先週の水曜日の早朝、境の谷めぐみ教会の菅原登志子牧師が天に召されました。13日金曜日の夜に前夜式が、14日土曜日の夜に葬儀が淀橋教会で、教団葬として行われました。
菅原先生は、山形南部教会に、来られたこともありますので、ご存じの方も多いと思います。先生は宮城のご出身で、東北に来られたことをとても喜んでおられたことを思い出します。
今年の、8月8日に家内に電話がありました。もうその時はガンも末期で、緩和治療を受けておられましたが、「最後に、山形のだしを食べたいので、材料を送って欲しい」ということでした。ちょうど、私たちは、母の80歳のお祝いに出かけていましたので、今野 忍姉に頼んで、材料を送ってもらったところ、それを少し食べることが出来たと本当に感謝しておられました。それが、先生とお話しをした最後になりました。
菅原先生の葬儀に、私は、結婚式の司式などが重なって、どうしても行くことが出来ませんでしたが、好美牧師が前夜式と葬儀に出席しました。
菅原先生は、ウェスレアン・ホーリネス教団の委員として、また、神学院の教師として、教団を支えておられました。そして、最後まで境の谷めぐみ教会の牧師として、立派に大切な御用をしてこられました。
峯野先生が、葬儀の中で、「菅原先生は結婚をしたいという願いを持っておられましたが、一生独身で神様に仕えられ、キリストの花嫁として天に召されていかれました。」と説教の中で語られたそうです。そのように、菅原先生は、神様と多くの人に愛されて全てを主にお献げして天に召されていかれました。ぜひ、ご遺族と先生が牧会しておられた境の谷めぐみ教会のためにお祈りしていただきたいと思います。
聖書の中には、キリストと私たちの関係が、よく結婚の関係にたとえられいますが、
今日の聖書の箇所は、律法と福音のことが、結婚をたとえに書かれています。
今日の中心の御言葉は、6節です。
「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
今日はローマの信徒への手紙7:1~6を読んでいただきましたが、この箇所を3つに分けて、主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)律法の役割
1節
「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」
ローマの信徒への手紙7章のキーワードは、律法です。パウロは7章だけでも23回も律法という言葉が用いています。
5:12~6章にかけて、パウロは、罪と福音の関係について語ってきましたが、7章では、律法と福音について語っています。そして、その中心が1~6節です。
ここで、パウロが言っていることは、モーセの律法だけではなく、すべての律法は、生きている人にだけ拘束力があるということです。
パウロは、人は死ねば、律法の拘束力から解放されるということを、結婚関係にたとえて、詳しく説明をしています。
2~3節
「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」
夫婦というのは、生きている間は、律法によって互いに拘束されています。ですから、
配偶者でない人と性的関係を持つと、姦淫の罪で罰せられます。しかし、配偶者が死んでしまったら、その結婚の律法から解放されて、他の人と結婚することが出来るのです。
ですから、律法というのは、私たちがどんなに罪深い者であるかを知らせ、キリストのもとに導く養育かがりに過ぎないのです。
ガラテヤ3:23~26(P346)
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」
バーレンという神学者は、律法と福音についてこう言っています。
「律法と福音の違いは、律法は「行え、そして生きよ。」といい、福音は「生きよ、そして行え。」というところにある。」
旧約聖書は、律法の書です。しかし、イスラエルの民はその律法の書を行うことが出来ず、滅びに向かっていきました。
しかし、新約の世界になると、神様は、そのような人類をも愛してくださり、独り子であるイエス・キリストをこの世に送って下さったのです。そのイエス・キリストの十字架を信じる信仰によって、私たちは生きた者とされ、神様の御心を行う者とされたのです。
また、ウィリアム・バークレーはこう言っています。
「律法と福音とは、二つのカギである。すなわち律法は、すべての人を罪のもとに閉じ込めるカギである。それに対して福音は、その戸を開いて、これを解き放させるカギである。」
私たちが、イエス・キリストの十字架の贖いによって、律法から解放され、今、主に仕える者とされていることを心から感謝しましょう。
(2)律法に死に、福音に生きる
4節
「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
ここで、パウロは、その結婚のたとえを用いて、聖徒の経験に適用しています。パウロは、キリストと共に死んだ聖徒は、この死によってそれまで、夫として仕えてきた律法から解放されて、新しい夫となったキリストと結ばれたと説明しています。
神様が、私たちを死んだ者とされた目的は、キリストのもとに行って、キリストの花嫁とされ、実を結ぶようになるためです。
そこで、パウロは4節で、「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」と語っているのです。
パウロは、死について、6章では、罪に対して死んだと言い、7章では、「律法に対しては死んだ者となっています。」言っています。
イエス・キリストは、私たち全人類の罪のために十字架で死なれました。それは、ただ、イエス・キリストが十字架で死なれたということだけではなく、私たちの罪をその十字架で断ち切って下さったのです。それだけではなく、律法との全ての関係も、あの十字架によって、永遠に断ち切られたのです。キリストの死は、私たちを律法のもとから解放しました。そのため、私たちは、「律法のもとではなく、恵みのもとにあるのです。」
そのことを、パウロはガラテヤの信徒への手紙2:19~20(P345)でこう言っています。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
