今日は、川上義也兄、川上英子姉、川上陽一兄、川上則子姉の4人の転入会式が行われます。 特に、今日は、4人を代表して、川上義也兄のお証しをお聞きすることが出来、本当に感謝です。 今日の礼拝に、川上さんが8人出席しておられます。これに、拓くんと望くんが帰ってくれば、10人です。 その、川上家の信仰の源は、川上義也兄のお父様、長一さんと奥さんのタダヨさんです。 川上義也さんが、「一粒の麦として」という題で「かんらん」という機関誌に証しを乗せておられますが、その最後にこう書かれています。「戦死した父の信仰が、弟である叔父夫婦や、妹である叔母夫婦にも種が蒔かれました。その家族に繋がる息子夫婦、そして孫にも継承しているのです。」 信仰が継承されていくことは、神様の御心です。そして、そのことを神様がどんなに喜んでおられるか解りません。
今日の中心の御言葉は3節です。
「聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」
3:21~31で、パウロは信仰による義認(人は行いによって救われるのではなく、ただ信じるだけで、義と認められるのだということ)について語ってきました。 そして、4章では、その実例として、アブラハムとダビデを出して、信仰による義認が、アブラハムの時代から、ダビデの時代、そしてパウロの時代まで継承されていることを証しているのです。 そして、それは、パウロの時代にとどまらず、今の私たちにも継承されているのです。何と素晴らしい事でしょうか。その素晴らしい恵みについて主の御声を聞かせていただきましょう。
(1)アブラハムの信仰
アブラハムというのは、ユダヤ人にとって信仰の父と呼ばれるほど、祝福の源として選ばれた特別な人物でした。そして、自分たちはそのアブラハムの子孫であるということを、最も大きな誇りにしていました。
そのアブラハムのことを1~3節でパウロはこう言っています。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」
この「」の言葉は、創世記15:6の引用です。創世記15:5~6節(P19)「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
これは、神様がアブラハムに与えられた祝福の約束です。神様はこの時、アブラハムに「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
とおっしゃいました。そして、こう言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」何と素晴らしい約束でしょうか。この時は、まだ、カナン地方には、アブラハムの家族だけしかいませんでした。しかし、そのアブラハムに、星の数を数えることができるなら、数えてみなさい。」と言われ、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束されたのです。
そして、やがてこの約束通り、アブラハムの子孫は星の数のように多くなっていくのですが、どうして、この約束は成就したのでしょうか。6節にカギがあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
アブラハムは、完全無欠の人間ではありませんでした。アブラハムも私たちと同じように多くの罪を犯したのです。ですから、律法によって義とされるのであれば、このアブラハムに与えられた約束は、成就することはできませんでした。しかし、聖書は、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と書いているのです。 これは、律法による義ではなく、また行いによる義ではなく、ただ、アブラハムの信仰によって、彼は義と認められ、彼は「信仰の父」として、ここで約束された驚くべき約束が成就されたのです。 あの信仰の父アブラハムでさえ、そうであるならば、まして、彼の子孫であるユダヤ人が、また、新しいイスラエルと呼ばれるわたしたちクリスチャンが、どうして、律法や行いによって義とされることが出来るでしょう。ただ、神様は私たちを愛して下さり、救いの約束を与えて下さいました。その一方的な恵みを信じる信仰によって、私たちも義と認められるのです。
