11/10 主日礼拝

「将来現される栄光」 ローマ8:18~25

  今日、小関雅美兄のお証しをうかがうことが出来感謝します。

 雅美くんには、素晴らしい賜物が与えられています。良くクリスマスなどに披露してくれるのですが、カレンダーを覚えていて、5年前から5年後のカレンダーなら、何月何日が何曜日かを当てることが出来るのです。

 そして、オセロゲームが得意で、私も何度か挑戦したのですが、ほとんど勝つことが出来ませんでした。ぜひ、みなさんも挑戦してみてください。

 そして何よりも、雅美くんの素晴らしさは神様を心から信頼している純粋な心です。

良く礼拝や祈祷会が終わると、「お祈りしてください。」と言って一緒にお祈りをすることがあります。そして、お祈りが終わると、それまでの不安な顔はなくなって、笑顔で「ありがとうございました」と言ってくれるのです。神様がお祈りを聞いてくださる。その純粋な信仰に、大切な事を教えられています。

 雅美くんは、障害を持って生まれましたから、いろいろな苦しみや試練と戦って来られました。しかし、私はその雅美くんが、家族の祝福の源だと思っています。雅美くんに弱さがあるが故に、家族みんなが、助け合い一つになって来られたのではないでしょうか。そして、このように家族揃って信仰を持ち続ける事が出来たのも、雅美くんの存在はとても大き勝ったと思います。

 神様は、私たちに苦しみや弱さを与えられることがあります。しかし、神様は、苦しみや弱さをそのままにしておられるお方ではありません。その苦しみや弱さを通してでなければ与えられない、祝福を与えて下さるお方なのです。

 

今日の中心の御言葉は18節です。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

 

  今朝は、ローマ8:18~25を読んでいただきましたが、ここで、パウロは栄光の未来を望みながら、現在の苦難について語っています。

 人間の罪のために世界と人類とが、うめき苦しんでいます。しかし、キリストの贖いによって、救いはすでに完成しています。

 救いは、すでに人類に与えられていますが、栄化の時までは、まだ完成していません。今のキリスト者は、その途上にあります。私たちが、肉体の姿で生活しているので、苦難もまた経験しなければならないのです。

 

 この御言葉から「将来現される栄光」という題で、3つのことを学びたいと思います。

 

(1)栄光の望み

18節

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

  パウロは、今のこの時代と、やがて現される栄光について語っています。

 「現在の苦しみ」とありますが、これは、この苦しみは、クリスチャンの内なる罪と戦いから来る、苦しみを言っているのではありません。

 ある人は、7:14~25にある内なる戦いを現していると言っていますが、そのような戦いは、キリストの贖いと、聖霊の満しによって、勝利を与えられています。それは、8:1~2を読むと解ります。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

  パウロは、キリストに結ばれ、命をもたらす霊によって、内なる戦いからすでに勝利を与えられたのです。

 

 しかし、その聖潔られたパウロにも、外なる苦しみや戦いがありました。

コロサイ1:24(P369)

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」

とパウロが言っているように、内なる心は聖潔られても、外なる戦いは続きました。

 その、戦いが、どのようなものであったのか、Ⅱコリント11:23に書かれています。(P338)

「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」

  パウロは、ここに書かれているように、誰よりもキリストの故に苦労し、何度も投獄され、鞭打たれ、死ぬような目に遭いました。

 私たちも、キリストを信じて、聖霊に満たされたからと言って、戦いがなくなるわけではありません。いや、キリストを信じるが故に、パウロのように、更に外部からの苦難や試練を受けるようなことがあるでしょう。

 

 しかし、パウロは、18節でこう言うのです。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

  ここで、パウロは現在の苦しみと、来るべき栄光とを比較しています。

 人は、労苦の後に多くの収穫を期待しますが、神様が与えて下さる報いは、それを遙かに超えたものです。

 

 この苦しみを、ある人は出産の苦しみに譬えています。

 出産は、女性に取ってみると命がけのことです。実際に、出産によって多くの女性が命を失っています。それほど、大変な苦しみです。しかし、その苦しみの後には、我が子の誕生という、素晴らしい祝福が待っているのです。だから、女性はあの苦しみに耐えることが出来るのではないでしょうか。

 そのように、私たちも、この世では、キリストのために多くの苦難を受けることがあるでしょう。しかし、神様は、現在の苦難よりもはるかに素晴らしい栄光を備えていて下さるのです。

 

(2)被造物のうめき

19~22節

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

  ここには、人間の罪が、被造物にまで及んでいることが記されています。20節には「被造物は虚無に服しています」  とあります。また、21節には「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて」と書かれています。そして、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と書かれています。

  どうして、被造物が、このように、虚無に服し、滅びへの奴隷とされ、うめくような苦しみを受けることになってしまったのでしょうか。

 それは、人間の罪によるものです。

 創世記3:17~18(P4)

「神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。」

  アダムとエバが、食べてはいけないと言われた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまった時、つまり、始めて神様に背いて罪を犯した時、人間だけではなく、被造物まで、のろわれた存在になってしまったのです。

 被造物は、自分の意思によって、虚無に服したのではありません。そのことが20節に書かれています。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」

  被造物が、虚無に服したのは、自分の意思によるのではありません。人間の罪によって、被造物が「虚無に服し、」「滅びへの奴隷」とされ、「うめく」ような苦しみを受けることになってしまったのです。

 

  今でも、被造物は、人間の罪のために苦しんでいます。

 あの福島の原発事故によって、多くの人々が、避難を強いられ、命を失いました。そして、それは、人だけではなく、すべての被造物に及んでいます。テレビなど手映し出される、苦しんでいる牛や馬、犬や猫のなど家畜の姿を見ると、とても心が痛みます。それだけではなく、土地全体が「うめき」苦しんでいます。

 また、利益を追求して排出された、PM2・5によって、今多くの人たちだけではなく、被造物全体が苦しんでいます。それは、突き詰めていくと、人間の罪の結果ではないでしょうか。

 

 それでは、どうすれば、被造物はそのような苦しみから解放されるのでしょうか。19~22にそのことが記されています。

19節

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」

  神に造られた被造物は、虚無に服しています。それが、本来の姿に回復するのは、神の子たちの現れる時です。そして、それは、キリストの再臨の時です。

コロサイ3:4(P371)

「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

  キリストの再臨の時、神の子たちは真の姿を現すのです。すなわち栄化されて復活の体に与ることが出来るのです。そして、その時、被造物全てが、本来の姿に回復されるのです。

 

イザヤ11:6~9(P1078)をご覧ください。

このイザヤ書11章は、メシア預言として、よくアドベントに読まれる聖書の箇所ですが、救い主が来られる時に起こる素晴らしい出来事が預言されています。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

 ここには、信じられないような光景が記されています。

 6節にある「狼や、豹、若獅子」、そして、7節にある「熊」は、肉食動物です。

 そのような猛獣が、あの弱くて優しい「子羊や子ヤギ、子牛」などと共に住むというのです。そして、それを小さな子供が導くというのです。

 そして、8節には「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」とあります。そんなことをしたら、私達は大変なことになってしまうと思います。けれども、救い主が来られるとき、それらの動物や人間が一緒に暮らす、本当の平和を経験することが出来るのだというのです。

 

ローマ人への手紙8:18~20

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」

 

 主が、再び来られるとき、すべてのくびきから解き放たれて、ここに預言されているような素晴らしい真の平和が、この世に実現するのです。

 

(3)被造物の栄光

23節

「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

  この23節に「"霊"の初穂をいただいているわたしたち」  と書かれています。

 初穂とは、農作物の収穫の最初のものです。最初のものが収穫されるということは、それに続く大収穫があることをあらわしています。

 イスラエルで良く栽培されているいちじくは、収穫の時期になると、収穫の最初に、わずかな初穂と呼ばれる実がなります。そして、それがなるということは、その後に必ず多くの実を実らせるというしるしです。

 そして、私たちの霊の初穂は、イエス・キリストです。

 Ⅰコリント15:20~21(P321)

 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

  イエス・キリストが初穂となられたということは、キリストの復活と同様、栄化の恵みに与る者が続く、という保証です。

 

 そして、私たちには、全き贖いの希望が与えられているのです。

24~25

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

  23~25には、7回「望む」という言葉が出てきます。

  わたしたちは、やがて来られる主の再臨を、待ち望み、完全な救いの日に、栄化の恵みに与ることを心から、待ち望んでいます。

 そして、その日に希望を置く時に、私たちにどのような苦しみが襲ってきても、わたしたちは、忍耐して待ち望む事が出来るのです。

 

  目に見えない望みをつかんだ人としてあげられる人に、ジョン・バニアンをあげることが出来ます。

 彼は、1628年、イギリスのハローデンで鋳掛屋の息子として生まれました。清教徒革命が起きた時には、陸軍に入りました。

 ジョン・バニアンの日記を見ると、同僚が戦死する姿を見て、死について真剣に考え始めたと書かれています。

 その時は、まだ彼はキリスト者ではありませんでしたが、清教徒であったメリーと結婚した後、1653年25歳の時に、ジョン・キフォード牧師から洗礼を受けました。

 やがて、彼は伝道師となり伝道をしていましたが、1660年11月不法集会を開いたという理由で3ヶ月間収監されました。

 当時のチャールズ2世は、英国国教会以外の教派を弾圧し、ジョン・バニアンに説教を禁じる命令が下されたのです。

 しかし、彼はそれを破って説教をし続けたので、12年間も収監されました。この牢屋の中に入れられた間に「天路歴程」が書かれたのです。

 滅びることになる都を離れ、天の都に向って旅立つ一人の巡礼者の旅路を描いたこの名作は、苦悩と回心、迫害を受けながらも、最後の勝利の希望を抱いて生きた、ジョン・バニアン自身の人生をあらわした作品だと言われています。

 

 最後にもう一度18節を読みましょう。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

 

 私たちに与えられる苦しみは、苦しみに終わることはありません。私たちが、パウロのように忍耐して待ち望むなら、神様は、必ずその苦しみを通してでなければ与えられない栄光を用意して待っていて下さるのです。そして、その栄光は、今の苦しみとは、比べ物にならないほど、素晴らしい栄光なのです。

 「天路歴程」の巡礼者が、その栄光を目指して旅をしたように、また、その「天路歴程」を書いた、ジョン・バニアンが、どのような苦しみの中でも、将来現される栄光を待ち望みながら、ゴールを目指して歩んだように、私たちも、栄光のゴールを目指して、信仰の歩みを全うさせていただきましょう。

 

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祈り会(夜)

毎週水曜日19:30〜

 

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Illustration by c-awase