キリストが十字架につけられて死なれた時、私たちの全ての罪も釘づけられたのです。そして、罪に死に律法から解放されたのです。そして、今やイエス・キリストを信じる私たちは、20節にあるように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 と告白することが出来るのです。
韓国を代表する文学博士の一人に、リ・オリョン教授がいます。彼は「韓国最高の知性」と呼ばれるほど、知識に富んでいました。
このリ・オリョン教授は、昔は徹底的な無神論者で、50年間キリスト教を批判し続けて来ました。
ところが、74歳になった時、彼の人生に大変なことが起きたのです。リ教授の娘のミンアさんが、甲状腺ガンになり、手術を受けましたが、2度も再発してしまったのです。彼女の健康状態は更に悪くなり、網膜にも問題が生じて、ほとんど目が見えなくなってしまいました。
リ教授は、娘のミンアさんが教会に行きたいというので、近くにある小さな教会に行きました。彼は、生まれて初めて、そこで涙を流してお祈りをしたのです。
「神様、これまで、あなたを批判してきたことをお許しください。あなたが本当に生きておられるならわたしの愛する娘から光を取り去らないでください。もし、そうしてくださるなら残りの人生をあなたのしもべとして生きていきます。」
しばらくして、ミンアさんは、手術を受けるために、ソウル大学病院に行きました。すると、本当に神様の奇跡としか言いようがないのですが、その主治医に「網膜には、全く問題はありません。」と言われたのです。神様が癒やして下さったのです。
リ教授は、この時はじめて神様が生きて働いておられることを知りました。そして、教会に通い続け、74歳で、イエス・キリストを信じて、心の中にイエス様をお迎えしたのです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
リ先生は、昔は、自分の知識だけが正しいと信じて生きてきましたが、そのような古い自分に死んで、今、復活のキリストを心にお迎えして、心の中に生きておられる主を証しておられます。
(3)霊に従う新しい生き方
ここで、パウロはなぜ、聖徒が律法に死ななければならないのかを説明しています。
5節には、律法に束縛され、肉に従って生きていた時のことが、過去形で書かれています。
「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」
イエス・キリストを信じる前の私たちの過去は、肉に従って生きていたので、律法による数々の罪の欲情が、わたしたちの五体、体全体に働いて、死のために実を結んでいました。
ところが、6節では、現在形を用いて、
「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と語っているのです。
私たちが、イエス・キリストを信じる前は、罪の奴隷であり、律法に拘束されていました。しかし、イエス・キリストは、そんな私たちを愛しておられます。そして、その愛の故に、私たちの罪のために十字架にかかって、命を与えて下さったのです。
そのイエス・キリストの十字架によって、私たちは、全ての罪が赦され、律法から解放されて、聖霊によって新しく生きる者と造り変えられたのです。
パーカイザーが書いた「キリスト者の聖潔」(福音文書刊行会)にある女性のことが書かれています。
一人の女性が、きびしい、口うるさい、愛のない男の人と結婚しました。その夫は、彼女の生活を非常に惨めなものにしていました。
夫は、毎朝妻に対して、一日のための仕事のリストを書いて渡して出かけていきます。そして、夕方に帰ってくると、それが正しく行われたかどうかを点検するのです。そして、それが正しく行われていないと、忠告を与えます。
それだけではなく、彼女が行うべき10の家訓を書いて張り出すほどでした。彼女は、非常に悩み苦しみ、彼女のもっていたいくらかの愛も、すべて打ち砕かれてしまいました。
それからしばらくして、その夫は病気のために死んでしまったのです。彼女は、夫の命令から解放されました。そして、彼女はたまたま、教会で素晴らしいキリスト者の男性と出会って、結婚をしたのです。
再婚した夫は、思いやり深く、親切で、最初の夫の持っていなかったものを全部持っているかのようでした。そして、何よりも、その家庭は愛に満ちていました。
そんなある日のことです。その夫が机の引き出しを掃除していました。すると、前の夫が遺していった、規則のリストが、その引き出しの中に見つけたのです。何だろうと思って、その夫人は読んでみました。そのリストを読んで、彼女は驚いてしまいました。何と、そこに書いている要求を、全部守っていたからです。しかも、義務感からではなく、愛の故に喜んで行っている自分の姿に驚いたのです。
6節
「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
彼女は、律法によって拘束された人生を送っていましたが、そこから解放され、愛によって生きる新しい人生を歩み出すことが出来たのです。
これは、たとえで、不十分なところもあると思います。ここで、言われている事は、勿論夫が変われば良いというのではありません。
そうではなく、律法に従う生活、それは、自分の力や努力で救いを求める姿で、それは、律法によって縛られる生活で、そこには本当の救いはなく、自分の罪深さを知らされるだけです。
しかし、私たちを愛し、私たちの罪のために、また、私たちを律法の束縛から解放してくださるために、十字架で命を捨てくださいました。
それほどまでに私たちを愛してくださっているイエス・キリストを信じ従う人生にこそ、本当の救いがあり、幸せがあるのです。
6節
「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
どうでしょうか。私たちの心の中に、クリスチャンはこうでなければならないという律法で苦しい思いをしておられる方がおられないでしょうか。
また、その同じ計りで、人を裁いてしまうことがなかったでしょうか。もし、そのような苦しみや罪を示されるなら、今日、イエス・キリストの十字架のみもとに跪きましょう。そして、罪を赦され、律法から解放されて、イエス・キリストの十字架の愛の中を歩ませていただきましょう。
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