主日礼拝 5/26

「神の恵みにより無償で」 ローマ3:9~26

  今日は、ギデオン協会の方が来られています。ギデオン協会の方々は、最高の神の言葉である聖書を無料で配っておられます。どうして、こんな大切な物を、ただで配ることが出来るのでしょうか。それは、この聖書の御言葉が、人を救い、永遠の命を与える大切な物だということを知っておられるからです。だからこそ、どんな犠牲を払っても、聖書を配っておられるのではないでしょうか。 一番大切な者は、無償で与えられているのではないでしょうか。私たちの命、お金を払って買った人がいますか。無償で神様から与えられました。私たちの両親、お金で買った人がいますか。大切な家族も神様が無償で神様が与えてくださいました。私たちが生きるために必要な、空気も、太陽の日差しも、豊かな自然も、神様から無償で与えられたものです。そして、目には見えませんが、私たちにとって最も大切な、愛も信仰も希望も神様からの贈り物です。 それなのに、私たちは何か勘違いをして、この世の流れに流されて、お金があれば幸せになれるように感じてしまったり、何か特別な努力をしなければ、幸せになれないように考えているのではないでしょうか。 もちろん、お金や努力によって与えられる幸せもあるでしょう。しかし、それらの物は不完全で、限りのある物です。 本当の幸せは、神様が無償で与えてくださる恵みにあるのです。

23~24

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
パウロは、1:18以下で、異邦人が罪人であることが語られ、2:17以下ではユダヤ人の罪について語ってきましたが、パウロは、今日読んでいただいた3:9~20で、全人類が罪人であると結論を語っています。
(1)正しいものは、ひとりもいない

 9~10節「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。」

 3:1~2に

「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」  と語られているように、確かにユダヤ人は、神様から選ばれ、律法が与えられ、祝福の契約が結ばれて、そのしるしとして割礼が施されました。そういう意味においては、他の異邦人とは違います。しかし、それは、神様からの一方的な恩寵でした。

 しかし、罪については、ユダヤ人が異邦人よりも少ないとか、軽いものを持っているわけではない、「正しい者はいない。ひとりもいない。」と10節でパウロは断言しているのです。
 そこで、この結論の部分で、パウロは詩編とイザヤ書の言葉を引用して、人間共通の罪のありさまをまとめています。人間の罪について、3つの事が書かれています。

①言葉の罪

13~14 「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、」  この言葉は、詩編からの引用で、言葉による罪を現しています。 人間に与えられている能力の中で最もすぐれているものは言葉です。しかし、この言葉の中に、人間の罪が顕著に現されるのです。

 イエス様は、マタイ12:33~37でこうおっしゃっておられます。

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」 

 34節に「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」  とおっしゃっておられますが、私たちの心の中にあるものが、溢れてくるのです。

②人の行為にあらわれる罪

15~16

「足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。」この言葉は、イザヤ59:7~8の御言葉の引用です。普通、この世の人は、罪というものを、行為で判断します。たとえば、「あの人は殺人をしたから、犯罪人だ。」とか、「あの人は暴力をふるったから、信用できない」とか、行った行為によって、外側から人を見ます。 しかし、聖書は、逆で、人の心の中に罪があるので、それが行いとなって現れるのです。ですから、私たちの心の罪が解決されなければ、私たちはいつ、どのような罪を犯してしまうか分からないのです。
③神を畏れない罪

17~18

「彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」 

これが、原罪と呼ばれる、すべての人が持って生まれた罪です。 アダムとエバが造られた時には、この原罪はありませんでした。ですから、エデンの園で神様がいつも共におられる天国のような生活をしていたのです。 ところが、そのエデンの園には、「園の中央には、命の木と善悪の知識の木」が植えられていました。そして、神様は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と命じられるのです。 それは、どうしてでしょうか。ある方に「神様は、どうして園の中央に善悪の知識の木を植えられたんですか。これさえ造らなかったら、人間は罪を犯さずに、幸せな生活をすることができたのに・・・。」と聞いたことがあります。 しかし、神様は、人間を神様の御心を行うだけの、ロボットのようには造られなかったのです。そうではなく、神様と同等の意思を持つ、神の子どもとして作り、神様に従うか、従わないかという一番大切なことまで決断を委ねる自由意思を与えられたのです。 私たちとロボットの間には自由意思がありませんが、親と子どもの間には自由意思があり一人の人格としての交わりがあるのです。神様は、私たち人間を愛してくださり、そのような最高の存在として創造されたのです。 ですから、善悪を知る知識の木の実を取って食べないで、神様に従って神様の御心をお喜ばせすることも、逆に善悪の知識の木を取って食べて、神様に逆らうことも出来る自由意思が与えられたのです。 それにも係わらず、アダムとエバは、サタンに誘惑されて、善悪の知識の木を取って食べて、神様の御心に逆らってしまいました。 その時から、人間の心の中に、神様の御心に逆らう罪、原罪というものが入り込んだのです。そして、その原罪は、アダムとエバに始まって、その子孫のカインとアベルにそして、その子々孫々と伝わり、全人類の心の中にあり、言葉において、行為において罪を犯させるのです。 ですから、神を畏れ敬わない罪、原罪が解決されなければ、すべての罪は解決されないのです。19~20「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」  神様は、私たちの救いのために、イスラエルの民を選び、モーセに律法を与えられました。その律法を完全に守るならば、人は完全な者と認められるのです。しかし、実際には、誰一人として、この律法を完全に守れる人はいませんでした。人間は、この律法の要求を満たす力を失ってしまったのです。

 そして、20節の最後の言葉をご覧ください。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」  この御言葉を読むと、律法の大切な役割が分かります。律法を行おうとすればするほど、それを行うことの出来ない自分、罪深い自分を知らされます。 その、自分の罪を知るところから、救いの業が始まります。その罪を悔い改めて、救い主の唯一の道であるイエス・キリストのもとに導かれるからです。

  ある国で、ひとりのどろぼうが捕まえられて、王様の前に引き出されて死刑の宣告を受けました。 すると彼はふところから一枚の金貨を差し出し、「王様、実はこの金貨は、一度も悪いことをしたことのない人が土に埋めると、金のなる木が生えるのです。ところが、わたしは悪いことばかりして、とうとう植えることが出来ませんでした。王様なら罪はないでしょう。これをひとつお植えになってみてください。」 すると、王様は身震いを始めました。そして、すぐに総理大臣を呼んで命令しました。「お前は、本当に忠実な部下だ。わしは今まで殺さなくて良い人を殺したり、取らなくて良い国を取ったり、考えてみれば悪いことばかりしてきた。」 すると総理大臣は慌て始めて「ちょっと王様、お待ち下さい。私もあなたと一緒になって同じようなことをしてきました。また、数多くの人々から税金を余分に取り立ててきました。私もこの金貨を植える資格はありません。」 次ぎに呼ばれたのは、法務大臣でした。「お前は、人を裁く役柄。まちがいないだろう。植えてくれないか。」すると、法務大臣も「お許し下さい。私も人をいじめたり、不正な裁きをいたしました。私も駄目です。」  最後に、ゼウスの神主が呼ばれてきました。「ゼウスの神主なら、神に仕えているから間違いないでしょう。」 ところが、彼も王様のり前に出ると青い顔をして、恐る恐る言いました。「私はよく賽銭をごまかしていたのです。」 どろぼうは、大声で笑いながら言いました。「みなさん、私と一緒に死刑になったらどうでしょう。」
10節に、「正しい者はいない。一人もいない。」  とあります。そして、一枚の金貨が、あの国の人々の罪を明らかにしていったように、律法は、人々の心の罪を明らかにするのです。そして、まことの救い主であられる、イエス・キリストに導く役割を果たしているのです。
(2)救いには何の差別もない

 パウロは、「正しい者はいない。一人もいない。」と語り、異邦人も神に選ばれたユダヤ人もすべての人が、罪人であることを語りました。ところが、21節以下では一転して、 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」とそのような罪人の救いについて語っています。

