今日は、加藤 綾姉の証しを伺うことができ、感謝します。
綾ちゃんのおじ様は、七日町商店街で、ずっとコックさんをしておられました。私も一度行って、ランチをいただきましたが、とても良い雰囲気のレストランで、あの美味しい料理を忘れることが出来ません。
あのおじ様が、亡くなるということは、本当に悲しいことですが、神様はその死をも用いて、人の子どもたちに永遠を思う思いをお与え下さり、今は、毎週子どもの祈祷会に通って祈っています。
今日の中心の御言葉は24節です。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
ここに「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」とパウロが書かれていますが、その惨めな人間を、赦し、聖め、天に召される時には栄化の恵みを与えてくださる神様を見上げたいと思います。
今日は7章7~25節を読んでいただきましたが、この箇所を、「律法の働き」(7~13節)と「肉の働き」(14~25節)の2つに分けて、そして、2番目の「肉の働き」を3つに分けて主の御声を聞かせていただきたいと思います。
(1)律法の働き
7節
「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」
パウロは、7~25節で、「わたし」という言葉を使っています。「わたし」という人物が現れて、モーセの律法について語りながら、その経験の内容が25節まで続いています。7~25節の「わたし」とは誰のことを言っているのか。神学的にもいろいろな考え方があり、混乱を招いた言葉でもあります。
この「わたし」とはメッセージの主人公のことを言っているのでしょうか。それともパウロ自身のことを言っているのでしょうか。よく読んでみるとそうではありません。 この「わたし」というのは、パウロがこの内容をうまく伝えるために、パウロが自らがすべての人の代表として「わたし」という御言葉を使っているのです。
パウロの、言いたいことは、7節と13節の問いかけの言葉に良く表されています。
7節「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」
13節「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」
パウロは、この箇所を通して、まずモーセの律法は、それ自体が罪なのではなく良い物だということを明らかにしています。
しかし、モーセの律法は、正しく良い物であるにもかかわらず、人間はその律法を守ることが出来なかったので、律法を守ることによっては人間を罪と死から救い出すことができないことを語っているのです。
(2)内的な戦い
①クリスチャンにも内なる戦いがある
6節でパウロは、私たちクリスチャンは、イエス・キリストの贖いによって、律法から解放されて、文字に従う古い生き方ではなく、聖霊に従う新しい生き方をする者と変えられたと言っています。
6節
「 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、"霊"に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
このことは真実で、聖霊を心の中にお迎えすると、新しい人として生まれ変わります。
罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられた喜びに満たされます。そして、祈ることや聖書を読むことが楽しくなり、礼拝や賛美を心からささげるようになります。
しかし、それで何の戦いもなくなったかというとそういうわけではありません。
私たちの心の中には、二つの分裂した心があることに気がつきます。
パウロは、そのような心を15節でこう言っています。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
どうでしょうか。私たちもクリスチャンになって、聖書に書いている良いことはしたい・・・でもできない。また、悪いことはしたくない・・・それなのにしてしまうと、自分の心が分裂してしまうことがないでしょうか。
そのような心はパウロにもありました。そして、パウロは18~19節でこう言っているのです。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」
それは、私たちの心の中に「神の律法」と「罪の法則」が戦っているからです。
私たちは、イエス・キリストを信じてイエス様を心の中にお迎えしました。そして、聖霊は私たちを神様に従う、正しい道へと導いてくださいいます。
しかし、私たちの心の中には、依然として生まれながらの罪が存在していて、その罪が私たちを神様から引き離そうとします。その二つの力が、私たちの心の中で戦うのです。
私たちの心の中で、二つの力が戦う時、私たちは、どちらを頼りにするでしょうか。
古い自分の生き方でしょうか。それとも、新しい主が与えて下さった聖霊でしょうか。そのどちからかを選択するのは、自分自身です。他の誰もそれを選ぶことは出来ないのです。クリスチャンは、キリストの十字架と復活によって新しくされました。それにもかかわらず、古い自分の経験や生き方で生きようとする時に失敗してしまうのです。
ある本に2人のアルコール中毒の方のことが書かれていました。2人とも、治療を受け、アルコール中毒から救われて、アルコールを止めました。
