主日礼拝 6/16

「信仰の法則によって」ローマ3:27~31

今日は、ギデオン教会の総主事が来られています。後で、ギデオン協会のお勧めをいただきますが、心から歓迎したいと思います。 ギデオン協会は、すべての人に福音が伝えられるようにと、全世界で多くの聖書が配布されています。なぜなら、聖書はすべての人に贈られた、神様からの愛のメッセージだからです。
  今年に入って、ローマの信徒への手紙を学んでいますが、ローマ3:22には、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」  と書かれています。 パウロは、神様の御前においては、人間は例外なく平等であると語っています。これは、パウロの生きていた二千年前の時代では、常識な考え方でありました。パウロの時代には、奴隷がいましたし、男女の差別がありました。また、ユダヤ人たちは、自分たちは選民だと主張し、異邦人を軽蔑していました。 しかし、パウロは、そのような時代の中で、すべての人は罪人であって、すべての人は、ただイエス・キリストの十字架の贖いによって救われるのだと、全人類の救いについて語りました。 それは、パウロ自身の意見ではなく、パウロがキリストによって教えられた聖書の真理です。ですから、二千年経った今でも、全人類の平等が明らかにされていることは、決して不思議なことではありません。その全ての人が平等であるという根拠は、人間の側にあるのではなく、神様の側にあるからです。

今日の中心の御言葉は、27節です。

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
  イエス・キリストを信じる信仰こそが、私たちを救いに導く道です。
  今朝は27~31節を読んでいただきましたが、この聖書の箇所からすべての人が平等に持っている大切な教えを3つ学びたいと思います。
(1)人間に側には誇りはない

27節

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」 

27節の最初でパウロは、「では、人の誇りはどこにあるのか。」  と言っていますが、ここで言っている誇りとは何のことを言っているのでしょうか。2:17~18をご覧ください。 「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」  ここに書かれているように、ユダヤ人が、神から選ばれ、神から与えられた律法を行っていたことを誇りにしていたのです。 しかし、パウロは、人はすべて罪人であり、信仰によってのみ義とされるのだ。だから、選民であることを誇ったり、律法を守っていることを誇るようなことはまったくないのです。
 誇りが取り除かれる理由が、27b~28に書かれています。「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

  人が義とされるのは、行いによるものではなく、信仰によるものです。だから、誇りは取り除かれるのです。 行いによる義であれは、自分の行為によるものですから、何か良いことをすれば、その人が賞賛されるかも知れません。そして、行いによる義であれば、自分はこれだけの良いことをしたと誇ることも出来るでしょう。しかし、人は行いによっては救われないのです。律法に従えば従うほど、聖書の御言葉に従えば従うほど、人は自分がどんなに罪深い存在であるかを知らされます。そして、その光に照らされるなら、すべての人が罪人であるということを知らされるのです。
 人は、行いの法則によっては救われません。ただ、私たちの罪の贖いとして十字架にかかられたイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。パウロはここで、そのことを「信仰の法則によって」と言っています。信仰というのは、ただ、神様から与えられた一方的な恵みを「ありがとうございます。」と感謝して受け取るだけです。ですから、何の誇ることもないのです。
一カ所聖書を開きたいと思います。Ⅰコリント1:26~31「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」 

 「誇る者は主を誇れ」 私たちは、イエス・キリストの十字架と復活による一方的な恵みによって救われたのです。そして、私たちに与えられている賜物も、持ち物も主が与えて下さった者です。ですから、私たちに誇ることは何もありません。私たちを造り、救って下さった主を誇りとする者とさせていただきましょう。
 アメリカの自動車王ヘンリー・フォードがアイルランドの孤児院を訪問し、親のいない子どもたちのために講堂建設費二千ポンドを寄付することを約束しました。  次の日、アイルランドの新聞にこんな記事が掲載されました。「自動車王ヘンリー・フォードが、孤児のために二万ポンドの寄付を約束。」フォードが約束した金額は二千ポンドでした。ところが新聞記者が二万ポンドと間違って書いてしまったのです。そのことを知った新聞社の関係者は、フォードを訪ねて丁寧に謝罪をし、訂正記事を載せることを約束しました。 すると、ヘンリー・フォードは、笑みを浮かべてこう言いました。「すべては、神の御心です。残りの一万八千ポンドもお出ししましょう。その代わり、条件があります。その講堂が完成したら、入り口に「ヘンリー・フォードの思い出はなく、神の御心によって建てられた講堂」と刻んで下さい。」
「誇る者は、主を誇れ。」ヘンリー・フォードは、この講堂を見た時に、自分を見るのではなく、人間の間違いをも用いてこの講堂を建てて下さった神様を見上げるように、「神の御心によって建てられた講堂」と刻ませました。
 私たちも「誇る者は、主を誇れ。」、すべては神様からの一方的な恵みです。主を心から誇る者とさせていただきましょう。
(2)唯一の神への信仰

29~30「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」

  パウロは、信仰による義認は、ユダヤ人だけのものではなく、異邦人にもすべての人に与えられた救いの道であることを示すために、29~30で、神について語っています。「実に、神は唯一だからです。」  というのは、申命記6:4の引用です。6:4~5「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 

