主日礼拝 8/25

「聖なる生活の実を結ぶ」ローマ6:15~23

22日~今日まで、ギデオン協会の全国大会が山形の国際ホテルで行われ、400人近くの方々が全国各地から集われましたが、今日は、その中から選りすぐりの4人の兄弟姉妹がこの礼拝に出席しておられます。 メアリー・パトリックさんは、ギデオン協会の夫人の国際部の代表をしておられます。三浦兄と石井姉、東京の事務局から来られました。それから、町田から長岡兄弟、後からギデオンの報告と証しをしてくださいますが、近藤兄弟が名古屋から来られておられます。 そして、私がとても感謝をしていることは、長岡兄弟と、近藤兄弟はMSR+(宮城復興支援ボランティア)で一緒に汗をかいてボランティアをしてくださったことがあることです。 そのように、御言葉を直接渡すご奉仕と共に、愛の行いによって御言葉を実行しておられる兄弟姉妹を心から歓迎したいと思います。そして、その蒔かれた御言葉の種によって、豊かな実を結んでおられるお証しを昨晩、牧師招待愛餐会が行われましたが、その席で伺うことが出来感謝しています。
今日の中心の御言葉は、23節です「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

 

今日の中心の御言葉は、23節です「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」
 「聖なる生活の実を結んでいます。」とありますが、私たちの信仰生活の中で実を結ぶことは大切なことです。今、MSR+で植えた野菜の苗が、実を結んでいます。ズッキーニやキュウリ、トマトやカボチャ、ナスやトウバン、中には大きくなりすぎてお化けのような野菜もあります。 そして、それらのものを収穫することは、大きな喜びの時です。 そして、それらの実を見ながら、私たちの内側にも、豊かな実を結ぶ者でありたいと思わされるのです。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」

  この御言葉を中心に、今日は主の御声を聞かせていただきたいと思います。
 今朝は、15~23節を読んでいただきましたが、15節からパウロは、奴隷の例えを用いて、献身について語っています。

15~16節「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」
  ここで、パウロは、「罪に仕える奴隷」と「神に従順に仕える奴隷」と二種類の奴隷について語っています。私たちは、救われる前は、罪の奴隷でしたが、イエス・キリストの十字架の贖いによって救われて「神の奴隷」と造り変えられたのです。
  ローマ世界には奴隷制度があり、奴隷はよく見かけられていました。 奴隷というのは、自由が認められず、必ず主人に服従しなければなりませんでした。奴隷は主人の所有物で、二人の主人に仕えることは出来なかったのです。パウロは、そのような奴隷のことを例に出して、私たちが、罪の奴隷から、義の奴隷とされた恵みと喜びを語っているのです。
 「神に従順に仕える奴隷」とはどのような人でしょうか。その恵みと祝福について3つの事をお話ししたいと思います。


(1)伝えられた教えの基準に心から服従すること

17節 「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、」

  ここに、ここで、「神に従順に仕える奴隷」というのは、「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに従う人」だと書かれています。 この「教え」というのは、初代教会から伝えられてきた福音です。当時は、まだ、私たちが持っているような聖書はありませんでしたから、福音は、弟子たちの口によって伝えられていたのです。そして、その教えは大切な内容であって、一つの基準になっていました。そのようにして初代教会は、福音を土台として建てあげらていったのです。この「伝えられた」という言葉(ギリシャ語では、パレドセーテ)という言葉には、手渡されたという意味があります。つまり、イエス・キリストの十字架の復活の福音が、神様から初代教会に委ねられたのです。そして、その伝えらた教えを信じて受け入れる時、人は罪から解放されて救われるのです。
 Ⅰコリント15:3~5には、初代教会が一番最初に告白した信仰告白が記されています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」

 そして、この初代教会で告白されていた、信仰告白が私たちにも「伝えられ」手渡されて、私たちが「罪から解放されて」救いの恵みに与っているとは何という恵みでしょうか。 昨日ギデオン協会の全国大会の牧師招待愛餐会の中で、ギデオンの働きについての報告がありました。この一年間に8460万部の聖書が手渡されたそうです。それを、1分に計算すると160冊、そして、それを一秒に計算すると2,6冊になるそうです。そして、その聖書を通して福音を「伝えられ」イエス・キリストを信じる人たちが起こされている、素晴らしい数々のお証しをお聞きしました。  私たちも、誰かから福音を伝えられたから、イエス様を信じることが出来ました。また、ギデオン協会の方々が、キリストの愛を込めて、一冊一冊手渡されるように、私たちも、福音を誰かに手渡されたからこそ、今クリスチャンとして素晴らしい人生を生かされているのではないでしょうか。 リレーの選手が、バトンを渡すように、私たちも福音というバトンを渡されました。その福音を、次の人に手渡ししようではありませんか。


