主日礼拝 10/20

「キリストによる真の自由」ローマ8:1~11

 今日は、井上都子さんの証しを聞くことが出来本当に感謝です。都子さんとの出会いは25年前ですが、25年神様が変わらない愛をもって導いてくださって、本当に幸せなクリスチャンホームを築いておられるお証しを聞く事が出来て主の御名を賛美します。

今日の中心の御言葉は2節

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

  今年は、ローマの信徒への手紙の講解説教をさせていただいていますが、7章には、肉による、大変な悪戦苦闘が記されていました。特に、19節では 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」  と自分の力では、良いことを行おうとしても出来ない自分、そして、悪いことを止めようと思っても止められない自分の姿を嘆いています。

 そして、24節で、パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫んでいます。

  そのような、パウロの罪の対する悪戦苦闘が7章に記されていますが、⒏章には、その罪と死に対する勝利の凱旋が記されているのです。

 スピーネルという神学者は「聖書を一個の指輪とすれば、ロマ書はそれにはめられた宝石で、その中でも8章は、宝石の頭である。」と言っています。

「宝石の頭」とは何でしょうか。宝石の中でも最も素晴らしい宝石、ダイヤモンドでしょうか、サファイヤでしょうか・・・。とにかく、この⒏章には宝石のような素晴らしい御言葉が散りばめられています。

 今日から、この素晴らしいロマ書⒏章から主の御声を聞かせていただきます。この箇所を3つに分けて御言葉を取り次ぎたいと思います。

(1)律法からの自由

1~2節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

  1節の最初に「従って、今や」と書かれていますが、それは、イエス・キリストを信じて、キリスト・イエスに結ばれた「今」を表しています。

 キリスト・イエスに結ばれる前は、古いアダムによる罪の支配され、師に向かっていました。そして、その罪から救われようと、自分の力で律法を守ろうしましたが、それが出来ずに、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫ぶしかありませんでした。

 しかし、キリスト・イエスに結ばれた「今」は、その罪から解放され自由が与えられました。また、律法による救いではなく、イエス・キリストの十字架の贖いと、復活の恵みによって、完全な勝利が与えられたのです。

 もう、罪に定められることはありません。

 その理由が2~3節書かれています。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」

  罪の支配下にある人間にとって、律法は完全に無力であり、何もなしえませんでした。7章でパウロは、嘆きと叫びをもって告白しています。

 しかし、人には、出来なくても神には何でも出来ないことはありません。パウロは3節前半で、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」と言っています。

 神様は、イエス・キリストによって御業を成し遂げて下さったのです。神の子であられる主イエス様が、この罪深いこの地上に、私たちと同じ肉体をもって来てくださったのです。しかし、イエス様は肉体を持っておられながらも私たちと違って、一度も罪を犯されませんでした。

ヘブル4:14~16(P405)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

  16節に「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とありますが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストの恵みによって、私たちは、罪と死に打ち勝ち、圧倒的な勝利が与えられるのです。

  私たちの罪がどんなに深くても、イエス・キリストにしっかりと結ばれているなら、罪に打ち勝ち、清められ、死に打ち勝って、圧倒的な勝利の凱旋に加えられるのです。

 バハマの牧師の娘のダイナの証しです。ダイナは、少女時代、悪い仲間と行動を共にするようになり、パーティーに明け暮れるようになりました。たくさんの異性と関係を持ち、子どもが一人生まれました。

 周りの人たちは、「神様があなたのことを愛しているから、こんな生活をやめるように。」と言いましたが、ダイナはやめませんでした。それどころか、ドラッグに手を染めるようになり、仲間たちが集まる麻薬売買の場所をクラックハウスというそうですが、そこで寝泊まりをする生活を10年も続けたのです。

 ひどい臭いのする窓のないクラックハウスで、ダイナは「自分の人生はこれまでだ。」と惨めな思いで生活をしていました。

 そんな絶望で一杯になったある日のことです。ダイナの目に一冊の聖書が目にとまったのです。不思議なことに、クラックハウスに聖書があったのです。恐る恐る開いて、読み始めると涙が止まらなくなりました。

