主日礼拝 2/9

「肉による同胞のためならば」ローマ9:1~18

 今日、及川恵美姉のお証しを感謝します。

 恵美さんは「証しを書いている内に、なぜか結婚の証しになってしまいました。」とおっしゃっていたそうですが、それだけ、及川さんご夫妻が、神様を第一に家庭を築き上げておられる証しだと思いました。

 ヨシュアが、「わたしとわたしの家とは主に仕えます。」と言いましたが、家族揃って主に仕えている及川家を神様が大きな祝福を与えて下さっているお証しをお聞きすることが出来て本当に感謝です。

 

  ローマの信徒への手紙⒏章で、「福音による輝かしい勝利」についてパウロは語りましたが、今日読んでいただいた9章では、一転してパウロの深い悲しみと、絶え間ない痛みについて語っています。それは、同胞であるユダヤ人が、神様のもとを離れ、イエス・キリストを信じる者を迫害するという大きな罪を犯しているからでした。

 

今日の中心の御言葉は3節です。

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」

 

今朝はこの御言葉を聖書の箇所を3つに分けて御言葉を取り次がせていただきます。

 

(1)パウロの深い悲しみと絶え間ない痛み

1~3節

「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」

 パウロには、非常に深い悲しみと、絶え間ない痛みがありました。それは、パウロの同胞であるイスラエルの民が、福音を拒んで、キリスト者を迫害していたことです。

 3節で、パウロは、自分の同胞であるイスラエルの民の救に対する切なる思いを語っています。

  パウロというと、異邦人伝道に命をかけた人でしたが、パウロは、最後まで同胞であるユダヤ人を愛し続けました。

  パウロは、ユダヤ人として生まれました。そして、パウロがキリスト者になった後も、また、キリストの愛を伝えるが故に、ユダヤ人達にどんなに迫害されても、その同胞であるユダヤ人を愛し、最後まで愛し抜いたのです。

 それは、親子の愛にも譬えられると思います。

 自分の事だけでも大変なのに、子育てまでやってられないと言って、子育てを放棄することは出来ません。親であるならば、子どもを守り育てるのが当たり前です。そして、子どもが間違った歩みをしたり、罪を犯しているならば、自分のことのように、悲しみ、心を痛め、何とか悔い改めて、神様の下へ立ち返るようにととりなすのではないでしょうか。

 神様にとって、イスラエルの民がそうでした。神様は、イスラエルの民に神の子となることと、契約の祝福を与えられました。そして、救い主・イエス・キリストも、このイスラエルの子孫から生まれるようにされたのです。

 しかし、ユダヤ人は、その神様の御心を知ろうとはせず、神様に背を向けて,罪を犯しました。そして、救い主が誕生したにもかかわらず、ねたみによって、救い主を十字架にかけるという取り返しのつかない罪を犯したのです。

 しかし、それにも関わらず、神様はイスラエルの民を愛し続けられました。そして、パウロも、自分の同胞を愛し続け、3節で

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」と言っているのです。

 パウロは、自分に敵対し、迫害をしているユダヤ人をなおも愛し、ユダヤ人が救われるのであれば、自分が見捨てられても構いませんとさえ、言っているのです。

 

 このパウロの姿は、モーセのとりなしの祈りを思い起こさせます。

 モーセがシナイ山に登っている間に、イスラエルの民は、金の牛の象を造って、偶像礼拝をささげます。その罪に対して、神様はイスラエルの民を滅ぼすと言われますが、それに対してモーセはこう祈りました。

出エジプト32:31,32(P148)

「モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」

 この時のモーセも自分の名前があなたの書き記された書から、消し去られても構いませんから、イスラエルの民を救って下さいととりなしの祈りをしています。

 実際には、モーセは、書き記された書から消し去られることはありませんでした。また、パウロも神様から見捨てられることはありませんでした。

 しかし、私たちの救いのために実際に、命を捨ててくださった方がおられるのです。それは、私たちの救い主、イエス・キリストです。イエス・キリストは全人類のためにあの十字架上で執り成しの祈りをしてくださったのです。

 ルカ23:34(P158)

 「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕」

  この執り成しの祈りによって、私たちは、ただイエス・キリストを信じるだけで、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が約束されるのです。

 私たちは、十字架上のイエス・キリストの執り成しの祈りによって、救われました。その恵みを覚えて、私たちも、私たちの同胞のため、日本の人々の救いのために執り成しの祈りをささげましょう。

 2つのJという言葉をお聞きになった事があるでしょうか。

 2つのJというのは、内村鑑三の思想の一つです。一つは、JESUSです。そして、もう一つはJAPANです。内村鑑三は、イエス・キリストを愛するだけではなく、日本への愛国心を忘れませんでした。そして、イエス・キリストを知らない多くの人々のことを覚えて、とりなしの祈りをささげ、日本の救いのために生涯をささげたのです。

 また、バプテスト派の創始者ジョン・スミスは「我に魂を与えよ。しかざれば我、死なん。」ととりなしの祈りをささげ、伝道をしたそうです。

 私たちは、日本の救いのためにどれだけ祈っているでしょうか。日本のすべての人が、救いに与ることが出来るように心から祈る者とさせていただきましょう。

 

(2)約束に従って生まれる子ども

6~8節

「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」

  アブラハムは、祝福の源として選ばれました。そして、創世記15:5で素晴らしい約束を与えられます。

「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

  このような素晴らしい約束が与えられたにもかかわらず、アブラハムとサラはだんだん年を取っても子どもが与えられませんでした。

 そこで、サラが、アブラハムに女奴隷のハガルの所に行くように言い、アブラハムはハガルによってイシュマエルという子どもを与えられたのです。ところが、それは、神様の御心に反する事で、イシュマエルはアブラハムの跡取りとなることは出来ませんでした。

 そして、アブラハムが100歳、サラが90歳になった時に、二人の間に、イサクという子どもが与えられます。そのイサクが、アブラハムの跡取りとなったのです。

  パウロは、ここで、神の約束の子として生きるユダヤ人が、まことのユダヤ人であることを語っています。イシュマエルとイサクの話しからそのことがよく分かります。2人のうち、どちらが、真のユダヤ人であるかを分けたのは、出生の順番ではなく、神の約束でした。イシュマエルは,人間の知恵によって生まれましたが、イサクは神の約束によって生まれました。

 そして、私たちは、イエス・キリストによる新しい契約によって救われた者なので、血筋や民族とは関係なく、新しいイスラエルと呼ばれるのです。

ヘブル9:15

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

  イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。その十字架の贖いによって、私たちは、約束の子とされたのです。

 

  ある金持ちが、両親のいない養護施設を訪問しました。そこには、多くの子ども達がいましたが,彼は一人の子どもを選んで、養子にしました。その子は、金持ちの子どもになって、養父母の財産の相続者となりました。たった一日で、彼の人生が全く代わったのです。何が彼の人生を変えたのでしょうか。理由はただ一つです。自分の努力や良い行いによるのではなく、養父母の選択でした。無条件の選びでした。ただ愛してくれたということだけです。

  それなのに、誰がこの養父がこの子を選んだということに対して、公平だ、不公平だということが出来るでしょうか。選びというのは、公平とか、不公平だとかいう問題ではありません。

 神様の選びというのは、神様からの一方的な愛によって与えられるものです。ですから、選ばれた私たちは、ただ、神様に感謝をすればいいのです。

 アブラハムを選び、イサクを選んで祝福を与えて下さった神様は、私たちをも選んで下さり、「既に約束されている永遠の財産を受け継ぐ」者としてくださいました。その神様に心から感謝して従う者とさせていただきましょう。

 

(3)神の憐れみによるもの

13~16節

 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

  創造主である神様は、絶対的な主権を持っておられるお方です。ですから、神様は、御自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しまれるのです。