ところが、一人の人は、自分の力で禁酒できたのだからと、少しくらい飲んでも、適量をわきまえれば大丈夫だと考えて、すこしだけ酒を飲みました。その結果どうなったと思いますか。元の木阿弥、この人は、再びアルコール中毒に戻ってしまったのです。
ところが、もう一人の人は、自分がアルコールに弱いことをよくわきまえていました。そこで、お医者さんを信頼して、言われた通りに、どんな時にも、アルコールを裂けたのです。その結果アルコール中毒から見事に癒やされたのです。
私たちが、クリスチャンになってからも、古い性質から抜け出すことが出来ないのはなぜでしょうか。それは、知らず知らずのうちに古い自分の生き方を選び取っているからではないでしょうか。もう、古い自分を頼りに生きるのは止めましょう。
そうではなく、罪を悔い改め、自分の弱さを認めて、全てを神様に明け渡すことです。そして、新しく与えられた聖霊を選び取り、聖霊に従って生きるなら、私たちは勝利ある生活をすることができるのです。
②クリスチャンの内的戦いの原因は内住の罪である
17~18節
「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」
17節にある「もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」という言葉は、ちっょと読むと、自分の責任を責任転嫁しているようにも思えますが、決してそうではありません。ただパウロは、人間には自分の努力や行いによってはどうすることもできないサタン的な力、罪のすさまじさを表しているのです。
それは、アダムからのものです。アダムが罪を犯したため、その罪は、子々孫々に広がっていきました。そして、その罪は表面に現れる罪だけではなく、人間の心の奥底までひそむものとして受け継がれてきたのです。
そして、内なる罪を持つ者の結果は、惨めな人間としての敗北の生活です。クリスチャンとして救われているのに、罪を犯してしまう。正しいことだと解っているのに、それを行うことが出来ない、そんな経験をしたパウロは、24節で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫んでいるのです。
その罪の恐ろしさが、24節の後半の「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」 という言葉に表されています。
ここでパウロは「死に定められたこの体」 という言葉を使っています。
これは、ローマの死刑の方法の一つを表す言葉です。当時、死刑を執行する時に、生きた人間が、死人と結びつけられ、放置しておくという残酷な死刑の方法があったそうです。死刑囚は、どこに行くにしても死体を担いで移動しなければなりません。そして、やがて死人の毒素が生きた人間に移って、やがて死に至るのです。
パウロは、罪が私たちの内側にあるということは、死人の体と一緒にいるくらい恐ろしい事だと、内なる罪の恐ろしさを表しているのです。
24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」
その後の25節前半で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 と言っています。なぜでしょうか。それは、主キリスト・イエスにこそ、私たちの内なる罪に対する勝利があるからです。
私も、クリスチャンとして43年歩んできましたが、その歩みを振り返ると、罪と失敗の連続で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と叫びたくなるようなことがあります。しかし、イエス・キリストの恵みと愛は、更に大きく、私を包んでくださいました。
o私が、本当に惨めな人間だと思った出来事が、今までに2回ありました。
一つは、自分の罪深さに気付かされた時です。
高校時代に、学校の規則を破り退学になりそうになったことがありました。その時に、クリスチャンの先生に「罪の支払う報酬は死である。」という御言葉をいただいて、自分の罪について考えました。過去に犯した罪を大学ノートに書きましたが、ノートが真っ黒になるくらいいろいろな罪を思い起こしました。また、今の自分の心の中にある、ねたみや憎しみ、情欲で異性を見てしまう、どろどろした心が私の心の中にありました。そして、そのような心を持ったままで、このまま生きていったとしたら、きっとどこかで行き詰まってしまって、永遠の死びが待っていると悩みました。そして、それに対して何もできない自分の姿を見た時に、パウロのように「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と叫びたくなりました。
しかし、その罪を告白した時、一つの御言葉が迫ってきました。ローマ6:23「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」イエス様は、この惨めな人間を愛して、私の罪のために命を捨ててくださったのです。その十字架を信じた時、心の中に、喜びと平安が満ちあふれました。
oもう一つは、自己中心なクリスチャンだと思い知らされた時です。
私の聖潔を問われたのは、神学校時代でした。聖書の光りに照らされれば照らされるほど自分の醜さや弱さを知らされるようになりました。そして、私は献身をしていると言いながら、自己中心のクリスチャンだと示されたのです。このままでは、私は牧師になることは出来ない。心から聖潔を求め、聖会の招きがある度に、恵みの座に出て祈りました。すると、その時は恵まれて聖潔られたような気がするのですが、いつもの生活に戻ると、前と変わっていない自己中心な自分であることに失望してしまいました。そして、そんなことを何度も繰り返しているうちに、私のような者は、聖潔られないのだとあきらめて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と考えていたのです。ところが、神様はそんな私をもお見捨てにはなりませんでした。1984年の7月の関東夏期聖会のことです。その聖会が終わった後で、招きがありました。その時、聖霊に押し出されるように恵みの座に出て行ったのです。そして、その場で、今までの不信仰を悔い改め、「私の全てを明け渡します。聖霊に満たして下さい。」と祈りました。
その時に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2・19,20)と御言葉が与えられました。
そして、カウンセリングの先生に、自分の感情や状態ではなく、イエス・キリストの十字架と御言葉を信じるて信仰の一歩を歩み出すことを教えられました。感情や、状態は変わりますが、御言葉は決して変わることがないからです。
聖会から帰ってからも、「お前は本当に聖潔られたのか。」とサタンの声を聞きました。でもその時、はい、この御言葉が証拠です。告白すると、心に平安が与えられました。
そして、わたしは、あの時に、御言葉を信じる信仰によって聖潔の信仰に立つことが出来ました。生きているのは、もはやわたしではなく、キリストをわたしの心の王座にお迎えした時、、聖霊に満たされ、何とも言えない喜びと平安に満たされたことを忘れることが出来ません。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と自分の心の中に、罪が示される時、その時が、聖潔られる絶好のチャンスです。なぜなら、自分の力ではどうすることも出来ないことを認めて、ただ、主の十字架にだけ頼るからです。自分の罪を認めて、心から聖潔を求めましょう。主は、必ずその祈りに応えてくださいます。
私たちは、ただ、イエス・キリストの十字架の血潮によって救われました。聖潔も同じです。自分の努力や行いによって聖潔られるのではなく、ただイエス・キリストの十字架の血潮を信じる信仰によって清められるのです。
③クリスチャンの内的勝利を与えるキリスト
最後の25節に、 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 と書かれていますが、
どうして、ここで主イエス・キリストを通して神に感謝しますと書かれているのでしょうか。それは、主イエス様こそが、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と叫ぶほどに、私たちの罪を全て背負って、十字架上で惨めな姿で死んで下さったからです。
来週の土曜、日曜と、HOPE福島が郡山で行われます。これは、昔のビリー・グラハム国際大会の関係の集会で、今回は孫の、ウィル・グラハム師がメッセンジャーとして立てられています。
そのビリー・グラハム・クルセードがスコットランドで開催された時のことです。グラスゴーの労働者地区に住み日雇い人夫をしていたある男の人が救われました。貧しさの故に荒れはてた生活をしていた彼は、その時を期して生活ぶりが全く変わってしまいました。教会にも日曜日毎に通い始めました。そして、仲間に会うと誰彼となく教会に一緒に行こうと誘いました。
ある日のことです。仕事場で、顔に刀の傷のある、恐ろしい顔をした男と一緒になりました。前の彼だったら他の仲間たちと一緒に彼に近づかないように仕事をしていたのでしょうが、神様によって変えられた彼は、進んで、顔に傷のある男と一緒に組んで仕事を始めました。
二人は、昼食の時間になったので、瓦礫の山に腰をおろして、世間話を始めましたが、「今度教会へ行かないか。」と教会へ誘ったのです。突然のことに、その恐ろしい顔をした男は、「このオレが」と、自分を指さしながらびっくりしてしまいました。しばらく、沈黙の時が続きましたが、彼は悲しそうな顔をして「オレなんかだめさ。こんな顔に傷を持ったオレを、どうして教会が迎え入れてくれるんだ。」と言いました。すると、彼は「いやいや、俺たちをな。迎え入れて下さるお方がいらっしゃるんだよ。そのお方は、お前よりもっとひどい傷をもっているんだよ。」と言ったそうです。
主イエス様は、全人類のために十字架にかかって死んで下さいました。十字架というのは、極刑で、最も惨めな死に方でした。イエス様は、その十字架で命を捨てて、私たちを救って下さいました。そればかりか、その十字架の血潮で聖潔てくださり、キリストに似たものへと造り変えて下さるのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」最も惨めな十字架で、私たちを救い、その血潮によって聖潔て下さるお方。そして、私たちの内に、いつもいてくださる主に心から感謝をささげ、主に従う者とさせていただきましょう。
特に、明日は「山形聖化交友会」聖化大会が行われます。日本を代表する、村上宣道先生が、講師です。しかも、今年の1月に献堂式が行われた、チャーチ・オブ・ゴッド酒田キリスト教会で行われます。
我らの賛美チームの賛美や、菊地百合子先生と岡 好美先生の証しやもあります。ぜひ、今からでも間に合います。ぜひ、聖潔を求めて、参加しましょう。
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