 そこで、ある日の日曜日の朝、ダイナは息子と一緒に、勇気を振り絞って教会に入ってみました。ちょうど礼拝が行われていて、牧師が、「罪は、イエス様によって贖われる。」と話していました。その時はじめてダイナの心に自分の罪が迫り、自分にはイエス様が必要だと感じたのです。イエス様を信じ、聖霊を受け入れた時、不思議なことが起きました。どうしても止められなかったドラッグもタバコも、吸いたいと思わなくなったのです。

 ダイナは、今結婚して、教会でも積極的に奉仕をしています。ウェディングプランナーとして仕事も始め、自分の人生を変えて下さった、イエス様は、どんな罪人の人生も変えることが出来ると力強く証しをしています。

1~2節

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

(2)罪と死からの自由

 5~6節「 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」

 4~9節には「肉」という言葉と「霊」という言葉が対照的に記されています。

 ここで言う「肉」というのは、人間の体や、肉体を表しているのではなく、アダムの子孫として、アダムから受け継いだ、堕落した本姓と腐敗した性質「原罪」を示しています。

 先週の、木曜日と金曜日に、東北教誨師研修山形大会が行われました。その講師は、山形の作家、柚月裕子(ゆづきゆうこ)さんでした。彼女は、犯罪についての小説を書いていますが、一人の若い夫婦の事例を話してくれました。

 2年前の岩手で起きた事件ですが、10代の若者が、恋に落ちて結婚をしました。やがて、子どもが生まれましたが、子どもを愛する事が出来ずに、7日間段ボールの中に入れたままで、死んでしまったのです。彼女に殺意があるかどうかが、その裁判の争点になりましたが、その取り調べの中で、彼女がこう言ったそうです。

「私も、子どものころ、一週間くらい食べさせてもらえなかったことがある。でも、私は死ななかった。」

 自分が、育てられたように、彼女も子どもを育てたのです。ただ、自分は生きて、自分の子どもは死んでしまったのだというのです。柚月さんは、それを「罪の連鎖」という言葉を使って説明をされていましたが、親の罪が子どもにこのように連鎖した一つの実例です。

  また、柚月さんは「人は愛されなければ、人を愛する事ができないのだ。」とおっしゃっておられました。子どもが親の愛を受けずに育つと、人を愛する事が出来ないように、私たちは、神様の愛を受けずに、人を愛する事は出来ないのです。

 そして、この肉的性質は、すべての人が持っているもので、新しく生まれ変わったクリスチャンにも残っています。そのことが、7~8節に書かれています。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」

  クリスチャンであっても、肉的なクリスチャンがいます。それは、自我が心を支配している人です。その人は、神様と敵対して、神に喜ばれることは出来ません。

 そして、その肉的なクリスチャンは、肉的な実を結びます。

 ガラテヤ5:19~21(P350)

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」

  このガラテヤ間信徒への手紙は、教会に宛てて書かれた手紙ですから、クリスチャンの中にも、聖潔られたクリスチャンと、聖潔られていないクリスチャンがいることが分かります。そして、肉的なクリスチャンは、ここに書いてあるような、肉的な実を結んでしまうのです。

 しかし、キリストと結び合わされた霊的なクリスチャンは、「霊」の実を結ぶことが出来るのです。

 

 そこで、パウロは、ガラテヤ5;22~25でこう勧めています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

  私たちは、肉的なクリスチャンでしょうか。それとも、聖霊に満たされた霊的なクリスチャンでしょうか。

 インディアンのチェロキー族には、孫に人生の原則を教えるおじいさんの話しが、伝えられているそうです。

 知恵深いおじいさんが、孫を座らせて言います。「孫よ。人の中には、猿が2匹いるそうだ。片方の猿は悪者さ。この猿は、怒りと嫉妬、傲慢、怠惰のかたまりで、赦すということを知らない。もう一匹の猿は、優しい猿だ。この猿の特徴は、愛、親切、謙遜、節制だ。この2匹の猿は、いつも私たちの心の中で戦っているんだ。」

 すると、孫が少し考えて尋ねます。「おじいさん、どっちの方が勝つの。」

 お爺さんはにっこり笑って言います。「それは、お前が餌をやるほうだよ。」

 みなさんは、どちらの猿に餌をやるでしょうか。それを決めるのは、あなたです。

 私たちの毎日の生活の中で、肉的な所を示されるならば、その罪を悔い改めましょう。そして、「私を、聖霊に満たしてください。」と祈りましょう。

 私たちは、自分の力では、救われなかったように、私たちは自分の力では、聖潔られません。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたように、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖潔られ、聖霊に満たされるのです。恵みによって、聖霊に満たされて、御霊の実を結ばせていただきましよう。

