主日礼拝 1/26

「ただで受けたのだから」マタイ10:1~15

 今日は、山形学院の生徒の方が来られています。この方々は、福島から避難してこられた方々の所に行って、ボランティアをされたそうですが、その報告が、礼拝の後で行われます。楽しみにしていてください。

 

  そして、今日は、齋藤 悠兄の証しを感謝します。齋藤 悠兄は、ホサナ子ども会の教師をしていますが、お友達のために、お金と時間を惜しまずに使っている姿に感動することがあります。何で、時間を使って、お金を使ってここまでできるの?と思う事がありますが、それが、今日の証しではっきり解りました。

 それは、悠くんがまず、神様から愛されて、本当の救いを受けているからです。神様に愛されているから、その愛でお友達を愛する事が出来るのです。

 今日の聖書の箇所は、イエス様が12人の弟子を選ばれ、遣わされる時に語られた言葉です。

 私たちも、神様から選ばれてここにいますが、ここから遣わされて行くのに大切な主の御声を聞かせていただきましょう。

 

今日の中心の御言葉は8節です。

 「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 特に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉を今日は、心に留めたいと思います。

 

 今日、読んでいただいた聖書の箇所は、大きく二つに分かれています。

 一番目の1~4節には、12弟子の任命の記事が書かれ、12弟子の名前が記されています。

 二番目は5~15節で、12弟子が派遣されるための心備えが書かれています。

 

(1)12弟子の任命

1節には12弟子が任命された理由が書かれています。

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」

 イエス様は、12人の弟子を呼び寄せて、働き人として遣わされようとしました。

「弟子」というのは、ギリシャ語では、アポストロスですが、これは「遣わされた者」という意味です。つまり、神様の代表者、大使として世に遣わされた者のことです。

 そして、12弟子の名前が、2~4節に書かれていますが、彼らは決してこの世の身分のある者ではなく、学者のように頭の良い者ではなく、また金持ちでもありませんでした。かえって、彼らは無学で、貧乏で、身分の低い人達でした。神様は、そのような人を用いて、大きな御業を行われるのです。

 まず、2節には、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという4人のガリラヤ湖で漁をしていた漁師の名前が書かれています。

 そして、3節には、6人の人の名前が書かれていますが、その中には、イエス様がよみがえられた時、「この手で、釘あとを触ってみなければ信じない。」といった疑い深いトマスの名前や、当時、罪人呼ばわりされていた、徴税人のマタイの名前も書かれています。

 そして4節には、2人の名前が書かれていますが、その中には、イエス様を裏切って銀貨30枚で売ってしまった、イスカリオテのユダの名前もあります。

 そのように弟子達が選ばれたのは、弟子達に選ばれる価値があったからではありません。また、私たちが何か、選ばれるのに何かふさわしい行いをしたからでもありません。

 ただ、神様の一方的な愛によって選ばれ、それも、イエス・キリストの十字架の贖いによって、最後まで愛し抜かれたのです。

 ヨハネ15:16

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 神様は、私たちを一方的に愛してくださり、選んでくださいました。私たちが、今日ここにいるのは、私たちが選んできたように思いますが、実は、そうではなくて、神様が私たちを愛して、招いてくださったのです。

 20世紀のキリスト教に大きな影響を与えた、カールバルトという神学者がいます。彼が、アメリカを訪問した時のことです。多くの記者達が集まって、カールバルトにこう質問をしました。

「あなたが生涯をかけて神学を研究して、発見した一番大きなことは何ですか。」 多くの人がカールバルトが何を言うのか、耳を傾けました。

 その時に、彼はこう言ったのです。

「神様は私を愛してくださいました。聖書にそれが書かれているという事実が、私が発見した一番驚くべき事です。」

  そして、カールバルトは、記者達の前で、讃美歌を歌ったのです。

「主われを愛す。主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ、我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」

 「主が私を愛してくださるという事実、これよりも偉大な発見は、私にはありません。」

 神様は、独り子であるイエス様を与えて下さるほどに、また、イエス様が、私たちの救いのために十字架で命を与えて下さるほどに、私たちのことを愛しておられます。私たちは、イエス・キリストを信じただけで、その愛をただで受けたのです。ですから、私たちもただで、その愛を人々に伝えさせていただきましょう。

 

(2)12弟子が派遣されるための心備え(5~15節)

①弟子の使命

5~8節

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

  まず、イエス様は、異邦人やサマリヤ人の所ではなく、イスラエルの家に行くように命じられました。それは、救いの業は、イスラエルから始められるというのが、旧約の時代からの神様の御心だったからです。そしてまず、イスラエルの家に行って、、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と命じられました。

 神の国というのは、天国と同じように、神様の御心がこの地上でも完全に行われている社会です。このように、神様の御心を完全に行った人は、今までの歴史の中で誰一人としていませんでした。しかし、今、神の子であるイエス様だけが、この地上で完全に、神様の御心を完全に行い、完全に実現し、また完全に神様の御心に服従したのです。

 そして、そのイエス・キリストがこの地上に来られ、今、生きておられるのです。そして、そのお方によって、全世界に救いの業が実現されようとしているのです。

だから、弟子たちに、『天の国は近づいた』と伝えるように命じられたのです。

 弟子たちの使命、それは、、『天の国は近づいた』と福音を伝えることでした。それは、私たちに与えられた使命も同じです。すでに、このイエス・キリストの十字架と復活によって救いの業は完成しました。ただ、イエス・キリストを私の救い主と信じるだけで、全ての人が救われ、永遠の命が与えられるのです。その福音を伝えることが私たちに与えられた使命です。

 そして、それは言葉だけで伝えられるのではなく、行動で示されなければなりません。

8節

「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

  この言葉には、二つの意味があります。一つは、肉体的な癒しです。わたしたちは、イエス・キリストの名によって癒されることを信じています。

 そして、もう一つは、霊的な癒しです。イエス・キリストの名によって、私たちの霊が癒されます。イエス・キリストの十字架の血潮によってすべての罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられるのです。

 その福音を伝えることが私たちの使命です。そして、神様は私たちを信頼してくださって、全権大使としてこの世に遣わして下さったのです。私たちは神様の全権大使です。その使命を覚えながら、この宣教の働きを全うさせていただきましょう。

 先週21日(月)に、国井 誠兄の葬儀が行われました。72歳という若さで召天されましたが、国井 誠さんの生涯は、救われた喜びに溢れていました。そこには、国井 誠さんの写真が飾られていましたが、それは、本当に素晴らしい笑顔で、お母様の国井ハナさんの写真の笑顔と同じ顔をしていました。国井 巌さんが、弔辞を宣べられましたが、その最初の言葉は、ハレルヤでした。そして巌さんは、「このハレルヤという言葉は父が、いつも言っていた言葉です。今ここに父がいたら、きっと「ハレルヤ」というと思います。」と言っていました。そこには、別れの寂しさはありましたが、確かに天国に行かれたという喜びと希望が溢れていました。

 実は、この巌さんは、しばらく教会を離れて、放蕩息子のような生活をしておられたそうですが、誠さんの病気をきっかけに、教会に行くようになり、そこで、イエス様に立ち返ることが出来たのです。「わたしが、教会に立ち返ることが出来たのはおやじのお陰です」と言っておられました。

 人生を終える時「ハレルヤ」と言える生涯とは、何と素晴らしい生涯でしょうか。そして、神様はその福音を私たちにも委ねて下さっているのです。

 また、水曜日に、山形南部教会の前任の牧師、黒田愛子先生のお見舞いに行ってきました。黒田愛子先生は、山形学院でも長年教師をしておられました。12月末には、体調が悪く、このまま年を越せるか解らないと言っておられましたが、新しい年を迎えて、体調を取り戻し、元気に私を迎えてくださいました。そこで、1時間くらい先生のお話をお聞きしましたが、最後に「わたしはもう90歳です。今度お会いできるかどうかは解りません。でも、私は死ぬのは全然恐くないのです。私の使命が終わったら、神様は私を身元に連れて行ってくださるでしょう。」と言われ、「山形南部教会のみなさんによろしく言ってくださいね。」と言われて帰ってきました。その顔は平安に満ちていて、人生の最後の時に、永遠の命が約束されていることは、本当に素晴らしいことだと思わされました。

 そして、この救いと永遠の命は、イエス・キリストの十字架と復活によって完成し、私たちはただ信じるだけで、ただてこのような素晴らしい恵みに与っているのです。その恵みを覚えて、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言われるこの福音を一人でも多くの人たちに宣べ伝えさせていただきましょう。

②神様への絶対信頼

9~10節

「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」

  イエス様は、弟子たちに、金貨も銀貨も銅貨も、袋も着替えの下着も、履き物も杖も持っていってはならないとおっしゃいました。

 旅行をする時に最低限必要な物はあるはずです。しかし、この時、イエス様は、何も持たずに伝道に出かけるようにおっしゃったのです。それは、なぜでしょうか。それは、全てを与えてくださる神様だけを信頼して伝道をしなさいという、神様への絶対信頼を命じられたのです。

 今、ウェスレアン・ホーリネス教団の20周年を記念して「伝道奮戦記」を発行する予定で、今校正をしています。私たちの教団は、小さな教団で、お金も人材も乏しい教団です。最初の頃は遣わされて行く場所もなく、卒業生は開拓伝道から始まりました。ある伝道者は、パウロが天幕作りをしながら伝道したように、働きながら伝道をしています。しかし、神様はその必要をいつも満たし、祝福してくださっています。

 神様は、神様を信頼する者の必要を満たして下さるお方です。

③平和を持ち運ぶこと

11~13節

「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」

  イエス様は、町や村に入ったら、弟子たちの世話をしてくれる家を探して、その家に「平和があるように」祈りなさいと言われました。

 「平和があるように」と祈ることは、すべてのクリスチャンに委ねられた祈りです。

 「平和があるように」ヘブル語でシャロームという言葉は、旧約聖書の中に237回書かれているそうです。そして、本当の平和は、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられます。

 主イエス・キリストを信じて、主の弟子を受け入れる家庭には、主が与えて下さる平和がとどまるのです。

 それは、今の時代も同じです。

 私が、お見舞いや訪問に行く時に、必ず祈る祈りがあります。それは、「イエス様が共にいて、イエス様の御臨在を持ち運ぶことが出来ますように。」という祈りです。私たちが、福音を携えて町や村に行く時、イエス様も共にいて下さって、神様の御臨在を持ち運ぶことができるのです。そして、私たちをキリストの名の故に受け入れる家庭には、神様の「平和」が満ちあふれます。そして、神様の豊かな祝福に与ることが出来るのです。

 しかし、同じように福音を伝えても、それを受け入れてくれない家庭があります。もし、その福音を受け入れてもらえなければどうなるのでしょうか。せっかく、伝えた福音は無駄になるのでしょうか。

 そうではありません。13節をご覧下さい。ここに「もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」と約束されています。

 一生懸命に福音を伝えても、受け入れてもらえずにがっかりしてしまうことがあります。しかし、そのような時に、この御言葉を思い出して下さい。「もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」  もし、福音が受け入れならないならば、その平和は、わたしたち自身に返ってくるのです。だから、決して福音を宣べ伝えて無駄に終わることはないのです。

 そして、結果は主に委ねればいいのです。

14~15節

「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

  足の埃を払い落とすというのは、奇妙な行動ですが、これは当時普通に行われていた習慣です。それは、「私とあなたは無関係です。」という気持ちを示す象徴的な行為です。

 イエス様は、そのような家を見放すのではなく、弟子たちにそのような行為をさせることによって、その福音を受け入れなかった人々が、悔い改めることを願っておられるのです。

 私たちには、福音を伝える使命が与えられています。しかし、その結果まで、私たちが責任を負う必要はないのです。使命を果たしたら後は主にお委ねしましょう。そして、一人でも多くの人にこの素晴らしい福音を伝えさせていただきましょう。

8節 

「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

  私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮の一方的な恵みによって、ただで救われ、ただで聖められ、永遠の命が与えられています。だから、私たちも、神様の愛に満たされてただて福音を喜んで周りの人々にお伝えしましょう。

 

今週の礼拝メッセージはこちらからご覧いただけます。↑

礼拝案内

 

ホサナ(教会学校)

毎週日曜日  8:45〜

 

主日礼拝 Worship

毎週日曜日10:15〜

 

夕拝 Evening worship

毎週日曜日16:30〜

集会案内

 

フィリア手話の会

毎週火曜日11:00〜

 

キッズブラウン英語教室

毎週土曜日  8:45〜

                    9:35〜

 

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase