今日は、詩音くんの証しを聞くことが出来、感謝しています。中学時代の詩音くんは、中学校のテニスクラブは、日曜日にクラブ活動があるので、近江テニスクラブを選んで、礼拝を大切にしてきました。詩音くんが祝福されたのは、そのように神様を大切にしてきたからだと思います。そして、そのような詩音くんを、高校生になってからも必祝福してくださって、神様の栄光のために用いてくださると信じています。
今日の説教題は「神から来る誉れ」という題にしました。詩音くんにはテニスの賜物が与えられているように、すべての人に神様から大切な賜物が与えられているのです。そして、私たちに与えられた全ての賜物は、神様から与えられたものです。そのことを覚えていつも神様に栄光を帰すものでありたいと思います。
今日の中心の御言葉は29節です。
「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
パウロは、ローマの信徒への手紙1:18~3:20で、人間の罪について書いています。1:18~2:16では、罪についての一般論について書かれていますが、17節以下では、具題的な罪について話しを進めていきます。 そこで、パウロはまず、今日読んでいただいた2:17~29で、ユダヤ人の罪について触れています。なぜなら、パウロ自身がユダヤ人であり、パウロ自身が体験した事でしたから、このことを最初に話すことが一番適当だと思ったに違いありません。パウロこそが生きた証人だったのです。
この聖書の箇所を3つに分けてみ言葉を取り次ぎたいと思います。
(1)ユダヤ人の誇り
ユダヤ人は、異邦人に対して2つの誇りを持っていました。
①律法
17~20節 「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」
ユダヤ人は、律法を誇りとし、その律法によって何をなすべきかをわきまえていました。そして、律法の中に「知識と真理が具体的に示されていると考え、」 律法を持たない異邦人に対して、盲人の案内人、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると、自負していました。 ところが、律法を教えるべきユダヤ人が、律法に反することをしていました。そのことを21~23でパウロは指摘しています。
「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」
ユダヤ人たちは、「盗むな」「姦淫するな」と異邦人に教えながら、実は、陰で同じような罪を犯していたのです。それは、律法の指導者も認めるところでした。 また、「偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」とありますが、ユダヤ人たちは、ユダヤ人たちが軽蔑する異教の神殿から、盗んできた者を売買していたのです。 このように、ユダヤ人たちは、律法を破ることによって、神を侮っていたのです。 ですから、ユダヤ人が犯していた罪は、異邦人が犯していた罪だけではなく、神様を侮るという二重の罪を犯していたことになります。
そして、24節をご覧くださいる 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。」
この「」のみ言葉は、イザヤ52:5の引用です。 「そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。」
神様は、この時神に背いていたイスラエルの罪を罰するために、バビロン軍を送って、罪を悔い改めて、神様の身元に立ち返ることを願っておられたのです。ところが、イスラエルの民は、バビロンに滅ぼされても、悔い改めようとはしませんでした。そこで、それを見たバビロンは、イスラエルの神は無力だから、イスラエルの民を守ることが出来ないのだと言って、侮ったのです。
未信者は、神様を、その神様を信じている人々の行いを見て判断する者です。それは、昔も今も変わることのないものです。
②割礼
25~26「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。」
ユダヤ人が最も誇りにしていたのが、「割礼」でした。割礼は、神様がユダヤ人の先祖であるアブラハムと契約を結んだ時、その契約の印として与えられたものでした。
創世記17:9~11「神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」
これは、神様とイスラエルの民との契約の印です。 神様は、イスラエルの民を祝福し、あなたも子孫も、それに続く子孫も祝福されると約束されました。 それに対して、イスラエルの民は「割礼」と行い、神様への献身と誠実な生活をし、その生活から罪を切り離すことを意味するものでありました。 ところが、ユダヤ人は、形式的には、割礼を行っていましたが、肝心の神様への献身と誠実な生活、罪から切り離された生活を行っていなかったのです。それでは、無割礼な者と全く変わらないことになってしまいます。
私たちも、このユダヤ人たちと同じような罪を犯してはいないでしょうか。形だけは、バプテスマを受け、礼拝を守り、献金や奉仕をしていても、生活の中で罪を犯しているならばこの時のユダヤ人と同じです。そして何よりも大切なのは、神様への献身と誠実な心です。 形式的なクリスチャンではなく、心から主を愛し、十字架の血潮によって罪を聖潔ていただき、献身と誠実な心で主にお仕えしたいと思います。
私たちも、ユダヤ人が、アブラハムの子孫として選ばれたように、イエス・キリストによって救われた者です。それは、私たちに特別な価値があるのではなく、神様からの一方的な愛によるものです。
ヨハネによる福音書15:16でイエス様はこうおっしゃっておられます。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
私たちが神様を選んだのではありません。一方的な神様の憐れみと愛によって選ばれ、十字架の贖いによって私たちは救われたのです。
今日、各会の祈祷会が行われ、新しい会長や会計や書記が選ばれます。まず、神様が最善の人を選んで下さるように祈って選んで下さい。この世ではいろいろな役割は、選挙や、立候補や、人の推薦によって選ばれますが、教会ではその背後に神様が働いておられる神様が選んでくださるのです。
それは、何のためでしょうか。 16節の後半に「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と書かれています。アブラハムを祝福の源として選ばれた神様は、私たちも、「実を結び、その実が残るように」と私たちを選んで下さったのです。 ですから、ユダヤ人が神様に選ばれたにもかかわらず、罪を犯し続けているならば、それを悔い改めて、言葉や行いをもって神を証しする者とさせていただきましょう。
(3)聖霊によって与えられた、新しいイスラエルと新しい割礼
28~29節「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
28節と29節には「外見上のユダヤ人」「肉に施された外見上の割礼」 という言葉と、「内面がユダヤ人である者」「心に施された割礼」という言葉が対比して書かれています。 そして、これは霊によるものであるのか、そうでないのかが問われていることがよく分かります。 さらにパウロは、29節で「文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」と言っています。 Ⅱコリント3:6でパウロはこう言っています。
「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」
「文字」というのは、石の板に記された律法のことです。そのような意味での律法には、人を救う力も人に命を与える力もありません。 これに対して、御霊は、人を救い、律法を行う力を与えます。 そして、体に与える割礼は、選民に与えられた外見的なしるしにすぎません。それに対して心に施された割礼は、神の民のしるしです。 私たちは、イエス・キリストの十字架によって救われました。その時に、私たちには聖霊の証印が与えられたのです。
エフェソ1:13~14「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
スコットランドのある村に、一匹の犬がいました。その犬は汚れていたので、誰も近づこうとはしませんでした。犬はさまよい歩き、飢えと疲れから随分衰弱していました。 ところが、ある少年が、その犬と遊んでいると、その犬の首にメダルが下がっているのに気がつきました。そのメダルをよく見てみると「パップス」という名前が刻まれてあり、その下には「王国所有の犬」と小さく文字が刻まれていたのです。 これを知った人々は、驚いて王室に知らせ、飼い主がわかった犬は王宮に連れ戻されたのです。 パップスは、王様が休暇を過ごすためにエジンバラ城の近くに来た時に、迷子になってしまったのです。王宮へと連れ戻されたパップスは、森の中をさまよっていた時とは全く違い、飼い主である王様の愛を受け、安らかに過ごすことが出来ました。 どうして、パップスが王様の犬だとわかったのでしょうか。それは、飼い主の者であるということが刻まれた、メダルでした。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
私たちも、福音を信じる信仰によって、神様から「これはわたしの愛する子だ。」と聖霊の証印を押されたのです。 その聖霊の証印を押された者らしく、神の子として祝福の中を歩ませていただきましょう。
(3)神から来る誉れ
最後に29節をご覧ください。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
ここに「その誉れは人からではなく、神から来るのです。」とあります。この「誉れ」というこの言葉は、ギリシャ語では、エパノイスという言葉が使われています。そして、この言葉には二つの意味があります。(1)この誉れは、人からではなく神から来るものである。(2)このユダヤ人としての特権は、人から来るのでなく神から来るものである。
旧約時代には、律法と割礼は神との契約として与えられました。そして、新約の時代は、イエス・キリストの十字架の契約によって、救いと聖霊の証印が与えられたのです。そして、旧約の時代も、新約の時代も、誉れは神から来るものです。
今日は、川上詩音くんに証しをしていただきましたが、川上詩音くんには、スポーツという素晴らしい賜物が与えられています。その賜物を用いて、神様の栄光を現して欲しいと思います。
「世界で最も影響力のある100人」という有名な雑誌に選ばれたスポーツ選手に、ティム・ティーボウというアメリカンフットボールの選手がいます。 彼は、宣教師の子どもとして生まれ、宣教の最前線で育った若者です。彼は、プロチームに入団後、大活躍をします。 彼のプレーをデーターで分析すると、他の選手の選手より、決して良い成績ではありません。しかし、彼はピンチの時や土壇場の状況で、奇跡的なプレーを見せるのです。やがて彼の活躍は、「ティーボウイング(奇跡の意味)」と呼ばれるようになり、人々が注目するようになりました。 ティーボウは、インタビューを受けると必ずイエス様のことを証して、栄光をたたえます。あまりに信仰を前面に出すので、インタビューをする人が「あなたは大スターになったのだから、あまりそういう話しをすると人気がなくなりますよ。」と忠告しました。 すると、ティーボウは、「わたしにとってイエス様が一番です。フットボールは4番目ですね。」と笑って答えたそうです。そのような彼の姿を見て観客は「彼の活躍の背後には偉大なお方が味方しておられるに違いない。」と思うようになりました。 ある大きな試合も、ティーボウは大活躍をしました。その日の夜、インターネットのグーグルで、1億3千件も検索されたそうです。その時に、彼の目の下には「ヨハネ3:16」と書かれていました。それは、聖書の中の聖書、福音の中の福音と言われる聖書の箇所です。 ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
大勢の人が、そのティーボウの目の下に書いているヨハネ3:16という文字に感動しました。そして、ティーボウと共におられる神様を、自分の救い主として受け入れたのです。 ティーボウのスポーツの賜物は、神様から与えられたものです。そのことをティーボウは心から感謝して、神様に栄光を帰したのです。 神様を愛する一人の青年が、アメリカ中の人々の心を神様に向けさせたのです。
29節「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく"霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
ユダヤ人に与えられた、律法も割礼もすべて神様から与えられた一方的な恵みでした。そして、私たちが救われたのも、今私たちに与えられている全ての賜物は、神様から与えられた恵みです。そのことをいつも覚えて、心から栄光を主に帰す者とさせていただきましょう。
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