 このみ言葉は、ユダヤ人がシェマという毎日の祈りの中の最初の部分です。「我らの神、主は唯一の主である。」  と自分で唱えているのであれば、それは、ユダヤ人にも、異邦人にも、全世界の人々の神であることを表しています。 もし、そうであるならば、義認の方法においても、ユダヤ人の法則とか異邦人の法則とか別々の法則があるわけがありません。神が唯一であるならば、義認の法則もただ一つのはずです。 そして、その方法というのは「割礼のある者(ユダヤ人)も」「割礼のない者(異邦人)」も、信仰によって分け隔てなく与えられる、救いの恵みです。
「実に、神は唯一だからです。」  この神様は、ユダヤ人だけの神様ではありません。異邦人を含め、私たちの唯一の神様です。この主を、5節には「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、あなたの神を愛しなさい。」と書かれています。  私たちの心に、ただ一人の神様をお迎えしましょう。
 ある牧師が、高齢で体が不自由な信徒の家を訪問しました。その家の真ん中にはいすが一脚置かれていて、先客がいたようでした。牧師は「一番に私が来たと思っていましたが、先客がいらしたようですね。」と言いました。「ああ、この椅子のことですか。」と、その人はそのいすについて説明を始めました。「数年前から、体か不自由になりまして、祈っても眠ってしまうことが多くなりました。そんなある日、ある人がやってきて「目の前に椅子を置いて祈ってみて下さい。その椅子にイエス様をお迎えし、友人に話すように主に話してみて下さい。」と教えてくれました。それからというもの、私は椅子にイエス様をお迎えして祈ってきました。」 それから、一週間後、その人の娘さんが牧師を訪ねてきました。「先生、父が亡くなりました。父は、片手をベットの横の椅子に起き、実に安らかに眠るように亡くなりました。」
 この老人は、部屋の真ん中にイエス様をお迎えして、毎日を過ごしました。私たちは、どうでしょうか。「実に、神は唯一だからです。」  唯一人の神様を心の真ん中にお迎えしましょう。このお方は、全世界を造られ、全人類を造られ、愛しておられるお方です。このお方によって、私たちは一つになることが出来るのです。
(3)律法を確立するもの

31節「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
 信仰によって、救われるのであれば、モーセの律法は全く意味がなくなってしまうのか。これは、ユダヤ人から出てくる当然の疑問です。 神様がユダヤ人に律法を与えられたことには、重大な意味があったはずです。それを否定するかのようなパウロの発言は、ユダヤ人には神に対する冒涜であるかのように聞こえたに違いありません。そこで、ユダヤ人たちはパウロをはじめ、キリスト者を迫害し、殺そうとしていたのです。 ユダヤ人が命がけで守ってきた律法は、無駄なものだったのでしょうか。その質問に対してパウロは、「決してそうではない。」と否定しています。むしろ、律法を確立するものであるというのです。 これは、3章の結論です。20節では「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」  と言っています。そして、22節では「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」  と人が救われるのは、律法ではなく信仰によるものであり、そこには何の差別もありません。 と説き、そして、27節では「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」  と言っています。 神様は、ユダヤ人に律法を与えられ、これを守るように命じられました。もし、この律法がなければ、何が義で何が悪であるのか、人は知ることが出来ませんでした。そして、その律法を守ろうとしましたが、ユダヤ人をはじめ、すべての人が、この律法を守ることが出来ませんでした。 ただ、律法によって解ったことは、人は律法を守ることの出来ない罪深い存在であるということでした。それが、旧約聖書の歴史です。 そして、律法によって救われないことが明らかにされた時、神様は、独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さいました。そして、イエス・キリストが私たち全人類の罪のために十字架にかかって下さいました。私たちが、負わなければならない罪の身代わりに、聖い神の御子であるイエス・キリストが負ってくださり、救いの道を完成して下さったのです。
アウグスティヌスはこう言っています。「律法は威嚇すれども助けず、命令すれどもいやさず、弱点を指摘すれど取り去らず、ただ恵みとまことをもって、あとから来るべき医師(キリスト)の準備をなしたもうのである。」 人は律法によって、自分が罪人であることを知ります。そうすることによって、キリストを信じる信仰へと導く役割を果たすのです。
 三浦 元という女性がいました。 彼女は、お茶の水女子高等師範学校付属高等女学校を主席で卒業しました。頭がはじめから良かったのではなく、大変な努力をした結果でした。 彼女は、道徳を儒教から学びました。孔子と孟子の教えを遵守しようとしました。彼女は、その教えをずらりと並べて、それに日付を付け、赤線を引いて、毎日毎日、寝る前に一日の行いを振り返って、自分の行いに点を付けていたのです。 そのうちに、彼女は、毎晩毎晩、自分が欠点だらけの人間であることに気づきました。そして、どんなに努力をしても、それが容易に直せないことを知って、自分を責めるようになりました。彼女は、自分の行いだけではなく、自分の心の中で思ったことにも及んでいたからです。 結婚後、彼女は内村鑑三を通して、福音を知り、内村鑑三の弟子となって、クリスチャンとして歩み出したのです。
 彼女は、儒教的な教えを通して、自分の罪を知らされ、キリストに導かれましたが、律法もそれと同じような役割を果たします。律法を通して、人々は自分が罪人であることを知り、罪からの救い主であるキリストを信じる信仰へと導かれていくのです。
 もし、私たちが、律法によって罪を示されるだけで終わってしまったら、これほど辛く悲しいことはありません。律法は、私たちに罪を示し、悔い改めへと導きますが、イエス・キリストは、その罪を赦してくださるために十字架で、私たちの罪の身代わりに命を捨ててくださったのです。そこにこそ、救いがあります。
最後にもう一度27節をご覧ください。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
 人は行いによって、救われるのではありません。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。今、罪を示されている方がおられるでしょうか。もし、罪が示されているならば、それは、救いと聖潔にあずかる絶好のチャンスです。その罪を前で悔い改めて、イエス・キリストの十字架を信じてゆるしていただき、恵みの中を歩ませていただきましょう。

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日  8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日  8:45〜

                    9:35〜

 

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日19:30〜

 

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Illustration by c-awase