 その事の具体的に、ヤコブとエソウという双子の兄弟のことを例に出して明らかにしています。13節には「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書かれています。これは、マラキ1:2,3の引用で、神様が、ヤコブを選ばれたことをあらわしている言葉です。

 イサクの妻リベカは、同時に胎内に二人を宿しました。夫イサクは、アブラハムの正当な跡継ぎでした。ですから、二人とも神様の祝福に与るにふさわしい子ども達でした。

 ところが、神様は、二人が生まれる前に、ヤコブを選ばれました。

 生まれる前ですから、その選びは「行いによるものではありません。」生まれる前ですから、良い行いも、悪い行いも何もできないからです。この選びは、全く主の主権によるものです。16節に

 「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」とあります。神様の選びは,人間の意思や努力によるのではなく、神の憐れみによるものです。

 神様の前には、イサクとイシュマエルも、ヤコブとエソウも罪人です。

 しかし、イサクを選ばれた神様は、イシュマエルも憐れみ祝福してくださいました。また、ヤコブを選ばれた神様は、エソウも憐れんで祝福を与えられたのです。

 神様は、絶対的な主権を持っておられるお方ですが、その神様は、私たちを「意思や努力による」のではなく、一方的に愛し、憐れんで祝福してくださるお方なのです。

 昨日、ソチオリンピックの開会式が行われました。これから、日本の選手の活躍が楽しみです。

 去年、冬季スペシャルオリンピックスが、韓国のピョンチャンで行われました。その開幕式で、22歳の青年が壇上に立ち、きれいな声で韓国の国家を歌い始めました。多くの観衆が、彼に熱い歓声を送りました。

 彼は、パク・モーセというクリスチャンの青年でした。彼は、母の胎にいる時に、生存率が0%に近いと言われていました。彼の頭の後には骨がなく、脳が頭の後から流れ出ていたからです。医者は、母親に流産を勧めましたが、彼女は「この子を通して、神様に栄光をささげることがてきますように。」と神様から授かった命をあきらめませんでした。

 生存率0%と言われた彼ですが,奇跡的に生き続けました。しかし、大脳の90%、小脳の70%を切断するなど、6回の大手術を受けなければなりませんでした。医者達は、たとえ、手術が成功したとしても、見ることも、聞くことも、立つこともできないだろうといいました。

  しかし、神様は再び奇跡を起こしてくださったのです。「ママ」とも言えなかったモーセさんが、5歳の時、主の祈りを暗記するようになり、その後少しずつ話しが出来るようになったのです。そして、7歳で歌を歌うようになりました。両親は、昼も夜も彼女のそばで歌を聴かせてあげました。その時から、歌がモーセさんのすべてになり、障害者合唱団でも活躍するようになったのです。

 スペシャルオリンピックで歌い終わった後、彼は「少し緊張しましたが、うまく歌うことができるという信仰で歌いました。」と笑顔で話しました。

 パク・モーセさんは、今テレビ出演や教会の集会などで招かれ、歌を通して、生きておられる神様と、自分が体験した奇跡を証しておられます。

13~16節

 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

 自分の知恵や努力にたよるのではなく、神様の約束を信頼して、主の素晴らしい御業を見せていただきましょう。

 神様は、私たちを一方的な愛によって、選んで下さり、神様の憐れみによって、救ってくださいました。何という恵みでしょうか。

 その大きな恵みを受けた者として、私たちは何をすべきでしょうか。

最後に3節をご覧ください。

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」

 パウロは、自分を迫害する、同胞のために、「自分が神から見捨てられた者となってもいい」と必死になってとりなしました。そのパウロのように、私たちも今、滅びに向かっている同胞のために、命がけでとりなしの祈りをささげさせていただきましょう。

 

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ホサナ(教会学校)

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毎週日曜日16:30〜

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キッズブラウン英語教室

毎週土曜日  8:45〜

                    9:35〜

 

毎週木曜日 16:00~

 

祈り会(昼)

毎週水曜日10:30〜

 

祈り会(夜)

毎週水曜日19:30〜

 

WE LOVE YAMAGATA
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Illustration by c-awase