ある所に、花屋のおばあさんがいました。人生の嵐をたくさん経験したためか、顔には深いしわがあり、髪の毛は真っ白で、背中は曲がっていました。 ところが、そのおばあさんは花を売りながらいつも笑顔を絶やしませんでした。おばあさんを見ていた人々は、その笑顔の秘訣が一体何なのか気になってきました。 そこで、ある日そのおばあさんに尋ねたのです。「おばあさんはいつも嬉しそうで。顔が穏やかですね。おばあさんには、問題や苦しいことはないのですか。」すると、おばあさんは、びっくりしたような顔をして「まさか。私だって心配事を積めば、トラック何百台にもなるんですよ。」「そうなんですか。では、なぜ、おばあさんはいつも明るく嬉しそうにしておられるのですか。」 すると、おばあさんはこう答えました。「聖書に、イエス様は十字架にかかられて死なれ、三日後によみがえられたとあります。ですから、私もつらい事や苦しいことがある時、三日だけ待とう。人生には苦しみの金曜日だけではなく、復活の夜明けもあるのだから、と自分に言い聞かせるのです。そうやって、三日じっと待つと、いつも主が喜びを与えてくれて、良いことに巡り会うようにしてくださるのですよ。」 このおばあさんの信仰は、本当に素晴らしいものです。おばあさんは「子どもたちは、みんな家を出て行って、なぜ、こんな年になっても、こんなに苦労をしなければならないの。」と嘆こうと思えば、いくらでも嘆くことはあると思います。 しかし、おばあさんは、否定的な思いが浮かぶ度に、イエス・キリストの復活を思い出し、それに打ち勝つというのです。このように、悪いことも最善に変えて下さると信じて生きる人生が、私たちクリスチャンに与えられた信仰です。6節「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
私たちも、最善をなして下さる主を信じて、祝福された人生を歩ませていただきましょう。
(2)ダビデの信仰
4:6~8「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
詩編32:1~2(P862)「【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」
この詩編は、ダビデが、ウリアの妻バテシェバに対して姦淫の罪を犯した時にうたわれた悔い改めの詩編です。 この詩編には、自分の犯した罪と、それから来る魂の悩みを深刻に言い表しています。姦淫の罪を言い表さなかった時には、魂が苦しみうめきました。しかし、それを神様の御前に告白した時に詩編32編5節にはこう書かれています。「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。」
この罪の贖いは、どうなるのでしょうか。当時は、傷のない小羊が祭壇で全焼のいけにえとしてささげられなければなりませんでした。 そして、その罪の贖いの業は、新約の時代にイエス・キリストによって完成しました。罪のない神の子イエス・キリストが罪の身代わりとして、あの十字架上で、ただ一度だけ贖いの供え物なって下さったのです。 ただ、ダビデが、神様を心から信頼して、その罪を告白した時に、罪が赦されたように、私たちも、罪を悔い改め、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって罪が赦され救いの恵みに与ることが出来るのです。
ある時、一人の婦人が、両手に一杯の砂を持って、牧師のところにやってきたそうです。「先生、わたしの罪は、この砂の数を数え切れないように多いのです。どうすればゆるされるのでしょうか。」と尋ねました。 すると、その牧師は、「その砂をもとあった海辺に持って行きなさい。そして、その上にもっとたくさんの砂を積んで、砂の山を作ってみなさい。やがて、大波が打ち寄せてくると、ただ一度で、その山が全部流されていくのを見るでしょう。そのように、イエス・キリストによる神の恵みの大波は、あなたの山のような罪を、一挙に洗い去ることが出来るのです。」と言ったそうです。
Ⅰヨハネ1:7(P441)「 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
とあるとおりです。 ここに「あらゆる罪が」とあります。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、赦され、そればかりか清められるのです。しかもこの「あらゆる罪から清められます。」という言葉は、現在形が使われて、過去に一度の出来事ではなく「清め続けられます」と日々の聖化を表す言葉です。過去に一回だけ罪が清められるというのではなく、御子イエスの血によって清め続けられるのです。何と素晴らしいことでしょう。このイエス・キリストの十字架を信じ続けて、罪赦され、清い生活をさせていただきましょう。
(3)割礼について
4:9~10「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。」
ユダヤ人は、ユダヤ人として割礼を大変重んじていました。例えば、ユダヤ人は勿論ですが、他国の人がユダヤ人に回心する時には、必ず割礼を受けなければなりませんでした。 また、ユダヤ人は、ユダヤ人の割礼の祈りに「ほむべきかな、母の胎内から愛する者を聖別し、彼の民に礼典をさずけ、聖なる契約のしるしをもって、彼の子孫を確認したもう方は。」という祈りがあります。 また、ラビは礼典を次のように定めています。「アブラハムのしるしがなんじの肉体にないならば、過ぎ越しの食事にあずかることはできない。」 ユダヤ人にとって、無割礼の者は、ユダヤ人ではなかったのです。
しかし、パウロは、本当に大切なのは、目に見える割礼というしるしや礼典ではなく、神を信じる信仰こそが大切だと言っているのです。 パウロには、ユダヤ人が反駁できない論証を持っていました。11~12「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」
それは創世記を開くとこのこのがはっきりと解ります。 先程開いた創世記15:6に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とありますが、それから、約14年経って、アブラハムは、アブラハムが神の祝福のしるしとして割礼を受けたということです。
創世記17:10~11(P21)「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」
創世記15:6で「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 と書かれてから、契約のしるしである割礼を受けるまで、14年間ありましたが、その間、アブラハムは神様の祝福に預かっていなかったのでしょうか。そうではありません。アブラハムが割礼を受けなくても、受けた後も、同じ神様の祝福に与っていたのです。このことから、二つの事が言えます。
①アブラハムは、割礼を受けた者の父ではなく、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」 とあるように、神を心から信じ信頼する者の父であるということです。
②割礼を受けているからといって、真のユダヤ人ではないということです。ユダヤ人には真の血統のユダヤ人もいましたし、外国人の中にも回心をして割礼を受けてユダヤ人もいました。しかし、割礼を受けたからといって、真の意味でのアブラハムの子孫で背あるということは言えないということです。 大切なのは、割礼や礼典などのしるしではなく、心から主を信じ、主に従う信仰です。
私たちは、どうでしょうか。私たちは割礼を受けていません。なぜなら、イエス・キリストを信じる信仰によって、割礼や律法から解放されたからです。 しかし、私たちにもイエス・キリストを信じたしるしが与えられています。聖礼典と呼ばれるもので、洗礼式や聖餐式です。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、洗礼の恵みに与り、聖餐の恵みに与っています。その聖礼典は、主イエス様が与えて下さった素晴らしいものですが、もし、それが形だけのものになってしまっていたら、それは空しいものです。 一番大切なのは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰です。そして、そのことへの感謝と賛美です。その信仰にしっかりと立ち続けましょう。
海の上を飛び跳ねるイルカには、特別な才能を持っています。イルカは、高い周波数の超音波を出して、物体に反射した音で、餌を探したり、障害物を避けたりすることができるのです。 しかし、そのイルカでも、油断をして網に引っかかってしまうことがあるそうです。デューク大学の海洋研究室の博士はこう言っています。「イルカは、そのような特別な探知能力があるにもかかわらず、外部からの注意を乱す刺激物によって注意力を失い、あやまって網に引っかかってしまうことがあるのです。」 それは、ちょうど運転手が気をゆるめたために、交通事故に遭うのと同じです。確かに、運転手は、免許書をもっていますが、油断して、大きな事故を起こしてしまうことがあります。 免許書を持っているから、事故を起こさないという保証にはなりません。それと同じように、家族がクリスチャンだから、洗礼を受けたから、聖餐式を受けているから、礼拝をささげているからと目に見えるものが、救いの保証ではありません。 しかし、幸いなことに、すべてのクリスチャンには、神への信仰が与えられています。クリスチャンにとって障害物をあらかじめ探知して裂ける方法が、信仰のほかにあるでしょうか。信仰は努力によって与えられるものではありません。一方的な神様からの贈り物です。だからこそ、尊く価値があるのです。 その信仰のアンテナを油断することなく、しっかりと立てて、私たちの信仰生活を歩ませていただきましょう。
最後に箴言4:23をご覧ください。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」 何を守るよりも、自分の心を守れ、その中で一番大切なのは、イエス・キリストを信じる信仰です。そこにこそ、命の源があるのです。アブラハムは、その信仰によって「祝福の源」として用いられました。
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」 アブラハムの信仰が祝福の源として用いられたように、私たちも私たちの家族、友人、知人の祝福の源として用いていただきましょう。
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