(2)聖潔の恵み

19節「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

22節「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」 

 神の奴隷として仕える人に与えられる祝福は、聖潔です。この「聖い」という言葉は、ギリシャ語で、ハギアスモスという言葉が使われていますが、この言葉には二つの意味があります。
  第一は、「聖化」(サンクティフィケーション)と英語で訳されている意味で、その内容は、聖くなっていく過程に強調点が置かれています。人は救われて罪が赦され、神の子とされますが、その後、だんだん聖潔られていくという意味です。
 第二は、「聖潔」ホーリネスと英語で訳されている意味です。これは、結果としてのある聖い状態を表しています。 ハギアスモスという言葉は、もともと神について言われているのだから、本来は聖い状態を意味しているというのです。 さて、私たちは、「聖潔」をどのように考えればいいのでしょうか。 このハギアスモス「聖潔」という言葉は、新約聖書に10回用いられています。そして、欽定約聖書では、聖化(サンクティフィケーション)と訳されているのが5回、(Ⅰコリント1:30、Ⅰテサロニケ2:13、4、Ⅱテサロニケ2:13、Ⅰペトロ1:2) そして、聖潔(ホーリネス)と訳されているのが5回(ローマ6:19、22、Ⅰテサロニケ4:7、Ⅰテモテ2:15、ヘブル12:14)と半分ずつに訳されています。

 そのように、聖書を読んでみると、ハギアスモスには、聖くなる過程と、聖い状態と両方を含んでいることが解ります。 つまり、聖潔の恵みには、この両面があるということです。キリストと共に十字架につけられ、古き人に死に、罪から解放された時、キリスト者はある達し得たきよい状態に置かれます。しかし、そこから更に聖潔られ、キリストに似たものへと変えられて行くのです。  そのことをパウロは22節でこう言っています。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」  ここに「聖なる生活の実を結んでいます。」とパウロは言っています。 イエス様は、ルカ6:43~45でこう言っておられます。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」  悪い木は悪い実を結び、良い木は良い実を結びます。 そのように、私たちの罪が解決されていないならば、それは死という実を結びますが、イエス・キリストと結ばれる時、その木は命の実を結ぶのです。
21~22節「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」
 ある宗教家が、一人の老農夫が一生懸命麦の脱穀をしているのを見てこう言ったそうです。「全ての勤労(ほねおり)には利益があり」ですかね。」とあいさつをすると、彼は額の汗をぬぐいながら「それにも例外があるようです。私は長い間、罪悪のために骨を折ってきましたが、全部損失でした。ちっとも利益がありませんでした。」と答えました。 それを聞いた宗教家は、ローマ6:21を引用して、「それでは、あなたは、パウロがローマ6:21で「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」  ということを実験したのですねと言うと、その老農夫は、「そのとおりです。しかし、ありがたいことに、イエス・キリストに出会い22節に「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」  という恵みを味わい始めております。」と答えたそうです。
 私たちも、罪の実を結ぶ者から、御霊の実を結ぶ者に変えられました。そのように、聖潔の実を豊に結ぶお互いとさせいただきましょう。


(3)永遠の命

23節「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」  「義の僕」になるためには、「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに従う」ことです。そして、イエス・キリストの贖いを信じるならば罪から解放されます。そして、そればかりか、その人には聖潔の恵みが与えられていて、それが恵みによってますます成長していくのです。 そして、私たちの信仰生活のゴールは、永遠の命です。義とされた者が、義の実として聖潔が与えられ、栄化まで進むことが出来るのです。何という恵みでしょうか。 その恵みと祝福にお答えして、全き献身をもって、主にお従いしましょう。
 Kさん御夫妻は、3人のお子さんがおられましたが、2人のお子さんを天国に送りました。まずKさんの末っ子の娘さんが、白血病になってしまいました。だんだん体が弱って行く姿を見て、Kさん御夫妻は、何でもこの子の願うことをしてやりたいと思いました。そこで、ある日「何でも言うことを聞いてあげるから、言って良いよ。」と言ったそうです。すると、Kさんの娘さんは、教会学校に行ったことがあったので、教会に行きたいと言いました。その時から、Kさんが家族揃って教会に行くようになったのです。やがて、まず長男が、イエス様を心から信じました。けれども、体は弱って天国に行く日が近づいてきました。その時に彼女は、「わたしは、先に天国に行って、待っているね。」と言って、輝くように天国に行ったのです。 Kさん御夫妻は、それから真剣に求道してイエス様を信じました。 ところが、今度は、次男が、筋萎縮症という筋肉が弱ってしまう病気にかかってしまいました。だんだん筋肉が弱って、体が動かなくなり、最後は心臓も止まって死んでしまう恐ろしい病気です。それを聞いたKさん御夫妻は、本当に悲しみましたが、イエス様を信じた次男は、イエス様を信じ従いました。毎日聖書を読み、手でページを開けなくなると、舌でページを開いて聖書を読み続けました。 そして、天国に行く日が近づいた時、お父さんにこう言いました。「お父さん、もし、僕が病気にならなかったら伝道者になりたかった。僕の代わりに伝道をしてね。」そして、天に召されていったのです。  自分の子供を天国に送るということは、本当に大きな悲しみです。それも、二人が天に召されるということは、想像もつかないほど、大きな苦しみであったに違いありません。けれども、神様は、そのKさん御夫妻の悲しみや苦しみを豊かに用いてくださったのです。そして、苦しんでいる人や悲しんでいる人がいると、Kさん御夫妻は、御自分がそのような経験をしておられますから、多くの人に慰めと励ましを与えておられます。

 22節「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」
  私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪の奴隷であった者から解放され、「神に従順に仕える」者へと変えられました。そして、十字架の血潮によって聖められ、その実を結ぶ者とされたのです。そして、そのゴールは、永遠の命です。福音というバトンを他の人に手渡しながら、しっかりと天国というゴールを目指して、信仰生活を歩ませていただきましょう。

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase