主日礼拝 7/21

「なおいっそう満ちあふれる恵み」ローマ5:12~21

今日は、菊田恵子姉のお証しを聞くことが出来、感謝しています。 最近、ある方が、「私は菊田恵子さんのようなクリスチャンになりたいわ。黙ってもくもくと奉仕をしている姿に大切なことを教えられています。」と言っておられました。 聖潔られた人の姿は、人それぞれ様々ですが、その言葉を聞きながら、菊田恵子さんの心の中に主が共におられ、清い器として、用いられていることを覚えて感謝しました。   今日は、ローマ5:12~21を読んでいただきましたが、この5:12~8:39までは、聖化について、書かれています。

 

今日の中心の御言葉は20節です。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
  今日の聖書の箇所には、二通りの「一人の人」の事が対照的に書かれています。一人は、アダムで、人間の罪深さの根源として、アダムの罪が書かれています。もう一人は、イエス・キリストで、イエス・キリストはこの罪の根源から救ってくださる事が書かれています。


(1)アダムの罪

12 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」  「一人の人によって罪が世に入り、」  と書かれていますが、これは、創世記3章の事を表しています。アダムとエバが、食べてはならないと言われていた創世記2:16,17「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と戒めが与えられますが、エバが、ヘビに誘惑されて、その善悪の知識の木から取って食べてしまいます。これが、人類が最初に犯した罪です。 それまでは、アダムもエバも神様の戒めを守って、罪の死もない平和なエデンの園で暮らしていたのです。ところが、アダムとエバが、神の戒めに背いた時、人類に始めて、罪や死が入り込んだのです。

 そのことは、Ⅰコリント15:22にも書かれています。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」  一人の人、アダムが神の戒めに背いた時に、アダムとエバの中に罪と死が入り込みました。しかし、それはアダムとエバだけではありません。アダムとエバの子孫として生まれた、全人類の中に罪と死が入り込んだのです。12節をもう一度ご覧下さい。 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」  この最後に「すべての人が罪を犯したからです。」とあります。 このように、アダムによって、全人類に根源的に深く、また普遍的に及んだのです。これは、全人類が持って生まれた、原罪というものです。
  そして、この罪は、律法について、はっきりと表されたのです。13,14「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」
  罪は、律法によって規定されないならば、それが罪であるかどうかは解りません。 例えば、道路交通法がなければ、交通違反で捕まることはありません。 実は、10日程前、警察に捕まってしまいました。車を運転していると、携帯電話が鳴り始めたのです。携帯を見ると、大切な先生からの電話でした。そこで、すぐに電話を取り、話していると、目の前に警察官が、赤い旗を振りながら、交番の中に入るように誘導されたのです。「しまった」と思ったのですが後の祭りでした。6000円の罰金と免許証を1点引かれてしまいました。 私が悪かったのですが、あれは、道路交通法で定められているからです。もし、定められていなければ、電話をいくらしても捕まりませんし、みんなが平気で罪を犯し、事故に繋がってしまいます。
 そのように、人が罪があると定められるのは、律法によるものです。 ところで、この律法は、いつ与えられたのでしょう。それは、モーセの時代です。モーセがホレブの山に登った時、神様は、石の板に10の戒めを与えられました。それが、最初に与えられた律法です。 ということは、モーセ時代以前の人々には、律法がなく、明らかに罪と指摘する基準がなかったことになります。アダムには、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」  という神の戒めが与えられ、その規定に背いたので、エデンの園から追放され、死に定められました。しかし、そのアダム以後の人々は、アダムと同じ戒めが与えられたわけではありませんでした。それにもかかわらず、「死の支配をまぬかれなかったのです。」  それには、どういう意味があるのでしょうか。それは、アダムが罪を犯したため、すべての人に罪が入り込んだということです。それは、律法によって明らかにされなくとも、死の事実によって明らかにされているのです。 アダムの罪は、アダムだけに死をもたらしたのではなく、アダムは人類の代表で、アダムの罪はすべての人に受け継がれ、死をもたらしたのです。


(2)アダムとキリスト

14「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」

  14節の終わりに、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」  と書かれています。これは、アダムが古い人の代表であり、キリストが新しい人の代表であることを表しています。 そのことを前提として、15節以下では、アダムがもたらしたものは何か。キリストがもたらしたものは何か、4つの事が対比されています。
①15節「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」  ここには、アダムによって、死がもたらせ、キリストによって恵みと賜物が豊かに注がれていることが書かれています。

②16節「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」  ここではアダムの罪による裁きと、キリストによる義認の恵みが対比して書かれています。③17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」  ここには、アダムによる死の支配と、キリストによる命の支配が対比されています。④18,19「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」  アダムによる不従順と、キリストによる従順が同じように対比して書かれています。
 そして、15節と17節に「なおさら」という言葉が、2度出てきます。  恵みの力は罪に勝ります。死は多くの人に及びましたが、恵みは多くの人にあふれるのです。ひとりの人アダムのために死が多くの人に及んだのなら、15節後半にあるように 「なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」  この「豊に注がれる」という言葉は、原語では「十分よりなお多く」と言う意味があります。「十分よりなお多く」とは、どのような恵みでしょう?どんなにあふれるばかりの恵みであるかを示しいています。 アダムひとりのために死がすべての人にとどまり、すべての人が死のもとに置かれたとすれば、「なおさら」一人の主イエス・キリストを信じる恵みによって、恵みと義の賜物といのちを受けて、キリストと共に生き、支配するようになるのです。何という恵みでしょうか。 そして、そのイエス・キリストの救いに与った、一人人の救いが、多くの人を救いに導くのです。
 チャールズ・フィニーは、1821年にイエス・キリストを信じ、伝道者になってアメリカでリバイバルの大きな働き人となりました。 ある日、フィニーがある村で集会を開いていると、その集会に出席していた老人に声をかけられました。「私の町にも来て、説教をしていただきませんか。町の人たちは、キリスト教の説教を一度も聞いたことがないのです。」この老人に頼まれて、フィニーはその町に行くことにしました。 その町に着いたフィニーは、創世記19:14から、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」  と滅亡しようとしていたソドムとゴモラに語られたメッセージを語り、悔い改めるようにと語りかけました。すると、人々は最初は、反感をあらわにしていましたが、やがて、一人二人とうなだれて、悔い改めが町を覆いました。そして、その悔い改めが、周辺の町にも広がっていったのです。 後に、フィニーは、この出来事についてこう話しました。「私はこの町について何も知りませんでした。二度目にこの町を訪ねてわかったことですが、この町は罪深い町であることから、ソドムと呼ばれていたそうです。そして、何と、私を導いてくれた老人は、ロトと呼ばれていたのです。この町で、キリストを信じていたのは、この老人だけでした。」 一人の義人の存在と、その忍耐によって、このリバイバルが起きたのです。 ただ一人の救い主である、キリストを信じる時、私たちも変えられて、この一人の老人のような証し人として用いられるのです。
18,19「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
 私たちは、一人の従順なイエス・キリストによって救われました。その救われた一人として、イエス・キリストの証し人として用いていただきましょう。


(3)なおいっそう満ちあふれる恵み

20,21「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

  20~21は、12節以下の結論です。 律法によって、私たちが、どんなに罪深い者かを知らされます。しかし、その罪を知らされた時が、恵みをいただくチャンスです。 律法のない時は、自分が罪を犯していることすらも知らず、ただ死に向かって生きていました。しかし、モーセの時代に律法が与えられ、善と悪が知ることが出来るようになりました。そして、律法の光に照らされれば照らされるほど、ユダヤ人はどんなに自分たちが罪深い者かを知らされたのです。 しかし、私たちは、それで終わりではありません。主イエス・キリストによる救いが約束されているのです。そのイエス・キリストによって、恵みがあふれ、罪が赦されて義と認められ、永遠の命が与えられるのです。 聖書を読めば、読むほど、また、御言葉に従おうとすればするほど、自分の罪深さを知らされ、弱さを知らされることがあります。しかし、そのような時こそ、私たちが聖潔の恵みに与るチャンスです。 神様の御心は、私たちが清くあることです。

Ⅰテモテ1:15,16「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。」

 神様は、聖書のみ言葉によって、私たちの罪や弱さを教えて下さいます。それを自分の努力や行いによって、清くなろうとしたら、それは本当に苦しい信仰生活になってしまうでしょう。罪は自分ではどうすることも出来ません。ただ一人のお方、私たちの罪のために十字架にかかられたイエス・キリストだけが罪を赦し、聖潔てくださるのです。
 神様は、最初から私たちの罪深さを全部示されません。もし、示されたら自分の罪深さに絶望してしまって生きる希望を失ってしまでしょう。しかし、キリストに従えば従うほど、神様は私たちの心を明るく照らしてくださり、自分がどんなに、自己中心で罪深いかを知らされるのです。それは、私たちを苦しめるためではなく、私たちに清くなって欲しいからです。そして、私たちが、私たちの聖潔主であるイエス・キリストの御前に行き、罪を悔い改めるならば、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」Ⅰヨハネ1:7  その十字架の愛と恵みは、私たちが罪に苦しむ苦しみに比べると、比べ物にならないほど、素晴らしいものです。 「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」と書かれている通りです。
 天路歴程を書いた、ジョン・バニヤンは、自伝を書いていますがそれに「いやまさる恩恵の記」という題をつけています。それは、つまり、20節に「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」とあるように、こんな自分のような罪人さえ、あふれるばかりの恩寵が与えられたと感謝しているのです。  ジョン・バニアンの伝記を読むと、彼は、そんなに大罪人であった訳ではありませんでした。しかし、彼は自分の心の中にある罪を深く知らされ、こんな罪人である私が、救われて、滅びから救われ、清められて神の器とされたことを感謝しているのです。そればかりか、伝道をして投獄された時も、その獄中で「天路歴程」を始め、多くの本を書くことが出来たこと、その恵みの数々を思い起こして、「いやまさる恩恵の記」を書いたのです。
 私の愛唱聖歌の一つに、新聖歌376番があります。「いかに汚れたる」という聖歌です。いかにけがれたるものの心をもきよめたもう主はげにほむべきかな、その聖歌の折り返しにこうあります。「罪、汚れはいや増すとも、その恵みもまたいや増すなり。」 どんなに、私たちに罪が示されても、イエス・キリストの十字架の恵みと愛は、遙かに勝り、私たちを清めてくださるのです。
 最後に20節を読んでお祈りをしましょう。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」
 私たちが、罪を赦し、清めてくださる、たった一人のお方がおられます。私たちの主イエス・キリストです。そのお方によって、罪を赦していただき、と主と同じ姿になるまで、聖潔から聖潔へと歩ませていただきましょう。

 

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Illustration by c-awase