主と豊かな交わりをすることができたのです。 私たちは、この2人のように私たちの心と生活の中に、イエス様をお迎えしているでしょうか。
ヨハネの黙示録3:20「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 イエス様は、私たちの心の扉をたたいておられます。そのイエス様を心の中にお迎えするならば、心の目は開かれて、よみがえりのイエス様と共に歩むことが出来るのです。 そして、イエス様を心の中にお迎えするだけではなく、私たちの生活の中にお迎えしましょう。イエス様を私たちの家庭にお迎えすると、家庭から汚れた言葉や行いが取り去られ、神様の恵みと祝福のあふれる場所になっていきます。 クレオパともう独りの弟子が、「一緒にお泊まりください。」と、イエス様をお迎えしたように、私たちも、イエス様をお迎えし、毎日の生活の中でよみがえりのイエス様と豊かな交わりをさせていただきましょう。
(2)十字架の主を仰ぐこと
30~31節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
二人の弟子は、すぐそばにイエス様がおられたのに、目が遮られていて、それが、イエス様だということが、解りませんでした。 けれども、イエス様が、食卓で、パンを裂いた時に、それが、イエス様だということが解ったのです。 教会でも、パンとぶどう酒を配ります。それは、何ですか?そうです。聖餐式です。 あのパンは、イエス様が十字架にかかられた時に裂かれた肉をあらわします。そして、ぶどう酒は、十字架上で流された血潮をあらわします。イエス様は、私達の罪のために十字架にかかってくださいました。それほどに、私達のことを愛してくださっているのです。その十字架を信じるなら、私達は、よみがえりのイエス様を心の目で、見ることが出来るのです。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
イエス・キリストの十字架をリアルに表現した「パッション」という映画がありますが、その「パッションを理解するために」という本があります。その中にこんな話が書かれています。
毎日池のそばを通って小学校に通っている男の子がいました。冬になると池は凍りついてしまいます。そのため、彼の父親は、決して池に近づかないようにと男の子に注意していました。 しかし、ある日彼は父親の忠告を無視して、氷の上を歩こうと池に近づいたのです。ところが、氷の上に足を置いたとたんに、氷は割れて、彼は冷たい水の中に落ちてしまったのです。 ちょうど、そこに年輩の郵便配達員の人が通りかかりました。その男の子のことに気がつき、すぐにその池の中に飛び込んで、男の子の手をつかんで助けたのです。 男の子は、その郵便配達員のお陰で一命を取り留めましたが、数週間寝込んでしまいました。その間、父親は何一つ叱りませんでしたが、彼が回復すると、黙って彼をお墓に連れて行きました。 そこには、あの時彼を助けてくれた郵便配達員のお墓があったのです。郵便配達員は、男の子を助けた代わりに自分の命を落としたのです。 そのことを知った男の子は、自分の命は、もうすでに自分のものではない、一人の人が死んでくださったお陰で、自分は新しい命が与えられたのだと・・。
イエス・キリストは、この郵便配達人のように、私たちの罪の身代わりに十字架で命を捨ててくださったのです。そのイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が約束されているのです。 聖餐式の時にパンを割くのは、あの十字架で裂かれたイエス・キリストの肉を現しています。もう一度、イエス・キリストの十字架を仰いで、目を開いていただいて、よみがえりのイエス様を心の目で見せていただきましょう。
(3)聖書を信仰を持って読むこと
32節をご覧ください。「二人は、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか。」
ここに「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか。」とあります。 16節に「二人の目は遮られてい」た時には、聖書の中に書いてあるイエス様のことを正しく理解することが出来ませんでした。けれども、31節で彼らの目が開かれたとき、イエス様が語られたことをはっきりと理解し、「心が燃えたではないか。」と心が燃やされたことを思い出すことが出来たのです。
これは、私たちにとっても同じです。私たちの心が、絶望や不信仰でふさがっていると、また、聖霊に頼らずに自分の知恵で読もうとすると、聖書の正しい意味が分かりません。けれども、聖書を読む前に、あのサムエルが「僕は聞きます。主よ。お話しください。」と祈ったように、私たちも聖書の意味が良く解るように祈って読み、信仰を持って受け取っていくならば、神様が私たちに語りかけようとしておられることが、はっきりと解ってくるのです。
イエス様は、わたしたちと共にいてくださり、聖書の御言葉を通して、今も私たちに語りかけてくださいます。心の目を開いて、信じて聖書を読み、御言葉によって心が燃やされるという経験をさせていただきましょう。
ジョン・ウェスレーの墓には、「火の中から取り出した燃えさし」と書かれているそうです。 それは、ウェスレーが子供のころ、家が火事になり、もう少しで死にそうな体験をしたことから自分のことを「火の中から取り出した燃えさし」と呼ぶようになったそうです。
ウェスレーは、学校に行って聖書を学び、牧師になるためにアメリカにも留学しました。その時のウェスレーには、聖書の知識はありましたが、イエス・キリストだけが、罪から救ってくださるお方であるということをあまり真剣に考えていなかったのです。 ある日、アメリカで、あるクリスチャンがウェスレーに、聞きました。「あなたは、イエス・キリストを知っていますか。」
ウェスレーは、その時、こう答えたそうです。「私は、イエス・キリストが全世界の人々の救い主であることを知っていますよ。」 その時、そのクリスチャンは、「そのとおりです。しかし、あなたはイエス様があなたを救ったことを知っていますか。」と聞いたそうです。
ウェスレーは、この時、頭では福音を確かに理解していました。しかし、心の深いところでは、イエス様を信じることが出来ず救いの確信がなかったのです。とうとう、ウェスレーは、アメリカでいろいろなことがあって、本当に打ち砕かれてイギリスに帰っていきました。 イギリスに帰って、アルダスゲートという通りにいきました。その通りにある教会で、ローマの信徒への手紙の聖書の朗読を聞きました。その時に、その聖書の言葉を通して、始めてイエス・キリストが私の救い主であることがはっきりと解ったのです。
その時に、「火の中から取り出した燃えさし」が、心の中で熱く、熱く燃え上がり、いずリスのリバイバルのため、世界の宣教のために彼は用いられたのです。
よみがえられ、今も私たちと共に歩んでくださるイエス様は、私たちの心を燃やしてくださるお方です。 イエス様を私たちの生活の中にお迎えし、十字架の主を仰ぎ、聖書を通して主の御声を聞きながら、あのエマオの途上でクレオパともう一人の人が経験をしたように「わたしたちの心は燃えたではないか。」という素晴らしい経験をさせていただきましょう。
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