  第一に、これは、21節に、「律法と預言者によって立証されて、」 とあるように、このことは、旧約の時代から預言されていたことである。

第二に、22節に、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」  とあるように、救いは、イエス・キリストを信じる者すべての人に与えられるのです。 

第三に、22節に「そこには何の差別もありません。」と書かれています。
 ジョン・ウェスレーが、夢の中で地獄に行った事があるそうです。 そこには、カトリックもプロテスタントも、長老派、バプテストなど、各教派の人たちなど、信仰を失った人たちがいました。恐る恐る、ジョン・ウェスレーの属していたメソジストの人やホーリネスの人もいますかと聞いてみると、「いますとも」と言われ、本当に心を痛めてしまったそうです。  次ぎに天国に行きました。その天国の門にいる人たちに、同じように「ここには、長老派の人や、バプテストの人、メソジストの人やホーリネスの人はいますか」と聞いたそうです。 すると、その門番の人は何と言ったと思いますか。「各教派の人たちは誰もいません、ただイエス・キリストを信じるクリスチャンがいるだけです。」と答えたそうです。 このように、神様の前には、教派も国籍も、貧富の差も、人種も、男女も地位も全く問題ではないのです。ただ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じた者だけが、そこに存在するのです。しかも、その罪人でさえ、イエス・キリストを信じるという点においては、何の差別もないというのですから、何と感謝なことでしょうか。
22~23「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
(3)神の恵みにより無償で与えられる救い

23~24をご覧ください。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」今まで、話してきたように、「正しい者はいない。ひとりもいない。」

 すべての人が罪人です。しかし、神様は、そのような罪人をも愛してくださり、十字架で命を捨ててくださいました。そのイエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人が救いに預かることが出来るのです。 それも、神の恵みによって無償で与えられるのです。何という素晴らしい恵みでしょうか。信じられないくらい、気前の良い、大きな恵みです。
 宗教改革者、マルティン・ルターは「神を喜ばせることは何か」ということを深刻に悩んだことがありました。 徹底的に祈り、黙想をし、断食をし、様々な苦行を行いました。そして、些細なことまで懺悔をして、罪を悔い改めたのです。ある時は、懺悔が終わって帰る途中に忘れたことがあったと、教会に引き返して最初から懺悔をやり直しました。その姿を見ていた神父から「もう些細な罪は懺悔しなくて良い。」と言われるほどでした。 このような努力にもかかわらず、ルターの霊的な葛藤は大きくなるばかりでした。 ルーターは、ヴィッテンベルグ大学で聖書を教えていましたが、詩編22:1「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という御言葉を読んで、深く考えました。「なぜ、神は捨てられたと感じるほど、イエスにひどい苦しみを与えられたのだろうか。」 その時に、ルターはイエスが、全人類の罪をその身に負われ、あの十字架で神からも捨てられて、全人類を救われた恵みと愛を悟ったのです。あの十字架にこそ救いがある。そして、ローマ1:17「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」  を読んだ時、イエス・キリストの十字架によって救いの業は完成し、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのだと悟ったのです。 そのことを知った時、ルターは「まさに天の御国の扉の前に立っているようだ。」と告白したのです。
 人間は、行いによって救われるのではありません。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、「神の恵みによって無償で義とされるのです。」
23~24「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
  イエス・キリストによって与えられる恵みは、ただ、イエス・キリストを信じるだけで、神の恵みにより無償で義とされるのです。 それは、すべての人に与えられる恵みです。イエス・キリストを信じていない人は、今日この福音を信じて、恵みの中を歩み出してください。 また、罪や不信仰に苦しみ、「もう、私なんか駄目だ。」とあきらめかけていたり、確信が揺らいでおられた方がおられないでしょうか。 そのような人は、もう一度十字架を見上げましょう。
23~24「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
もう一度、御言葉に立って、無償で与えられる神の救いを、確信してこのところから立ち上がらせていただきましょう。

 


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Illustration by c-awase