(3)自由を得た人の生活

9~11

「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

  9~11節でパウロは、

「神の霊」「霊」「キリストの霊」という言葉を使っています。

 これは、神と子と聖霊の恵みによって、私たちが聖潔られるという約束です。

 今日の聖書の箇所に「キリストがあなたがたの内におられる」(オイケン エン ヒュミン)という言葉が4回も書かれています。

 これは、聖霊が、私たちの心に内住されることを表す言葉です。それは、私たちの心を住まいとして宿って下さるという、聖霊の働きを表しています。

ヨハネ14;16~18(P197)

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

  聖霊が、私たちと共にいてくださり、聖霊によって、聖潔られ、罪に打ち勝ち、豊かな御霊の実を結ぶことが出来るのです。

 私たちは、キリストによって罪と死から自由にされました。その恵みに応えて、私たちが成すべき事は神様が喜ばれることを行うことです。律法に支配され、死の僕であった時には、神様をお喜ばせすることはできませんでしたが、今ならばできます。

 私たちは、もはや罪の奴隷ではありません。まことの自由を与えられたものとされました。ですから、世を喜ばせる生き方ではなく、ただ神様だけを喜びとし、神様を喜ばせる生活をすることこそが、神様に自由が与えられた人の姿です。

 そして、「キリストが私たちの内におられる」ということは、決して霊的なことだけではなく、私たちの肉体も感情、知識や意思、全てに係わることなのです。

 先日、ある方から、ABシンプソンの「内住のキリスト」という本のコピーをいただきました。そこには、ABシンプソン先生御自身の体験が記されていました。先生は、14歳の時から勉学と労苦に全力を注いできました。21歳になった時、先生は大きな教会に遣わされ、そこで指導することになりました。忙しい牧会伝道を、全力で励みました。その結果、先生は健康を害され、最後の力も消え去ってしまったというのです。先生は、しばしば、講壇の上で倒れて死んでしまうのではないかと恐れました。また、心臓は弱り果て、神経組織は消耗しきってしたので、一足あげるにも、そのまま息が絶えてしまうのではと思うほどでした。先生は、昔、神様の癒しについて聞いたことはありました。しかし、神学校で奇跡の時代はすでに過ぎ去ったと聞かされていたので、癒しについて反抗し、恐れていたのです。先生は、初めの信仰に立ち返ることが出来なかったのです。先生は、自分の考えを主張していました。しかしついに、その考え方を捨てて、内住のキリストの力を経験する時が来たのです。シュレンクという神学者が、「わが教理の葬式」と言っていますが、自分の考えや教理の葬式に列席した時に、主は、「あなたのうちにいますキリスト」という秘訣をささやかれ、その時から、私の魂のために受け入れていたように、キリストを体のためにも受け入れたのです。

 その時から先生は、仕事自体が完全な喜びとなるほど強められ、健康体とされたのです。キリストを心の中にお迎えした時から、不安や思い煩いはなくなり、牧会伝道が喜びとなり、それだけではなく、本を書くことにおいても用いられ、今まで以上の仕事を感謝と喜びをもって行うことが出来たというのです。

  また、癒やしだけではなく、「内住のキリスト」は先生の恐れや不安を取り除き、知的能力を与えられ、意思においても、キリストに従う強い意志が与えられたと証しておられます。

 これを読みながら、私に必要なのは、この信仰だと思わされました。魂のために「キリストをお迎えする」だけではなく、生活の全ての点で「内住のキリスト」が必要です。そのことを信じて、キリストと共に歩む時、主は、私たちの心と生活の中で働いてくださるのです。

 新聖歌342に「神の子なるイエス」という曲があります。この繰り返しに「我が内に主は在す。くすしくも妙なり。わが内に在す主は、来るべき王なり。」とあります。イエス様を心の王座にお迎えして、罪と死に死に、聖潔られた心と生活をもって主にお仕えしましょう。

 

 


WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase