主日礼拝 7/14

「希望は欺くことがありません」ローマ5:1~11

早いもので2013年も半年が過ぎました。半年前に与えられた、山形南部教会の年間聖句を覚えておられるでしょうか。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ12:12

イサクプロジェクトのためにお祈りをありがとうございます。この働きを通して、「希望」を持ち続けることの大切さを教えられています。最初は、早股の朝どりで3本の井戸を掘りましたが、どれもうまくいかず、井戸は仕えませんでした。また、先週は場所を変えて、ボランティアセンターのある下野郷で井戸を掘りました。最初の一本期待をして掘りましたが、水の量が少なく塩分濃度が高くて使えませんでした。もう駄目かなと思ったその日です。もう一本井戸を掘ったのですが、その井戸は、今までの中で一番土の質が悪く、ヘドロのような土がどんどん出てきました。ところが、その穴に、パイプを入れて水をくみ上げると、水がこんこんと湧き、その塩分濃度も、前の三分の一でハウスでも仕える水が湧き出たのです。思わず「神様感謝します。」と感謝の祈りをささげました。そして、希望を持ち続けることの大切さを教えられたのです。

今日の中心の御言葉は5節です。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 ローマの信徒への手紙4章まで信仰義認「人はただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われる」ということについて語ってきたパウロですが、今日読んでいただいた5章には、義とされた者に、どのような祝福が与えられるのかが書かれています。この聖書の箇所を三つに分けてお話ししたいと思います。

 

(1)神との平和

 信仰義認によって与えられる最初の祝福は、神との平和です。そのことが、1節にはっきりと書かれています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

 今日は、曇り空になりました。今日も確かに太陽は輝いているのですが、太陽と私たちの間に雲があると、太陽を見ることが出来ません。それと同じように、神様は確かに生きておられ、私たちを愛しておられますが、神様と私たちの間に雲があると、神様が私たちを愛しておられることが解らないのです。しかし、その私たちの罪のためにイエス・キリストは、十字架にかかって下さり、救いの業を完成して下さったのです。そして、そのイエス・キリストによって、神様と私たちとに「平和」が与えられたのです。

 今日、天地万物を造られ今の支配しておられる、万軍の主を、何の妨げもなく礼拝出来るとは何と素晴らしい恵みでしょうか。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、神様との平和が与えられました。それは本当に素晴らしい事ですが、もっと大切なことは、その神様との平和を持ち続けることです。どうすれば、その神様との平和を持ち続けることが出来るのでしょうか。私たちが何か努力をして、この祝福を持ち続けていくのでしょうか。そうではありません。信仰によって、私たちは義と認められたのですから、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、守り通すことが必要なのです。

 エフェソの教会は、信仰によって始まったのに、律法による行いによって、信仰を全うしようとして、道を誤ってしまいました。そこで、パウロは、ガラテヤの信徒への手紙を書き、特に2:14~16(P354)にはこう書かれています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 平和とは、何よりも神様と私たちとの和解にあります。罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる時、その結果として心の中に平安が与えられるのです。 この世の平和は、一時的なものです。例えば、美味しいものを食べる、良い音楽を聴く、スポーツをする、仲の良い友だちとおしゃべりをする。確かに神様は、それらのものも用いて、心に平安を与えて下さいます。しかし、それらのものはメッキをした飾りのようなもので、やがてははげてしまうのです。変わることのない平和は、イエス・キリストの十字架によってだけ与えられるのです。そのように本当の平和は、神様が与えて下さるものです。罪を悔い改め、神の元立ち返るなら、平安が与えられます。また、神様のみもとに帰ったのであれば、もう何も恐れる必要がありません。神様がいつも私たちと共にいて下さるからです。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって始めたのですから、信仰から信仰へと、ただイエス・キリストを信じる信仰によって歩ませていただきましょう。

 

(2)神から与えられる希望

3~5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

パウロは、3節の前半で、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」と言っています。私は、出来れば苦難はなければ良いと思いますし、苦難が襲ってくるとできるだけ避けて通りたいと思います。みなさんはどうでしょうか。しかし、パウロは、苦難を真っ正面から受け止めて、「苦難をも誇りとします。」と言っているのです。パウロは、宣教のために多くの苦難を受けてきました。聖書の中に数多くのパウロの苦難が書かれていますが、そのリストが書かれている箇所があります。

Ⅱコリント11:23~28(P338)「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

 これほどの苦難を受けて、良く生きていたと思うほど、パウロは、キリストの故に苦難を受けてきました。なぜ、パウロはこれらの「苦難をも誇りとします。」と言い切ることが出来たのでしょうか。一つは、イエス・キリストの十字架を見上げていたからです。イエス様は、全人類の救いのためにこの地上に来られました。そして、全ての人の苦難や罪をその身に背負って十字架にかかられたのです。パウロは、そのイエス・キリストの十字架を見上げ、自分も、キリストの故に苦難を受けることによって、そのキリストに倣う生涯を歩ませていただいていることを誇りに思ったのです。しかも、イエス・キリストが十字架によって神様の愛と栄光を表されたように、パウロも苦難を通して神の栄光が表されることを信じていたのです。

 そして、パウロは3~4節にある苦難を、個人的な一人のキリスト者としての成長として語っています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」まず、パウロは「苦難は忍耐を」生むと言っています。この「忍耐」という言葉は消極的な、じっとがまんをするという性質ではなく、消極的に堅く立っているというものです。

マタイ10:22「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 6月26日は宗教弾圧記念日でしたが、あの弾圧によって殉教の死を遂げた、私たちの群れの小出崩治先生が、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という言葉を最後まで大切に握りしめていたとお聞きしましたが、先生は、殉教という苦難の中でも信仰を守り通す、「忍耐」を身につけて、私たちに信仰という宝物を受け継がせて下さったのです。次ぎに、パウロは「忍耐は練達を、」生み出すと言っています。練達は精錬するという意味があります。忍耐を通して、私たちは精錬された聖潔られたクリスチャンに変えられていくのです。

 さらに、パウロは、「練達は希望を生むということを。」と言っています。良く、希望という言葉が、「そうなればいいね。」というような軽々しい言葉で使われますが、ここで、パウロが使っている言葉は、そのような軽々しい言葉ではありません。先程お話しをしたように、パウロ自身が苦難を経験しましたが、そこに神様が共におられ、神の栄光に与って、苦難から忍耐を、忍耐から練達を生み出すようにしてくださった。パウロは、そのような信仰と体験があったので、この神様は永遠の希望を与えて下さるお方であるとはっきりと語ることが出来たのです。そして、その希望について5節でこう言っています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」「希望はわたしたちを欺くことがありません。」とパウロは言っています。神様が与えて下さる希望は、クリスチャンが地上の生活で受ける場合も確実で、終末的希望においても確実なのです。なぜでしょうか。その希望に対する確かな根拠が5節の後半に書かれています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神の愛が注がれているから、わたしたちの希望は確実です。普通、「希望」というと未来のことを表します。それも確かな希望ですが、パウロは、ここで十字架によって表された神様の愛に目を向けて、この十字架を希望の根拠にしています。神様の愛は、イエス・キリストの十字架で頂点に達しています。神様は御子をさえ惜しまずにわたしたちに与えて下さいました。それは、この世の全ての者を与えてくださる以上愛です。ローマ8:32「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」それほど、わたしたちを愛して下さる方が、わたしたちの生活に必要なすべてのものを与えて下さらないはずがありません。この十字架を見上げる時、決して変わらない希望が与えられるのです。

3~5節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。この言葉を、スポルジョンは、ヤコブがベテルで見た、天へのはしごだと言っています。たとえ、今、苦難があったとしても、そのはしごは、忍耐、練達と繋がって、必ず希望の天に登ることが出来るのです。どのような苦難もそのはしごは、天国への希望へと繋がっているのです。希望をもって、神様が備えて下さっているはしごを、一歩一歩登らせていただきましょう。

(3)神の怒りからの解放(9〜11)

1~8節までが、現在のことについてであれば、9~11節までは終末についてです。それは、神の怒りからの解放です。

9節「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

 パウロにとって、現在神様との和解が与えられていることは、素晴らしい事でした。しかし、それは、永遠の救いへの始まりです。最後の審判の時、神様の御前に立って「罪なし」と宣言され、さばきの火の中に投げ込まれない完全な救いの日がやって来るのです。十字架の血によって、今、義と認められているのであれば、永遠の滅びの審判がクリスチャンに望まないことは、もっと確実なことです。

10~12節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

 「敵であったときでさえ、」とありますが、それはわたしたちが「罪人」であった時です。その神様に背を向けて、敵として歩んでいる時でさえ、神様の愛は私たちに注がれていました。そして、その私たち罪人のために、イエス・キリストは十字架の死によって神との和解を与えて下さったのです。まして、神様との和解を与えられ、神の子とされた今は、御子の命によって与えられるのはなおさらです。

 ドイツの田舎に、貧しいピアニストが住んでいました。自分の演奏会に大勢の人を集めるために、有名な音楽家リストの弟子であると自称していました。ところが、演奏会を開く予定の町に、こともあろうに本物のリストが現れたのです。それを知った無名のピアニストは、悩んだ末、リストを訪ねて、事の次第を打ち明けました。「わたしは、孤児として育ち、貧しい中で必死にピアノを学んできました。ところが、私はとんでもないことをしてしまいました。今回のピアノの独奏会を開くのに、先生、あなたのお名前を盗んであなたの弟子であると印刷してしまいました。どうか、赦して下さい。」すると、リストが言いました。「君は、確かに大きな過ちを犯したが、過ちなど誰でもするものだよ。さぁ、ここでちょっと演奏してみたまえ。」彼は、大音楽家の前で震えるような思いで、ピアノを弾きました。リストはその演奏を聴いて、いくつかアドバイスをしました。そして、リストはこう言いました。「たとえ、短い時間でも、私が君を教えたのだから、今や君は私の弟子だ。演奏の最後の曲は、師匠の私が演奏すると公言したまえ。」この無名のピアニストは、夢を見ているような感じでした。自分の過ちを赦してもらっただけでも感謝なのに、あの有名な音楽家リストが、こんな私のことを、弟子と呼んでくれ、しかも、私の演奏会の最後に、リスト先生が演奏してくれると約束してくれたのです。演奏会は大成功に終わりました。

 悔い改めは、平和をもたらすカギです。心から罪を悔い改めるならば、イエス・キリストの十字架によって、その罪を赦し、神と人との間に、また、人と人との間にと和解を与えて下さるのです。そのような恵みに与っているのですから、パウロが、「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。」と言っているように、主イエスを誇りとして、生きていきましょう。


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase